ロシアの敵国のイギリスと『日英和親条約』を締結
前回の「歴史ノート」で、条約交渉終了後に帰国するための船を失ったロシア使節の一行を助けたのはアメリカの船であったことを書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』で、この時期のわが国をめぐる世界情勢についてこう解説している。
日本開国の嘉永・安政の際には、日本は露・米・英・仏諸国の東洋における競争の中心という程でなかったにせよ、ほとんどそれに近かった。而してその間に露国対英仏のクリミア戦争は出来し、これが為にいよいよその事情を複雑ならしめ、ややもすれば、日本をば、右交戦国の戦争の舞台足らしめんとする危険が生じ来たった…。
かくの如く、一方には英仏対露国あるとともに、他方には米国と露国との関係も、また多少の曲折無いではなかった。米人はその出先に於いて少なくとも露人に好意を表するという程ではなかったが、敵視するが如きことはなく、寧ろ英仏対露国の交闘に乗じて自己の利を専らにせんと欲したものであろう。されば局外中立の条規に、公然と相反せざる限りに於いては、露人のためにその便宜を供給することを遅疑しなかった。是はもとより相当の代償を取りたる上のことだ。すなわち露人を露国領土内に送還するために、船舶を供給したるが如き、その著明なる例と言わねばならぬ。
(『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』p.307~308)
もし幕府が対応を誤れば、わが国が欧米列強による戦争の舞台になる危険性があったというのだが、わが国はクリミア戦争の敵国同士であるイギリス及びロシアと条約交渉を相次いで行ったのである。この二国との交渉は、非常な危険を伴うものであったはずなのだが、幕府はいかにしてこの問題をクリアしたのだろうか。
以前このブログでも書いた通り、嘉永七年閏七月十五日(1854/9/7)にイギリスの東インド・中国艦隊司令官スターリング率いる四艘の軍船が長崎に入港し、もしロシアが日本の港内にあれば、戦闘することについて許可を得たいとの上申書を提出している。スターリングが長崎に来たのは、プチャーチンが長崎にいるという連絡を受け、これを拿捕するという目的があったのだが、ロシア艦隊はすでに長崎を去っていた。
長崎では長崎奉行・水野忠徳は、イギリスもわが国との条約交渉に来たものと考えて、幕府の許可を得たのち談判が八月十三日から開始されている。実はスターリングには、外交交渉については任務に含まれていなかったのだが、今後のロシアとの戦争のことを考えると、食糧の補給や船舶の修理、けが人の手当て、利用できる港の特定など両国で取り決めるべきこと多く、特に日本にとっては、湾内での交戦を禁止することも条約文に織り込みたかったようである。
第二回目の談判で水野忠徳は、こう発言している。
当時貴国とロシアと戦争あるがために、港を開きたくとあれど、日本に於いては、海外万国素より敵なし。しかるを今戦争によって港を開くときは、ロシアに限らず、その余の国々を貴国のために、新たに日本の敵となすの道理にて、是より日本に戦争起こり、あまたの人々禍にかかることは的然なれば、諸国の平安を旨と致さるるブリタニア(英国)王に於いても、また悪(にく)まるるところなるべし。戦争のために開く港になき上は、敵より取り得る所の品、または船など囲いおくことなしがたし。…
たとえ敵船と逢う事あるも、…港内は勿論、日本の地方近き沖合にて、戦争は相ならず候こと。
(同上書 p.351~352)
このように水野忠徳は、結構イギリスに言うべきことを言っていることがわかる。
『日英和親条約』の和文は、同上書のp.379~384に全文が掲載されているが、この条約でわが国は長崎と箱館を英国に開放し、薪水の供給を認めた。また、罪を犯した船員の引き渡しや、片務的最恵国待遇などの規則が定められているが、領事派遣に関する規定は無く、さらに、条約港に来航した英国船は日本法に従うことが義務付けられている。
スターリングは日本と条約を結ぶ指示を受けておらずその交渉を行う権利を有していなかったのだが、この条約は北方でロシア海軍と交戦を行う上で、日本での補給が行えるメリットがあり、イギリス本国もこの条約を追認した。
充分な準備をせずに訪日したスターリングと条約交渉ができたことは、日本にとって幸運であったと考えて良いだろう。もしこの時に条約を締結していなければわが国は、クリミア戦争に勝利した後の英国と交渉することとなり、勝ちに乗じて日本に臨む場合の彼らの要求はもっと過大なものになっていた可能性が高く、条約港に来航した英国船は日本法に従うというような規定はまず成立し得なかったであろう。また、交渉当時はイギリスとロシアは交戦中であったので、日本の沿岸地域や港近辺が戦場となった場合に、地域民が被害を受けたり、物資の補給や傷病人の手当てなどに巻き込まれていてもおかしくなかったのである。
ファビウスの海軍創設提案と『日蘭和親条約』
欧米列強が日本周辺で活動を活発化する中で、長崎奉行の水野忠徳は、長崎出島のオランダ商館長のクルティウスに今後のわが国の国防の在り方について諮問している。そしてクルティウスは、ペリーが二度目に来航した嘉永七年(1854)に、オランダ軍艦スンビン号艦長ファビウスと協議し、意見書を水野に提出している。
ファビウスの意見書の内容は、要するに、日本も欧米列強と同様に海軍を創設すべきである。そのためには軍艦を運航する士官や兵を育てるための海軍兵学校を作る必要があり、オランダは教員の養成などに力を貸す用意があるというものであった。
水野忠徳は何度もファビウスに質問し、その案を日本の国情に合うように修正し、閏七月二十日(1854/9/12)付にて海軍創設計画を老中阿部正弘に上申している。
水野の意見書は幕府に認められ海軍兵学校(長崎海軍伝習所)の創設が決定し、九月二十日(1854/11/10)付にて軍艦二隻がオランダに発注されている。また安政二年八月二十五日(1855/10/5)にオランダ国王から軍艦スームビングが幕府に献上され、幕府はこれを「観光艦」と命名している。
ところでオランダは、三代将軍家光が寛永十六年(1639年)にポルトガル船の入港を禁止して以降、長きにわたり欧米で唯一わが国との交易が続けられてきた国なのだが、貿易港は長崎の出島に限られ、しかもオランダ人は出島に監禁されていて自由な行動が許されていなかった。ところが、新たに国交を求めて来たアメリカには箱館や下田の開港が認められ、アメリカ人には入港後に上陸してある程度の行動の自由が認められていたのである。オランダが、アメリカに認めたことについては自国にも認めて欲しいと強く要望したのは極めて当然のことであった。
クルティウスが、長崎海軍伝習所の教官をあっせんする条件として日蘭条約の締結が必要であることを力説し、老中阿部正弘もそれを了解して、安政二年十二月二十三日(1856/1/30)に『日蘭和親条約』が締結されている。
条約全文と解説が同上書のp.531以降に出ているが、例えばその第一条には「一 オランダ国へこれまで差し許し候場所へ警固人これ無く、出島より出行候儀、勝手次第たるべき事」とあり、これにより、ようやくオランダ人が長崎市街に出入りが自由となったのであるが、細則を読み進むと、他国の領には行くな、外出の際は断りを入れろ、夜は出歩くな、市場など人出の多い所は立ち寄るな等、結構窮屈なことが書かれている。それでも、オランダ人は満足したということは、よほどそれまでは自由がなかったということである。
長崎海軍伝習所では軍艦の操縦だけでなく、語学や航海術、造船学、機関学、算術、医学など様々な教育が行われ、オランダからは優秀な教員が集められ、伝習生は幕府だけでなく各藩から俊秀が集められていた。勝海舟や榎本武揚、川村純義、五代友厚、田中久重も選抜されてここで学んだという。安政四年(1857年)に築地に軍艦操練所が新設されると、多数の幕府伝習生は築地に教員として移動し安政六年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖されてしまったのだが、多くの卒業生たちが幕府海軍や各藩の海軍、明治維新後の日本海軍などで活躍した。
下田の玉泉寺に止宿していたアメリカ人の退去問題
前回の「歴史ノート」で、下田にいたロシア使節がアメリカ船の乗員を歓待し、江戸幕府に何の相談もなく玉泉寺にアメリカ人を宿泊させたことを書いた。ディアナ号を失ったロシアの使節は『日露和親条約』締結後、日本人の大工がロシア人の指導のもとに製作した「へダ号」や、下田に入港して来たアメリカ船に分乗して去っていったのだが、玉泉寺にはアメリカ人のリードとドハーティの二人とその家族が残っていて、その後も居残る意志表示をしていたのである。
ロシア使節からも二人に帰国を要請していたのだが埒が明かず、安政二年三月六日(1855/4/22)と七日に下田奉行が玉泉寺を訪れ退去を迫っている。ところが、この二家族は箱館駐在の領事の任務に就く予定で日本に来て、ここでアメリカ政府よりの命令を待っていると述べ、二人は下田奉行宛に宛てた覚書を提出したのである。
驚いた下田奉行らは、ロシア人を帰国させるためにやむなく下田に上陸したが、アメリカ船が着けば帰国するという内容に覚書の書き直しを命じ、三月二十一日以降四度にわたって退去を促した。ところが、たまたま二十七日にアメリカ軍艦二隻(ヴィンセンス号、ヘンコック号)が下田港に入港し、ヴィンセンス号のロジャース提督が近海の測量の実施を要請して来たのだが、領事として赴任予定である二人が帰国を迫られていることに強く抗議している。
大正十四年に出版された『幕末下田開港史』に、ロジャース提督が記した長文の抗議書の全文が出ているが、そこにはこう書かれている。
合衆国との条約は、重事を与る誓書なること、我に於いて疑いなし。将に君に於いても知弁する所ならん。右条約にして日本政府と合衆国と平穏の趣意なるを知るべし。
条約は人民互いの制約にして、一統の法則なれば、他に対し釋くべきものにあらず。もし合衆国と貴国政府との間に於いて差支えある時は、是を日本全権合衆国に使いし、あるいは合衆国の使節日本に来たりて定べし。然るときはその趣意双方に於いて治定すべし。
(『幕末下田開港史』p.255~256)
このような抗議書を入手したのだが、下田奉行らは四月六日に玉泉寺、米艦を訪ねて、アメリカ人の玉泉寺止宿を正式に拒絶したのである。
そして十二日には、ロシア使節をカムチャッカ半島のペトロパブロフスクに送り届けたアメリカの船が下田に戻ってきたので、下田奉行はその船にアメリカ人二人を乗せて四月二十一日(1855/6/5)に下田を退去させている。
少し補足しておくと、領事を置く条件については『日米和親条約』第十一条に、和文では「両国政府が必要と認めた場合は、本条約調印より18ヵ月経過後に、米国政府は下田に領事を置くことが出来る」と書かれている。『日米和親条約』が締結されたのは嘉永七年三月三日(1854/3/31)なので、この条文を普通に読めば、領事を置くことが出来るのは安政二年八月二十日(1855/9/30)を経過した後でなければならず、しかも日本側の同意が必要であるとの解釈になる。しかも、二人が書いた覚書によると、二人とも正式な辞令は出ておらず、アメリカ政府からの発令を待っていた状況にあった。遭難した船に乗っていたわけでもないので、上陸して長期間玉泉寺に宿泊させることの根拠は乏しく、下田奉行が条約違反を根拠に追い出したことは当然だということになる。
しかしながら、以前このブログで何度か書いたとおり、この条約の第十一条は和文の条約と英文の条約内容が異なっていた。
英文の第十一条を意訳すると「両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヵ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる」とあり、アメリカ単独の判断で領事を置くことが出来るとなっていた。
ところが、アメリカがこの二人を領事とする目的で送り込むには時期的に早すぎたこと、漂着民でもないのに下田に止宿する根拠がないことは認めざるを得なかったと思われる。下田奉行が二人の受け入れを拒絶したことについては、その後あまり大きな問題にはならずに済んだようである。
アメリカ大統領のフランクリン・ピアースが、1855年8月4日にタウンゼント・ハリスを初代の駐日領事に任命している。ハリスがニューヨークを出発したのは同年10月17日で、ヨーロッパから香港を経て下田に到着したのは安政三年七月二十一日(1856/8/21)なのだが、このハリスも到着早々下田奉行に入港を拒否された記録が残っている。その点については次回の「歴史ノート」に記すこととしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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