『満蒙開拓青少年義勇軍現地通信集』(GHQ焚書)を読む

満州関連

 前回まで二回に分けて『満蒙開拓青少年義勇軍概要』(GHQ焚書)の内容の一部を紹介させていただいたが、十六歳〜十九歳の青少年が親元を離れて満州に送り込まれ、かなり危険な地域に入植することになった者が少なからずいたようだ。

 GHQ焚書リストの中に、青少年義勇軍のメンバーからの手紙を集めて拓務省拓務局が編纂した『満蒙開拓青少年義勇軍現地通信集』という冊子がある。青少年義勇軍に選ばれた者は、茨城県にあった「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」で三ヶ月の学習と基礎訓練を受けた後に満州国の現地訓練所で三ヶ年の訓練を受け、その後義勇隊開拓団として指定された地域に入植したのだが、この冊子に寄せられた原稿はすべて満洲国の現地訓練所で訓練を受けている最中に記されており、この文章では、彼らが入植後にどのような危険な体験をしたかについてはわからない。しかしながら、これまでの訓練を通して、彼らが危険な地域に送られることを覚悟していることを記した手紙が少なからず掲載されているいるので一部を紹介させていただく。

満蒙開拓青少年義勇軍現地訓練所所在地図 部分(黒竜江の上はソ連領、右は日本海)

 最初に紹介する文章は、嫩江のんこう訓練所で訓練中の井上智将君(新潟県出身)の手紙である。嫩江は本冊子の「満蒙開拓青少年義勇軍現地訓練所所在地図」で確認すると、満洲北部でもかなり奥地にあり、ソ連国境にも近い場所であることが分かる。

…只今では零下何十度の寒さも、いとわず、吾等は元気に働いております。越後の方も大分寒くなって来たでしょう。目の前に楽しい春が来ています。今日本は建国以来始めての大きな転換期に立っています。最早小さな島国の日本ではありません。大陸日本です。大きな躍進が始まったのです。日本の真実、世界の日本として力強く躍進の巨步を歩み出したという事実は誰人も認めざるを得ないでしょう。 同時に吾々国民に一段と覚悟と緊張と努力を要求している事は申す迄も有りません。
 此の時我が大陸発展の一大先駆として満蒙開拓青少年義勇軍の大きな制度が出来上ったという事は誠に意義深い事であります。…中略…

 何故青少年義勇軍というか、私の素人考えも申述べて見ましょう。それは吾等の様な青少年が多数渡満すること、ただそれだけで我が国、大陸国防の第一線は強化されるのであると思います吾等は兵隊さんの様に射撃や国境の警備を專門にするのでもなく、内地にいると同じ様に学科を覚え、鍬を取っていてそれで大きな立派な義勇奉公となるからです。

 吾等は数日後に各地に訓練所の建設の為建築班として出発します。私の行く所は鏡泊湖の附近の沙蘭領という所です。本県出身者は孫呉といつて此の国境の黒河の近くです。私は医務係となつて行きます。当地は共匪の巣といわれております。一寸の油断も出來ません。皆んな張り切つて居ります。将来の事を考えながら弾の下くらい、匪賊の影くらいは見て置かなければならないと思います。大きくなって、入植する地は、相当匪賊の多い所であると覚悟しています。またその様である事を期待しています。…中略…

 私は言う。来給え満蒙の新天地へ。そして仲良く、王道楽土建設に邁進しようではないか。待っている。満蒙の未開の沃野は君たちの渡満を予期して待っているのだ。…中略…

 吾等が鍬を振って北満の沃野を踏む事は日本の夢。諸君の夢を実現させる事だ。青少年の使命を果す事だ。
同時に国策という民族理想を顕現させる事だ。 ここに至っていよいよ崇高なる民族的理想に統合されると思われる。
大地に立って遠き、吾等の将来を想え終りに夕陽も凍る北満の荒野で皆様の弥栄を祈る。
『満蒙開拓青少年義勇軍概要』拓務省拓務局 昭和13年刊 p.19-21

 このように井上君は自分の入植地がどこであるかを知らされており、かなり危険な場所であることを認識していたようである。

『満蒙開拓青少年義勇軍概要』より (訓練書名不明)

 次の文章は同じ訓練所の奥野久二君(大阪出身)の手紙である。

 入所以来早や一ヶ月以上毎日多忙で骨を休める暇もありませんでした。最初は粟めしで困りましたが一ヶ月の修養訓練の御蔭で所内での生活もスッカリ馴れ、この頃では元気で面白く楽しく暮しています。
 最初は色々なデマがとんで屯墾病とんこんびょう*も大分出ましたが、今ではシッカリした自分の歩く道を定め、此の大事業を遂行せんの意気みで努力して居ります。
*屯墾病:満蒙開拓青少年義勇軍」などの開拓団員、特に若年層の間で多発した激しいホームシックやノイローゼ。

 宿舍も今はアンベラ造りの仮のもので本建築作業中なのです。十月には入る事になっています。季候はさすが北満で、四月二十五日到着の日も雫下二、三度でした。また五月三日には大雪でしたが僅か二十日ばかりの雨にスッカリ初夏になつて日中などやけつきそうです。朝の食前作業は点呼礼拝後、片道三キロ半のところまで建築用の材木を運びに行くのです。これにも始めは弱りましたが人間というものは偉いものですね。練習と修養さえやれば何でも出来るのですから。大阪班も二十六名しか居りませんが、二百三百の他府県には決してまけてはいないのですからご安心ください。
 しかしし不思議な事に、先遣隊その他の人々から大阪はどうも生意気だいわれるのが残念です。やはり文化に浴した人間は話がうまいから又口数が多いかららしいです。

 今度は一つ自分が警備勤務中に有つた面白い事を書きましょう。モウ三週間も前の事ですが衛兵所で居眠りをしておりますと突然銃声がきこえ、所長先生も起きられ直ちに幹部三名控兵五名(五名の内一名自分)斥候に出ましたが。ぬかるみで膝を沒する悪路です。一キロ程行くとモウ三時。突然明け方の暗を破って「止れ」と来た。ビクとしましたが幹部の方の命令で直ちに伏せ、よく見ますと分遣隊の斥候と分ったのです。そこで幹部の先生と分遣隊の者の話中に東天に紅がさして来ました。銃声もいつか止み異状無い様なので幹部一名と自分一名で所長先生に報告に帰りました。報告がすむと一度に気が抜けたようでした。出る時は必ず匪賊に遭う様な氣がして、これが最後だと覚悟までしたのです。何も訳なく足が慄えましたが歩いている内にいつか止みました。匪賊とこそ遭はなかったのですが、たしかに良い経験でした。当地の畑は周囲二里半も三里もあるようなものばかりです。十五丁も一うねの長さがあります。自分達村崎中隊の蔬菜畑は一うね一里で畑の幅が半里です。本当に内地などで想像も出来ぬことです。到着当時の一面の枯野原も今モウ一面緑の広原です。所々毛布の様に黒々と畑が見えます。実に雄大の天地です。神は吾々大和民族に今この大地を活躍舞台として下さったのでしょう。
十年後にはキット大阪村の建設を致しましょう。
同上書 p.48-50

 「うね」というのは畑で作物をつくるために細長く直線状に土を盛り上げたところを指すが、「十五丁」というのは1.636km。村崎中隊の蔬菜畑はうねの長さが一里(3.93km)で畑の幅が半里(1.96km)もあったというから畑一周するのに三時間近くかかるというとんでもない広さである。家畜の遊牧で生活する人々が多かった満州の名物は緑の地平線で、広大な草原が広がっていて、開墾可能な土地はいくらでも存在したのである。

『満蒙開拓青少年義勇軍概要』より (訓練書名不明)

 次の文章も同じ嫩江訓練所のメンバーが記したものだが、個人ではなく、和歌山県出身の「先遣隊一同」が書いた手紙である。「先遣隊」というのは、本体よりも先に派遣された部隊という意味だが、彼らが訓練所の施設を拵えて、を迎える準備をしたようである。

…希望の明け暮れを送る我々の嫩江青年王国に早や四ヶ月を迎えました。義勇軍先遣隊として、なおまた故郷有田郡の海外雄飛の先遣隊として、益々その自覚に燃えて男性的なるこの曠野にハンマーを握り銃を執り鍬を打込んでる姿、一目なりとも見せたきニュースです。
 我々が入所した時分どうだった。荒びれて時折、シベリヤおろしが吹き渡り、四方は唯白銀の波の丘だつた。雪解けて茫々たる平原枯木一本も無く、見渡せど見渡せど果てしもあらぬ曠原だった
其の中に取り残された島の様な馬家堡の部落に千五百名の若人がカーキ色の服に身をかためて突っ立ったのです。

 当然来るべき食糧送缺だから、粟飯も食べ沢庵で副食をすました日もあった。唯アンペラ(むしろ)の下で転寝ごろねをして、幾百里離れて故郷の空の下に想い走らして夢に見る事が一番楽しみだった。「先遣隊なればこそ」と辛苦に苦勞を重ねて今漸く春の蕾が出て参りました。
 四方の野原に百花爛漫として咲き乱れ、名も知らぬ美しき小鳥の囀りとともに地上のパラダイスが一時に開かれました。我々の手によって本建築の宿舍が徐々として完成に近付きつつあります。
毎日二棟三棟と競争の様に棟を上げる事が何よりも一番楽しい事となって仕舞いました。斯くして去る七月一日第二大隊を迎えると同時に我々も亦中隊の本建築へ移りました。
 自分等で宿舍を建て、自分等で炊事をやり、自分達で作った野菜で自分等が戴くという自力更生の花弁は今世の夏と共に開いたのです。「住めば都よ我が里よ」といことが今ではしっかりと僕等の脳裡にしまわれました。都会の騷音も知らず世情も愛慾も知らないこの広漢千里の北満に居る方が、今の我々にはかえってよいのです。そして辛苦を重ねたあの時分を想い出しては語り合う夜毎の話に持出して花を咲かせる事が楽しい今日こんにちとなりました。義勇軍として北満に生を亨けた我々は、世界の中で一番幸福者であろうと思っております。

「匪賊にも死するもよけれ 君が代のこの国策の捨て石として」
と埋骨の意気固く出発した故郷の想い出が、今日に良き回想の一つとなって巡って参ります。
 されど今の時局は現状は如何に。ソ満国境に、風雲急迫、第二の世界大戦が展開され様としている。また砲煙渦卷く北支、中支には依然として勇猛果敢なる皇軍の進撃は続き、敵の大塁徐州は陷落したれど、漢口へ漢口へと急追緩めず、 空に飛ぶ荒鷲、 海に浮ぶ鉄の城は大長江を圧し、今や決死の大会戦が行われんとしているのだ。かくして新五色旗の下に尊き護国の英霊が眠り逝く事を我々は一瞬も忘れてはならない。
 老いたる父母、 幼き児、病弱の妻を捨てて、ただ一途大君のため世界平和のため馳せ参ずる大和丈夫ますらおなればこそ、東洋永遠の平和の駒は進むのだ。
 島国日本より大陸日本へ移動せねばならぬ。神国日本の今の状態です。
 我々もまた帝国青年として第二国防線へ副い、盟邦建設の道へ邁進せねばならぬ。人間じんかん到る所青山せいざん在り(骨を埋める場所はどこにでもある)」だ。我々の大使命は、若身じゃくしんなれど命を賭して目的達成に進まねばならぬ。
 皇軍将兵の苦労を想えば我々の辛苦は何になろう。むしろこの楽しさは故郷にいたって味わえないことだと思う
 諸君よ、帝国青年たらば来たれ。血腥ちなまぐさき北支、中支の戦況を知る時、我等青年はヂットしておられぬ若き魂の昂奮を感じるだろう。将兵と同様に所こそ変われ国に尽くす忠誠に変わる所があろうか。「義勇軍として国策の第一線に飛んでこい」と我々は叫びたいくらいだ。今日この講習会に参席された諸君に、遙か北満の空よりこの言葉を差し上げたい。
同上書 p.55-57

 彼らは、ソ満国境に戦争の危機があり、支那事変がいずれ大きな戦争に発展する危険性を十分に理解していたし、訓練を終えた後に彼らが送られる場所がもっと危険な地域であることも分かっていたのである。

満蒙開拓青少年義勇軍現地訓練所所在地図

 最後に鐵驪てつれい訓練所の生虫明稔君(岡山県出身)の手紙を紹介しよう。

…四月二十三日内地猛訓練もめでたく終わり祖国日本にしばしの別れを告げ、渡満の第一歩を歩み出してよりはや六ケ月をついやしました。幸に現地訓練所入所以来風邪一つひかず、大変元気にて我等の進むべき道、また我等養勇軍に科せられし重大任務を果すに、いささか努力致しておりますれば何卒御安心下さいませ。

 少し当地及当訓練所の樣子を御知らせ致します。当地は御知りの様に北満の地にて、交通その他未だとても聞けていません。当地には満人すらあまり住んでいません。広々とした沃野にして雜草が野原一面多く繁って内地の川原の様です。雑草は私等の身長位もあります。でも満人は住んでいます。満人の家の近くには少しの耕地があり、生活に必要な食物をつくり、自給自足の生活をなしています。

 当訓練所南西一里の所に鐵驪町があります。鐵驪町には日本守備隊もあり、また満拓会社の事務所す。警察署もあり、健康署もあります。人口は日本人五十名、満人は五百人位と思います。鐵驪町には未だ鉄道が通っていません。しかし今年の十月頃には開通すると聞いています。義勇軍の食べものなんかは、満拓会社のトラックが毎日一回当地より三十三里位の綏化すいかという町まで取りに行っています。当地は一度雨が降れば五日位交通ができなくなります。道という程の道なんか有りません。でも当地に義勇軍の訓練所ができたので鐵驪町が非常に良い所となったとの内地人の話です。当地より五里位北方には、非常に強い共産匪が多く住んでるとの守備隊長の話です。此の間も守備隊が全部出動しました。

 私等は鐵驪町の警備に付きました。二三日前にも当地より七里位ある安拜あんぱいに住んでいる満人が十五名も匪賊に拉致されたとの情報があり、私等も夜中に警備につきました。当地も夏が去り秋の候となりました。当地の暑さは内地の暑さより過し良いかと存じます。日中など百十二度位も上りますが、一度家の中とか木の下などに入るととても凉しいのです。

 次に当訓練所の様子を少しばかり、私等は鐵驪訓練所の先遣隊二隊として入所しました私等が入所した時の家は内地では見られぬ珍らしいといった方が良いような家でした。ちょうど内地の豚小屋の樣な宿舍でした。そして私等は毎日訓練所の本建築を戦争の様にして造り上げ、私等の弟分第二次義勇軍の後継部隊千五百名を入所させました今では義勇軍訓練所本部の建築も殆んど出来上っています。義勇軍全員二千三百名が造り上げたのです。私等は二大隊の本部付となるのです。先遣隊の三ヶ中隊が各三大隊の本部付となるのです。私等の二大隊の宿舍も今月中には出来上がります。耕地の方も義勇軍の生徒のトラクターが十五台も元気よく、楽土建設に力を出して活動しています。

 入所当時、何百年か一度も鍬を入れた事もないかと思われた地、今では思もよらない様な立派な耕地となりました。農村青年の進む所、往く所、それは私等若人の修養活動の大道場たる満洲国の当地、北満の地かと思います。満洲名物、緑の地平線上に私等若人二千五百名が、上着を取って働く様を御想像下さいませ。私は幸福です。今祖国日本の非常時を思い、岡山県出身者も皆んな元気よく働いています。時折内地の新聞にて支那に活躍されている皇軍の力強い活動にはげまされ感謝しつつ私等の進むべき道を強く壮健に進んでいます。やがて満洲国も立派な世界の多数の国に負けぬ強い国となり、祖国日本の弟分として、東洋平和いや世界平和をつくり上げんとしています。

 私等は多年多数の英霊の眠っている満洲の地にて活動されんことを、日本男子の本懐ではないかと思います。昼は作業手に鍬、夜は警備手に銃を持って、私等の新天地楽士建設に努めています私の信念は、また私等の真の出世は、人力のあらんかぎりを尽くし満洲の土となる事と思っています。私は二次三次と続いて来る義勇軍を心強く思っています。
同上書 p.60-62

 「王道楽土を建設し五族共和を目指す」という高い理想を持つことで、極寒の地で匪賊が出没する危険な地域での農地開拓や建物建築などの肉体労働や警備業務等を耐え抜いた彼らであったが、昭和二十年八月九日、ソ連軍が満洲国境を越えて侵略を開始すると関東軍は満洲を捨てて早々と朝鮮半島に後退したため、満洲開拓団の人々や青少年義勇軍は置き去られてしまった。彼らの逃避行がかなり悲惨なものであったことは、体験者の手記などに残されている。敗戦時に満洲にいた日本人は約百五十五万人だったというが、死者二十万人の内約四割が満蒙開拓団や青少年義勇軍のメンバーであったと言われている。

『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会 1966年刊 p.500

 『満州開拓史』に、『満蒙開拓青少年義勇軍概要』に何人かの青少年義勇軍のメンバーが手紙を寄せていた嫩江のんこう訓練所の終戦時における在籍者が何人死亡し、何人が未帰還で、何人が帰還したしたかがまとめられている。在籍者二三〇八名中、死亡四〇二、未帰還二二七、帰還一六七九という数字は、満蒙開拓団の中では多い方なのかどうかはよくわからないが、嫩江訓練所の訓練を終えて満蒙奥地に入植した先輩のメンバーたちはもっと苛酷な経験をしたのではないだろうか。
 ソ連兵と戦って戦死した者、自決した者、匪賊に襲撃された者、シベリアに抑留された者などが相当いて、特に満州奥地に入植した満蒙開拓団や青少年義勇軍から多くの犠牲者が出たはずなのだが、詳しいことは分かっていない。終戦直後で満洲で起きたことについては戦後のマスコミが取扱うことは殆んど無いと思うのだが、この史実を一人でも多くの人に知っていただき、満洲移民の真実を風化させないようにしたいものである。

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