幕末から明治にかけての歴史について、菊池寛がいろいろ面白い本を書いている。前回紹介した『大衆明治史』もいいが、『明治文明綺談』という本には幕末から明治にかけて、西洋の最新の文化・文明機器にふれたわが国の面白い話題が満載である。
慶応三年(幕府瓦解の前年)パリで開かれた万国博覧会に、将軍慶喜の実弟徳川昭武が日本代表として乗り込んだ。職員は公使核の向山隼人正、組頭は田邊太一(三宅雪嶺氏の岳父)そのほか、渋沢篤太夫(栄一)の名も見える。
一行は、当時進行中であった幕府の対仏借款六百万ドルをあてにして出かけたのだが、この借款が途中で停頓してしまったため、天涯萬里の異郷にあって、旅費に窮してしまった。
そこで花のパリから日本まで、わざわざ外国電報で送金を頼んでいるが、これが恐らく日本人によって、海外電報を利用した最初ではあるまいか。その電文は、向山隼人正発で、
「御勘定奉行小栗上野介へ、クーレーより金あらず、直ちにオリエンタル・バンクに為替取り組むべし、向山」
クーレーというのは、前述の六百万ドル借款問題で仏公使ロッシュの黒幕として暗躍し、一行と一緒にフランスに渡って行った男である。大西洋の海底通信が通じたのが慶応二年だから、この電報は出来立ての線によってサンフランシスコのオリエンタル銀行の支店にとどき、それから船便で日本に届いているわけである。
しかも、その年の秋、将軍慶喜の大政奉還の報は、遠くヨーロッパにある将軍名代たる昭武全権一行のもとまで発せられている。
電文は、
「日本の形勢大いによろし、人々大君(徳川将軍)を信仰す。政権及び、職号の事につき大君建言の旨ありしが、十一月三十日、国内の大名一同会議するまでは、御門よりこれまでの通り大君に委ねられたる政制一定するに至るべし」
と、頗(すこぶ)る楽観的のものである。日本における曠古の大政変は、電信の発達によってパリの新聞紙にも発表されているだろうから、一行が、新聞を読んで、心配しているといけないからという心遣いから、こんな楽観的な電報を打ったに違いない。いづれ、姑息な老中の誰かがやった小細工であろう。
この電報は、前の送金の電報とは逆回りで、香港まで船で運ばれ、ここから海底電信で正論に打電される。正論からは、陸路ペテスブルクよりトルコを経てパリにまで電報としてとどいたのである。セイロン・パリ間は五日を要するとあるから、船便の日数を加えても、江戸からパリまで二週間ぐらいで届いたことと思う。
(菊池寛 著『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.32~35)
いずれにしても、大政奉還という大事件が、幕府自らの手でパリまで打電されているという事実は、興味深いものがあるではないか。…
パリ万博の話はこのブログでも書いたが、この博覧会は1867年11月3日(慶応三年十月八日)まで開催され、その六日後に将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上している(大政奉還)。
渋沢栄一の自叙伝によると、年の暮れごろにパリの新聞などで徳川慶喜が政権を返上したことが伝えられたのだが、徳川昭武をはじめ多くのメンバーがその報道を信じなかったと書かれている。渋沢は、幕府から送られた全権一行宛ての電信については、自叙伝では何も触れていないが、たしかに「 日本の形勢大いによろし 」で始まる電文を読んで、母国で大政変が起きたとはだれも思わないことだろう。
維新後の新政府は、西洋の文明機器を一日も早く取り入れようとした。明治二年に政府は、わが国にも電信網を敷設しようとしている。しかし、電信を理解しない民衆が工事の邪魔をした記録が各地で残されている。
八月九日、横浜燈明台局より同裁判所に開設されたものがこれである。
つづいて政府は外人技師を聘し、京浜間に工事を起こして、同年十二月二十五日開通を見るにいたった。時の外国官判事、寺島宗則が主として尽力したが、彼は島津斉彬によって伝記研究を命ぜられ、中原猶介の助手格でその電信機製造に加わったことがある。まさに適任とも言うべきであろう。築地に電信局を置き、料金はカナ一字につき銀一分というから、ずいぶん高い。
大阪神戸間に開通したのが翌三年十月、当時の布令の、「伝信機は、幾百里隔たる場所にても、人馬の労を省き、線の達する場所までは音信を一瞬に通達する至妙の機関なり」と、その効用を吹聴自賛しているが、料金が高いので、利用する者ははじめは稀れであった。しかし文明政策に邁進した明治政府はその普及に努力し、線条なども明治二年に八里強であったのが、明治十一年には三千里にも達している。努めたりというべきであろう。
鉄道開設の時は、主唱者である大隈の生命が狙われるなど、囂々たる世論の反対を巻き起こしたが、電信の場合は、費用も鉄道ほどかからなかったせいか、政治上の反対はそれほどではなかった。
ただ、電信というものに対する民衆の無知や、頑固なる保守主義の人たちによって相当に妨害されて、電信受難の時代が相当長くつづいている。一番多い妨害は、電線切断で、これにはずいぶん政府も手を焼いている。
「新聞雑誌」五十三号(五年七月)に、次のような記事がある。
「近頃尾州より帰りし人の話に、尾州より東京までの模様を通視せるに、駿遠の間は、電信機に礫をなげ、十に六七は破損せり。また柱には種々のらくがきありて、その疎漏なる見るべからず。三尾の間には之に反し、柱の根には囲いを設け、人をして触れることなからしめ、少しも電線の破損せるを見ずと言えり」
とあるが、電柱に一々囲いをつくるなど、当局の苦心のほども察せられよう。明治初期、横浜の先覚者たる高島嘉右衛門の直話に、ある日、彼が知事の寺島宗則に面会に行き、対談中のところ、下僚が入ってきて、知事に向かい、
「昨夜も、何処どこで電線が何本も切り取られました」
と、報告したところ、寺島は悠然と、
「仕方がない。政府は繋ぎ役、人民は切り役として、当分は繋いでいればよい」
と、答えた。高島は、
「なるほど、諸藩士中には、斯の如き宏量の人物もありけり。この人ならば政治をとるの器局なりと大いに感じたることなり」と感心している。……中略……電線切断も、単に悪戯ならばそれほどでもないが、これが迷信と結びついた場合、事態は深刻である。
中国筋では、電信は切支丹の魔法で、その電線には処女の生き血を塗るため、軒口の個数番号の順に娘を召捕に来るといううわさが広まり、そのため大恐慌を起こして、眉を落とし歯を染める娘が続出し、電信線の切断倒壊数知れずという有様であった。また九州地方は、保守派の中心地であったため、電信線など西洋渡来のものを白眼視する傾向が強かった。神風連は殊に極端で、彼らは昔のままの丁髷(ちょんまげ)に、大刀を腰にさして、熊本市内を闊歩していたが、彼らは決して電信線の下をくぐらず、また止むを得なくてくぐるときにはセンスを頭の上で開いて通ったという。
また奥州方面では、「今度、電信を架けるそうだ」という話が、どう間違ったのか、伝染病を引っ張ってくるというので、電線妨害をするものが多く、役所を手こずらしている。また「千里百里隔たっていても互いに行くというから、息子が何処そこにいるから、これを届けて貰おうといって、電線へ風呂敷をしばりつける」者もあったという珍談を、当時の新聞紙は伝えている。
しかし、月日の経過とともに、電信の便利が段々に一般にも分ってきた。
(同上書 p.36~)
明治四年正月、有名な廣澤参議の暗殺事件があったとき、木戸孝允、大久保利通などの政府要人はおりから高知に出張中であったが、この時の飛報は、電信のため、米国に行っていた伊藤博文の方へ先に届いたという。また翌五年、在米中の大久保利通の売った電報は、海陸五千五百里を、四時間で長崎に達した。海底電線が上海長崎間に通じたのは、明治四年六月だから、日本も漸く世界の通信網に参加したことになる。もっとも、長崎東京間の電信は通じていなかったから、この電報が長崎から東京へ届くのに、飛脚船で三昼夜を要している。
今では世界中の情報が瞬時に伝わる便利な世の中になっているが、明治期は電信網を敷設するだけで、政府は随分苦労した。当時の新聞記事は『新聞集成明治編年史. 第一卷』に重要な記事や面白い記事が紹介されているが、菊池寛が具体例を挙げている新聞記事がいくつか収録されている。
上の画像は明治五年四月の記事で、「安芸長門辺にて種々の邪説を生じ」とあるので広島県から山口県で実際に起こったことのようである。庶民が無知でそのような行為を行ったのか、電線敷設によって飛脚で生計を立てていた人々などが、工事を妨害する意図でワザと流言飛語を流したという可能性も考えられる。
遠方に情報を瞬時に伝えることを可能にする電信機の普及は国民から歓迎されたこととだれでも考えてしまうところだが、現代人からすれば信じられないような妨害活動が全国で行われていたのである。
菊池寛の本にはこのような面白い話題が多くて楽しめる。
以下のリストは菊池寛が幕末から明治にかけての激動の時代を著した歴史読み物である。
タイトル *印太字はGHQ焚書 | 著者・編者 | 出版社 | 国立国会図書館URL | 出版年 |
維新戦争物語 世界戦争物語全集 ; 3 | 菊池寛 | 新日本社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718007 | 昭和12 |
建設期の明治 | 菊池寛 | 汎洋社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和16 |
大衆維新史読本 | 菊池寛 | モダン日本社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和14 |
大衆明治史. 上巻 | 菊池寛 | 汎洋社 | 国立国会図書館に蔵書なし あるいはデジタル化未済 | 昭和16 |
*大衆明治史. 下巻 | 菊池寛 | 汎洋社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878 | 昭和16 |
大衆明治史 : 國民版 | 菊池寛 | 汎洋社 | デジタル化されているがネット非公開 | 昭和17 |
東郷平八郎・乃木希典 日本歴史物語全集 ; 10 | 菊池寛 | 新日本社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718005 | 昭和11 |
*日清日露戦争物語 : 附・アジアの盟主日本 世界戦争物語全集 ; 5 | 菊池寛 | 新日本社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1718008 | 昭和12 |
*明治海将伝 | 菊池寛 | 万里閣 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463799 | 昭和15 |
明治史話 : 事件と人物 | 菊池寛 | 汎洋社 | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908685 | 昭和19 |
明治文明綺談 | 菊池寛 | 六興商会出版部, | https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877 | 昭和18 |
以下の本は電子書籍が販売されている。
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