北京の各国公使館区域の籠城者救出劇
明治三十三年(1900年)六月に北京の各国公使館区域が二十万人を超えるという義和団に包囲され、さらに清軍が加わって清国は列国に対して宣戦布告するに至った。
公使館区域には四千人以上の各国外交官、居留民、護衛兵、キリスト教徒らが籠城を余儀なくされていたのだが、彼らを守る兵力は四百余名の陸戦隊と、俄かに居住者の中から編成された義勇軍だけであった。
北京の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。列国の増援軍も次第に到着し、日露英米独仏伊墺の約二万人の八ヵ国連合軍が結成されたのだが、総兵力の半数近くは日本兵だったという。連合軍は七月十四日に天津を占領し、八月五日頃に北京に向かって進軍を開始した。
対する清朝軍と義和団は、兵の数は多く士気も高かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。
一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』(GHQ焚書)でこう記している。
連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、八月十四日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した。
(菊池寛著『大衆明治史(国民版)』汎洋社 昭和17年刊 p.235~236)
印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後三時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達しているが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う。
救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。六十日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵(もうじん: 難を避けて、都から逃げ出すこと)したのであった。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に柴田常吉, 深谷駒吉が撮影した『北清事変写真帖』という本が公開されている。多くの写真が掲載されているが、上の画像は日本公使館の隣の粛親王府の焼け跡で、相当激しい戦闘が行われたことがわかる。
世界が絶賛した日本軍
この清朝末期の動乱を、日本では「義和団の乱」「北清事変」、中国では「庚子事変」などと呼んでいるのだが、北京進攻までに大沽砲台・天津攻略戦などの激戦があり、全期間にわたり双方で多くの死傷者が出ている。
中村粲(あきら)著『大東亜戦争への道』には「連合軍死傷者総数約六百名のうち、我兵の死傷は二百五十名、死者に至っては五十一名中五十名」とあり、日本軍の犠牲者が特に多かった。世界は日本軍の貢献について高い評価を与えたという。
ウッドハウス瑛子著『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本に、八月二十八日付ロンドンタイムスの社説が紹介されている。
列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している・・・・・・列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお陰である……日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である……
(ウッドハウス瑛子著『北京燃ゆ』東洋経済新報社 平成元年刊p.111)
また八月十八日付スタンダード紙の社説では
義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しもが認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ、他の追随を許さないものである……
(同上書 p.112)
と日本軍を絶賛しているのである。
「文明国」の軍隊の実態
では、連合国軍に参加した他国の軍隊はどうであったのか。
再び『大衆明治史』の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。
その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった。
(『大衆明治史(国民版)』 p.237~238)
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克(ジャンク:木造帆船)を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという。
英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。
各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。
また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
「通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、五百七十三人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が石を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…」*「今度の通州事件」:昭和十二年(1937)七月二十九日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。
(同上書 p.238~239)
当時の外国人の記録も残っている。北清事変の翌年に出版された『北清戦史 下』という本に英国紙の社説が紹介されている。
英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
斎木寛直 編『北清戦史. 下』博文館 明治34年刊 p.152~154
「…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…中略…
露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵十五人が十一歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。
(同上書 p.155)
各国の軍隊と対照的な日本軍
ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
前掲の『北京燃ゆ』に、当時『タイムズ』の北京特派員として籠城を余儀なくされたG.E.モリソンの記録が紹介されている。それによると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀二百五十万両と「一個師団を一年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮萬寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌十五日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。
列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。
一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ』には、こう記されている。
ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は八月十九日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ、「男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている。
(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)
三国干渉を行った国の清国への巨額な賠償金要求
義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(一億八千万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(一億三千万円)、ついでフランス(一億六百万円)、イギリス(六千五百万円)と続き、わが国は第五位(五千万円)だったという。日清戦争の後わが国に三国干渉を行った三国の何れもが巨額の賠償金を要求し、わが国が最も少額であったことを知るべきである。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。
柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、一九〇一年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説き、翌年に彼は日英同盟の交渉に立ち会うこととなる。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、戦後の歴史教科書や解説書、マスコミの解説などでは、このあたりの事情にほとんど触れることがない。
北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているが、「文明国」とされている国の軍隊が北清事変後で何をなしたかについて、多くの人々に知ってもらいたいものだと思う。
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