このブログで「中国排日」について何本かの記事を書いてきた。中国に於ける排日運動が活発化したのは、第一次大戦後の一九一九年(大正八年)に開催されたパリ講和会議においてわが国が提案した人種差別撤廃案が否決された以降のことである。この時に中国人に排日運動を仕掛けたのは英米人の宣教師であったことが記録されているのだが、このことは戦後の歴史叙述の中でお目にかかることは滅多にない。
利権獲得後宣教師を送り込み、病院、学校を建てた欧米列強
しかし、このような工作活動がいきなり実を結ぶとは考えにくい。中国に何らかの権益を得た列強諸国は、さらなる権益拡大のための活動を早くから積極的に行っていたと考える方が自然である。「神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫」で、その点に関して面白い記事を見つけたので紹介することとしたい。
上の画像は大正四年(1915年)一月六日から「大阪毎日新聞」で掲載された「日支不親和の一因」という連載記事だが、支那に於ける自国の権益拡大のために西洋列強がいかにして支那民衆から支持を得ようと動いたかがこの記事に記されている。
基督(キリスト)教の支那に宣伝せらるるや既に久しく、而して欧米各国が宣教師を利用してその勢力の扶植に成功しつつあることもまた顕著なる事実なり。支那の二十二行省中、宣教師の足跡を印せざる処、殆んど之なしというも敢て過言にあらず。各省の大都には必ず一二宣教師のあるありて、或は病院を起し、或は牧畜を営み、或は学校を起し、其地方民に少からざる尊敬を受けつつあり。
満洲の如き、日本の勢圏に入りてより将に十年に垂んとするに拘らず、支那人に対する慈善事業、教育事業等は、今において猶見るに足るものなく、之を満洲各地における基督教会の事業に比し、寧ろ遜色あるにあらずや。明治四十年初めて吉林に我が領事館の設置せらるるや、新任領事故嶋川毅三郎氏を驚かしたるものは支那人の排日熱にあらずして、寧ろ吉林郊外に二十六年間在留して専心布教に努めつつありし一宣教師の信望の大なるにありき。奉天における天主教の病院の信用は、我赤十字病院に数倍し、其附属小学校の如き、多数支那孤児を収容して完全なる教育を施しつつあり。
邦人の経営する対支那人慈善事業にして、果して之と匹敵するに足るものありや。鉄嶺においては、一昨々年頃、支那向きの教育機関設置せられ、一ヶ年の期間を劃して速成的の日本語を授け、更に研究科を設けて日本留学希望者に相当の便宜を与うる方針の下に、事業を進めたる筈なるも、其(その)成績については其後杳として聞く処なく、旅順、奉天等にも亦(また)同様の計画ありしも、未だ其功程の言うに足るものなきなり。満洲に於て既に此の如し、其他は推して知るべきのみ。
大正4年1月4~6日 大阪毎日新聞 「日支不親和の一因」神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫
欧米列国は権益を手にするや宣教師を送り込み、病院や学校を建設して地元民との交流をはかりながらそれなりの効果が出ていたのだが、わが国には目ぼしい成果が出ていなかったと書かれている。
在留邦人の為に布教所を開設しただけの東西本願寺
では欧米列強はどの程度の宣教師を送り込んだのであろうか。この記事には、続いてこう記されている。
試みに満洲以外の地を撿せんか、先ず之を湖南に見よ。辛亥革命前、湖南に在留したる英、米、独、仏の宣教師は二百二十三名なりしが、革命乱後に至りて三百十六名に激増し其信徒の数は五千三百六十余名に達し、而して各附属学堂において養成しつつある男女学生は三千六百八十名の多数を有せり。彼等は学校、病院等の設備の外に、時々電気、光学、機械等の講師を聘して各地を巡廻せしめ、青年の教導に努めつつあるを以て、多少文字ある青年等は競って彼等の門下に馳するの観を呈し、一般青年は外語学を知るを以て誇りとなし、其結果各学校の支那人教師が好んで英語を以て教授するを悦ぶの風を助長するに至り、且無智識の土民は、宣教師といえば、如何なるものをも知らざるなきが如くに思惟して之を尊敬するがため、宣教師は其勢力を利用して自国会社商店の事業にも多大の援助を与え、中には之が手先を勤むるものすらなきにあらず。斯く各国宣教師が夫々自国の為に利権伸張の先導をなしつつあるに反して、湖南省民の最も嫌悪するものは日本人なりというにあらずや。取らずんば則ち奪わる、彼の勢力扶植は軈て我の退嬰萎縮を意味するものにあらざらんや。
湖南省における基督教病院の数は、現在十七箇を算し、之が施療を受くるもの年々増加し、殊に米国エール大学派の伝道事業に属するエール病院の如き、最も支那上下の信用を博しつつあり。此種の慈善的事業は支那各省これなきはなく、湖南一省を以て支那全土を類推するを得べく、湖南には利害関係最も薄き米国の宗教家が、最も活動しつつあるが如きも看過すべからざる現象にあらずや。
支那における基督教は、天主教最も信望を有し、蒙古、新疆、西蔵方面にも勢力を扶植しつつあるが、近来新教も亦次第に地盤を開拓しつつあるが如し。彼等が斯くの如く未開の内地に踏み込みて祖国の為に利権伸張の先導をなすは、一には其資力の豊富なるによるべしと雖も、又一には其信仰力と執着力との強くして百折不撓の気象に富むの結果なりと言わざるべからず。日本の宗教家、慈善家等は、之に対して慙色なきを得るや否や。国交親善の要諦は、実に其双互人心の結合にあり。此点において宗教的慈善的事業の施設は外交上重大なる一要件たらずんばあらず。然るに今日本宗教団の支那に対する活動如何を見るに、日本基督教徒の活動は殆ど言うに足らずして、唯僅に東西両本願寺及び同仁会、赤十字社等が幾何かの努力をなしつつあるを知るのみ。しかも其規模の小にして施設の貧弱なる、之を欧米諸国に比すれば霄壌(しょうじょう)も啻(ただ)ならざる*なり。
大正4年1月4~6日 大阪毎日新聞 「日支不親和の一因」神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫
*霄壌も啻ならざる:天と地ほどの違いがある
過去欧米列強が海外に植民地を拡大していく際に、宣教師をその先兵として送り込み、現地住民に布教を進めてきた歴史があるのだが、キリスト教の布教拡大のほかに、自国製品の商圏を拡大して本国に利益をもたらし、ライバル国の参入を排除することなど多くの目的があったと理解すべきだと思う。
わが国もそれなりに努力し、同仁会が北京などに病院を建設したのだが、欧米の教会附属病院の実績には大きく及ばない。またわが国の宗教界も中国に布教拠点を設置したのだが、東西両本願寺が努力をしていたものの、さしたる成果は出ていなかった。
東西両本願寺の布教状態に至りては、更に不満足なるものあり。日本の仏教徒が支那において基督教の如く自由の行動を許されざるは、其事業の振わざる一原因にして、此拘束を除去し得ざる外交の罪亦多しと雖も、又何ぞ両本願寺の計画の消極的にして自ら外交を率いるが如き猛進的気概を有せざるの甚しきや。
西本願寺は、現在旅順、営口、遼陽、奉天、鉄嶺、安東県、北京、上海、漢口、香港等に布教所を有し、東本願寺は大連、旅順、安東県、天津、芝罘、漳州(福建)、泉州(福建)、上海、四川等に布教所、若しくは布教師を置くも、邦人の葬祭に際して読経する以外に何等の活動をもなさざるなり。支那における英国の宣教師中医業を兼ぬるもの四百三十五人を有し、各種の手段により支那人を引付けつつあるに比し、全く顔色なきなり。
欧米宗教家等が、国家に貢献しつつあること右の如し。而して各国政府も亦精神的に支那人を誘導するの利益を悟り、着々此方面の計画を進めつつあり。米国が北京に米国留学生養成の清華学堂を設けたるが如き、独逸が青島に独支大学を建設したるが如き、英仏両国が支那の各地に実業学校を起さんとしつつあるが如き、仏国が支那に鉄道学校を開かんとしつつあるが如き、一々枚挙するに暇あらず。
大正4年1月4~6日 大阪毎日新聞 「日支不親和の一因」神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫
日本の仏教界は現地住民の布教をどこまで考えていたのだろうか。大正6年刊『本願寺職員録』を見ると、西本願寺は「支那開教教務所」を設置していて、二十七名の布教師と六名の布教師補を派遣していたことがわかる。
「開教」とは海外で仏教を広めることを意味するが、湖南だけで三百名もの宣教師を送っていた欧米列強の布教活動とは勝負にならなかった。ましてや、「病院」と「教育」をセットで布教に取り組まれては勝ち目はない。
日本政府が布教問題を軽視していた
しかしながら、この問題は仏教界の努力が不足していたというのではなく、政府側の外交努力に大いに問題があったようだ。同年の四月二十六日付大阪新報の記事を見てみよう。
支那に於いて我仏教を自由に伝道すること、即ち現に宣教師が支那に於て基督(キリスト)教を宣伝しつつあると同様に支那内地に於いて自由に我仏教を伝道し得ることを、我外交当局が支那政府に要求せることに就いて、支那在住の宣教師が悪感を懐いて、日本は仏教伝道を名として、支那の国家を奪い取らんとするものであると、誣告の言論を擅(ほしいまま)にし、支那政府を煽動し、本国政府に訴うる等、あらゆる妨害運動を試み、遺憾無く商売気質を発揮しつつあるは甚だ以て不埒千万である。仏教も基督教も共に宗教である以上は、基督教徒と同様に我仏教が支那に伝道するの自由を有するのは当然のことではないか。
大正4年4月26日 大阪新報 神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫
欧米の宣教師から「日本は支那を奪い取ろうとしている」と批難され、支那政府にも圧力をかけてわが国が仏教の布教を妨害したのだが、わが政府にこの問題を本気で解決しようとする姿勢が欠如していたのである。記者は「基督教徒が支那に宣教の自由を有するが当然であるとすると、仏教徒も亦支那に自由に伝道し得るのが当然であるべき」と述べているが、その通りだと思う。わが政府が布教問題を軽んじたことが、のちに大きな災いとなるのだ。
上の画像は、同年の5月15日から東京朝日新聞で連載された「布教権問題」の記事だが、そこには政府の外交姿勢を批難し、次のように記されている。
世上一般が宗教関係の事項に暗きの致す所か。而かも交渉漸く困難となるや、政府は四月二十六日の修正案に於て、『布教権の件は他日の交渉に譲り、警察に関する件、及び寺院用地に関する件は之を撤回』したり。政府の意恐らくは、警察に関しては事重大なるを以て之を徹し、布教並に寺院用地は、重要ならざるを以て之を譲らんとに在らん。支那若し此時我修正案を容れたりとせんか即ち如何、警察権並に布教及び寺院用地の件は、我国今日の外交を以てしては、半永久的に浮ぶ瀬なからんとす。条理と事情との上に確信を有せざるべからざる国際交渉の条件に対して、譲歩又譲歩、軽忽に之を撤回せんとするが如き、何等苟且(こうしょ:その場限りの)の行為そや。東洋平和、支那保全、爾かく濫用に値する権威なき文字に非ず。東洋政策の根本義に照したる帝国の政策に偽りなしとせば、之を貫徹せずんば、即ち東洋百年の平和保維せられざるの道理ならずや。
大正4年5月15日 東京朝日新聞 神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫
わが国には清国との条約で最恵国待遇が認められており、欧米列強が布教権を行使していることで、わが国も同様に行使すれば良かっただけのことなのだが、欧米の圧力を受けた支那政府から自由な布教活動を拒絶されてしまう。その後の交渉でわが政府は譲歩を重ね、結局布教権の問題解決を先送りしてしまった。
植民地に統治において最初に地域の民衆を味方につけることを重視した欧米に対し、わが政府には布教の自由についての重要性の認識が決定的に不足していた。そのために、のちにわが国は支那の排日運動、日貨排斥のためにひどい目にあうこととなるのだが、もしわが国の仏教界が中国民衆の布教に成功していたら、あれほどひどい排日運動は起らなかったとも考えられるのだ。
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