孝明天皇が毒殺されたとするアーネスト・サトウの記録
前回の「歴史ノート」で、フランス公使・ロッシュの献策にもとづき、慶喜は慶応三年三月二十五日(1867/4/29)以降に四ヵ国の公使を引見して兵庫開港を実現することを確約し、五月二十四日(6/26)にようやく兵庫開港の勅許を獲得することが出来たことを書いた。
簡単にそれまでの主な出来事をまとめると、慶応二年の七月二十日(1866/8/29)に第十四代将軍の徳川家茂が大坂で死去し、十二月五日(1867/1/10)に徳川慶喜が第十五代将軍に任ぜられている。そして慶喜に対する信頼の厚かった孝明天皇が慶応二年十二月二十五日(1867/1/30)に崩御され、十四歳の睦仁親王(明治天皇)が践祚(せんそ:天子の位を受継ぐこと)され、関白二条斉敬(なりゆき)が摂政となっていた。慶喜が四ヵ国公使と会見をセットしたのは天皇崩御から三ヶ月あとのことであった。
孝明天皇は三十六歳で崩御されたのだが、死因については、当時から暗殺されたとの噂がたっていた。当時日本にいたイギリスの外交官・アーネスト・サトウの記録によると、徳川慶喜が四ヵ国代表と会見を行う大阪に向かう船の上で、天皇の崩御について日本商人と情報交換したことが記されている。
私は、プリンセス・ロイヤル号の甲板で日本の貿易商人数名と会ったが、彼らは近迫した兵庫の開港に大いに関心を持ち、外国人の居留地として適当な場所について大いに意見を吐いていた。また彼らは、天皇(ミカド:孝明天皇)の崩御を知らせてくれ。それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇は外国人に対していかなる譲歩をなすことも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇についてそんな噂のあることを何も聞かなかった。天皇が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生に極めて役立ったことは否定し得ないであろう。
(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(上)』岩波文庫p.234)
サトウは、あくまでも孝明天皇が毒殺されたという噂があったことを述べているにすぎないのだが、「きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々」によって殺されたと書きながら、具体的な名前を一人も挙げていない。にもかかわらず、この本は永い間わが国では禁書として扱われ、昭和十三年に維新資料編纂事務局が翻訳した『英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録』が出版されたのだが、この本は非売品でありながら孝明天皇の毒殺についてかかれた部分がわざわざ伏字にされていることが「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認できる。
この書物が長いあいだ禁書扱いされてきた理由は、明治政府にとって不都合な史実が数多く書かれているからなのか、皇室に関する疑惑について公言していることのいずれかだと考えるが、孝明天皇毒殺説を主張する人々はいったい誰が毒を持ったと考えているのだろうか。
なぜ崩御直後から毒殺説が広がり、誰が怪しいと考えられているのか
Wikipediaには天皇が崩御された直後から、死因について疑問に思われた背景についてこう記されている。
孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。その天皇が数えで36歳にして崩御してしまったことや、幼少の睦仁親王が即位し、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していった状況などから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
ここでも具体的な名前は挙げられていないのだが、誰が怪しいと考えられているのだろうか。
佐々木克著『戊辰戦争』には、怪しい人物の名前が記されている。
天皇の死因については、表面上疱瘡(ほうそう)で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長い間維新史上の謎とされてきた。しかし近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、京都守護職会津藩主松平容保を深く信任し、佐幕的朝廷体制をあくまで維持しようとする、親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。岩倉自身は洛北の岩倉村に住んでおり、行動が不自由で朝廷に近づけなかった。しかし岩倉と固くラインを組み、民間にあって自由に行動し策動しえた大久保利通がいる。大久保は大原重徳や中御門経之ら公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。
(佐々木克著『戊辰戦争』中公新書 p.8~9)
このように佐々木氏は、岩倉具視と大久保利通が黒幕であるとしているのだが、二人が天皇の毒殺を図ろうとした動機に関しては「孝明天皇が親幕派の頂点であった」程度のことしか書いておらず、あまり説得力を感じない。その後佐々木氏は病死説を主張しておられるという。
孝明天皇の主治医の記録では順調に病状は回復していた
しかしながら、孝明天皇の崩御に到る記録には不審な点が多々あるのである。中村彰彦著『幕末入門』(p.267~274)に、孝明天皇の主治医であった伊良子光順(いらこ みつおさ)の日記とメモを分析した、医師である伊良子光孝氏(伊良子光順の曾孫)が解説を加えた「天脈拝診日記」(『滋賀県医師会報』昭和五十年九月号~五十二年六月号)の論文の内容が紹介されている。
慶応二年十二月十二日に発熱があり十五日には持病の痔疾も悪化し、十六日に天皇の体に発疹があらわれ、十七日に疱瘡(ほうそう)であることが確定的になったとある。ところで疱瘡は、患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて二週間以内で回復するそうである。
伊良子光順はかさぶたが出来るのは二十四日から二十六日頃で快方に向かうと見立て、その後天皇の症状は予想通りに進行していった。
『幕末入門』にはこう記されている。
二十四日「今朝の拝診でも昨日と同様、天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。あと数日で御回復と内廷の女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」
二十五日には「この朝の拝診では少し御食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状だが、今少し慎重を期して一両日後にしよう」
(中村彰彦著『幕末入門』中公文庫p.270)
と書かれており、ほとんど疱瘡は平癒していたことになる。ところが、天皇は二十五日、伊良子光順が診察してわずか数時間後に病状が激変したのである。
「七ツ時(午後四時)頃、御痰喘(たんぜん:痰が出てせきこむ)の御様子につき、一同後次の間へ進む。藤木両人御さすり御用に付、御前へ参る。織部正御膏薬御用につき(痔から出血なされたので膏薬を貼ってさしあげるため)御前へ参る。其余御通しのたび毎に昼夜差別なく度々御療治たてまつる」
最期の一文を伊良子光孝氏は、
「それからは血便を無意識のうちにお洩らしになられ、その都度御治療申上げた」と訳しています。そして伊良子光順の日記には、
「同日亥の刻(十時)過、実は崩御」
との記述があらわれます。天皇はにわかに苦しみ出してからわずか六時間後に、悶死してしまったのです。
(同上書 p.270~271)
この病状の変化をどう見るかが、病死説か毒殺説かの分かれ目となるのだが、死に至るほどの重篤な痘瘡は「出血型痘瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なっている。
毒殺説は、どのような毒が、いかにして盛られたと考られているのか
となると、毒殺の可能性が高くなるのだが、法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断されているという。
『幕末入門』にはこう記されている。
やはり医者である伊良子光孝氏もこの考えを支持し、つぎのように述べています。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理がなり立つ」
ここに「痘毒失敗」ということばが見えるのは、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それも不成功と知って砒素を盛った、という説もあるからです。天皇は文字を書く時、筆先を噛んでやわらかくする癖があった。その筆先を硯の墨につけるわけですから、墨汁に痘瘡を入れておけば筆先から菌が口内に入る、と説く人もいます。
では砒素はどのようにして盛られたのかというと、
「天皇は一日三回薬(煎薬)を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものとみて間違いないだろう」
と伊良子光孝氏は書いています。
(同上書 p.272~273)
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ容易に入手でき、無味無臭なので食物や飲み物に混ぜても気づかれないものだそうだ。砒素は体内に入ると粘液を腐らせ、胃腸その他からの出血を引き起こし、天皇の血便は痔疾からではなく胃腸からの出血であり、もだえ苦しんだのは急性ヒ素中毒によるものとしている。
しかしながら、岩倉具視も大久保利通も、孝明天皇の近くにはいなかったはずだ。それなら誰が毒を盛ったのか。前掲書にはこう解説されている。
では砒素はどのようにして盛られたのかというと、
「天皇は一日三回薬(煎薬)を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものとみて間違いないだろう」
と伊良子光孝氏は書いています。
その薬は侍医が直接天皇に手渡すのではなく、女官によって届けられるシステムでした。ですから孝明天皇毒殺説を支持するひとは、当然女官に疑惑の目を向けることになり、巷説によれば一服盛りたてまつったのは岩倉具視の姪の堀川の局、指示したのは尊攘派公卿として謹慎させられていた岩倉具視その人だということになります。
堀川局は一時孝明天皇の寝所に侍ったものの、すでにお召しの声は遠のいていた。そこで堀川局は天皇を怨み、岩倉の命に従ったのだと考える人もあれば、岩倉の背後には薩摩の大久保一蔵(利通)がいたと見る人もいます。
(同上書 p273~274)
岩倉具視は公卿・堀河康親の次男で、岩倉具慶の養子となったが、妹に紀子(もとこ)がいた。『幕末入門』に書かれている「堀川の局」とは正しくは岩倉具視の妹の「堀河紀子」で、嘉永五年に孝明天皇の後宮に入り二皇女をもうけたがともに夭折したという。人名事典などに書かれているのは、和宮降嫁を兄・岩倉具視とともに推進したため、朝廷内の尊攘派に弾劾され辞官隠居したとある。慶応二年(1866年)に孝明天皇が崩御された頃に御所に仕えていたという話とは矛盾するのである。毒を盛った人物がいたとしたら、別の人物ではないだろうか。
廷臣二十二卿列参事件で幕府支持を鮮明にした孝明天皇
佐々木克著『戊辰戦争』に、大久保が食い込んでいた公卿として大原重徳や中御門経之の名前が挙がっている。慶応二年(1866年)に長州征討が幕府軍の敗北に終わると、八月十八日の政変(文久三年:1863年)などで追放された尊攘派の公家を朝廷に復帰させるべきだという声が大きくなり、慶応二年八月三十日(1866/10/8)に大原重徳、中御門経之ら二十二名の公家が朝廷に押しかけ、佐幕派であった関白の二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾する騒擾事件が発生した(廷臣二十二卿列参事件)。孝明天皇はこれをしりぞけ、逆に二十二名に謹慎処分を下し、幕府に信頼を寄せていることを内外に示したのである。この事件はWikipediaに書かれているが、この事件についてはもっと注目すべきではないだろうか。
この事件から四か月も経たないうちに孝明天皇が崩御され、その後処分を受けた公家たちは謹慎が解かれて復帰している。特に中御門経之は倒幕の密勅に関与し、署名した人物でもある。廷臣二十二卿列参事件は、もし孝明天皇毒殺説が正しいとすれば、その動機にもつながる重要な事件だと思うのだが、Wikipediaにはこの事件の背後には岩倉具視の策謀があったとする説があることが書かれている。
一方、薩摩藩はこれまで、幕府が主導権を取って兵庫港を開港すれば、横浜と同様に、幕府だけが貿易で潤うことになるので、そのようになることだけはなんとしてでも回避したいと考えていた。しかし、孝明天皇の信任が厚い徳川慶喜が将軍に就任したことは、薩摩藩にとってはその最悪の事態となりうることを強く懸念していたのである。
廷臣二十二卿列参事件の背後には、もしかすると薩摩藩も動いていて、朝廷に尊攘派公家を多数復帰させて、幕府主導の兵庫開港を阻もうと考えたことも考えられる。
薩摩藩に孝明天皇の排除を望む考えが存在した可能性
萩原延壽著『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄4』に、慶喜が将軍となった二日後に西郷隆盛がアーネスト・サトウを訪ねた時の記録が紹介されている。まず、西郷は徳川慶喜と孝明天皇の関係について次のように答えている。
西郷:一橋(慶喜)はいま、たいへん天皇に気にいられています。かれは、自分が望めば関白にもなれるでしょう。かれは水戸家の出である自分の弟の民部大輔(徳川昭武)を、継承者のいない清水家の当主にすえ、大使としてフランスへ派遣しようとしています。
萩原延壽著『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄4』朝日文庫 p.143
西郷が、孝明天皇に気にいられている徳川慶喜が将軍になっては、薩摩藩としては当面打つ手はなく、慶喜の正体をあばくのに三年ほどかかるとのではないかと言うと、サトウが三年は長すぎると述べ、われわれにとっては日本が幕府によって統治されようと、諸大名の連邦国家になろうと関係がないと答えたのち、兵庫開港についての薩摩藩の意見を尋ねている。西郷は兵庫港が幕府の私利を肥やすようになることは望んでいないと答え、さらにつぎのように会話が続いている。
西郷:兵庫開港に関連する一切の事項を、五名ないし六名の大名からなる委員会の手に委ねることによってです。そうすれば、この委員会は、幕府が利益を独占するために勝手に行動するのを防ぐことが出来るのでしょう。…
兵庫は、われわれにとって、きわめて重要な港です。われわれはみな大坂の商人に金を借りています。それを返済するために、われわれは毎年藩の物産を大坂の商人に送り届けなければなりません。もし、兵庫が横浜と同じ仕方で開港されるならば、われわれの財政は大混乱をきたすでしょう。
サトウ:なぜあなたがたが兵庫をそれほど重視するのか、よくわかりました。兵庫問題は、あなたがたの最後の拠点なのですね。ともかく、明年の兵庫開港までに、あなたがたが万事に決着をつけることが出来ないのは非常に残念です。
(同上書 p.148~149)
このように薩摩藩にとっては、幕府主導で兵庫が開港された場合は、借金返済が不可能となり、藩財政上の大問題となることを述べている。しかしながら、諸外国にとっては兵庫港がどのような形で開港されようが関係はない。幕府主導で開港されたとしても、一旦開港されたなら、その後日本で内乱が起こることは歓迎できず、安全に貿易できることを最優先とし、討幕派を支持する可能性はなくなる。そのことを薩摩藩は、何度もイギリスから聴かされていたのである。
このサトウと西郷との対談のわずか五日後の十二月十二日に孝明天皇が発熱され十二月二十五日に崩御されたわけだが、これは果たして偶然であったのか。公式記録には絶対に書き残されない内容であるので資料で確認することは不可能だが、薩摩藩に孝明天皇の排除を望む考えが存在した可能性については否定できないのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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