わが国から派遣された官吏は満洲国の行政にどの程度関与したか
前回記事で関東軍が満洲の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満洲は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配し跋扈する無法地帯であった。
黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。
そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代アジアにおける歴史の奇跡として銘記されるべきだろう。
『日本の植民地の真実』扶桑社 2003年刊 p.302
関東軍が満洲の匪賊を討伐したといっても、それで匪賊が完全にいなくなるようなものでもなく、治安維持のためには武装警察の力が不可欠であった。
そこで民生部警務司の下に警察制度が整備された。日本の陸軍士官学校出身の臧式毅(ぞうしきき)民政部長の下で、初代の警務司長には偉才の甘粕正彦が就任し、警察の組織化が推進された。
こうした結果、中国との一部国境地帯を除き、満洲の治安は良好となり、僻地においても列車旅行が可能になった。
同上書 p.303
その後満洲国は近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せていくのであるが、国家の理念がしっかりしていてかつ官吏が余程優秀でなければそうはいかないだろう。しかしながら建国直後の満洲国の人口の大半は漢人で、他に満洲人、朝鮮人、日本人と民族は様々で考え方も異なり、かつ国民の八割は文字が読めなかった。

満洲国が成立した一九三二年三月一日に対外に発表された『満洲国建国宣言』には、「王道」という中華思想と「楽土」という仏教思想、さらに「民族協和」という多民族社会の共存共栄と、近代的な産業社会と法治国家の建設が謳われている。長文なので後半の一部だけを紹介したい。
竊(ひそか)に惟(おも)うに政は道に本づき道は天に基く、新国家建設の旨は一に天に順(したが)い民を安んずるを主とす。施政は必ず真正の民意に徇(したが)い私見を存する事を容(ゆる)さず、凡(およ)そ新国家の領土内に居住する者は皆種族の岐視、尊卑の分別なし。原有の漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除く外、即ち其他の国人と雖(いえど)も長久に居住を願う者も亦(また)平等の待遇を享くる事を得、其当に得べき権利を保障し、其をして絲毫(しごう)の侵損あらしめず、並に極力往日の黒暗政治を鏟除(さんじょ)し、法律の改良を求め、地方自治を励行し広く人材を収めて賢俊を登用し、実を奨励し金融を統一し富源を開闢し生計を維持し警政を調練し匪禍を粛正す。更に進んで言えば教育の普及は当に礼教を崇ぶべし。王道主義を実行して必ず境内一切の民族をして煕々皓々(ききこうこう)として春台に登るが如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型となさんとす。
『明治天皇の御懿徳と満洲国』萬朝報社 昭和七年刊 p.185-186

満洲国政府最初の総務長官に就任した駒井徳三が昭和八年(1933年)に著した『大満洲国建設録』という本がある。民族や思想の違いを乗り越えてできたばかりの満洲国をリードしていくために、彼は最初に何をしなければならないと考えたのか。
満洲国政府最初の総務長官としての私は、日系官吏を代表して、排日系、中立系、親日系その他私の考え雑然たる満洲国官吏を強く握りしめて、これを立国の意図通りにリードして行くべき必要と責任とを痛切に感じた。
では、それがためには、満洲国における政治は何処までも公明正大に強く、明るく、朗らかでなければならぬ。苟(いやしく)も従来軍閥政権の下に醸(かも)された賄賂政治的臭気ならびにスパイ政治的暗影を徹底的に排撃しなければならぬと思った。と同時にこの際私が是非とも実行しなければならぬとしたところは、満洲国における中央集権制の確立、群(むらが)り来たる各種利権屋の排除、紊乱極まれる幣制の統一、更に進んでは満洲国を一個の完全なる独立国家として我が祖国日本に承認せしめることであり、これこそ新国家の誕生をことぶく最大の祝辞であり、私の果たさねばならぬ重大任務であると確信し、私はひたむきに駑馬(どば)に鞭(むちう)ちて勇往邁進した。 …中略…私は今、何故に私が中央集権制の確立を強く主張したかについて、少しくその理由を語るべき必要を感ずる。…私はこう考える。支那における政治の腐敗混乱はもともと地方分権制にその禍根が存したのであって、各地方の有力なる省長なり督軍なりが各々自己の権勢にまかせて各自勝手に振る舞ったことから現在の如き不安なる状態に陥ったものである。そこで各省の省長はこれを文官とし、中央民政部総長の指導監督の下に置かしめ、また別に各省に警備司令なるものを設け、これに軍権を持たしめ、それは中央政府の軍政部総長の指揮統括の下に置き、更に財政の中央集中を行って、中央から派遣された税務監督機関ならびに税務署が各々その収税の任に当たり、中央の財政部総長が厳重に監督するといったような中央集中政治組織の確立を、名目的に非ず実質的に実現することが緊急焦眉の問題であると固く信じた。更にまたこれは交通のことに関しても同様で、各地の鉄道、通信機関を交通部に従属せしめて、その監督を受けしめることが必要であった。
駒井徳三『大満洲国建設録』中央公論社 昭和8年刊 p.127-129
しかしながら、誕生したばかりの満洲国に実務能力の高い官吏がいるわけではなく、優秀な日本人官吏を送り込んで指導させることにしたものの、日本人が多すぎても拙いので日本人官吏は全体の二割程度にとどめようとした。それでも駒井は漢人相手に随分苦労をしている。彼らのやることは今も昔も非常によく似ていると思う。
三千万民衆とか五族の民とか言っても、満洲国国民の大部分は漢民族である。漢民族は相寄り相扶けて一つの国家を構成すべき国民的集結力に欠けるところがあるが、しかし、民族社会を築き営む上に於いては一種独特の手腕を持つ優秀民族である。なるほど今日のいわゆる文化的科学的知識に於いては日本人が漢人より数等優れているかもしれない。ところが、いわゆる智恵かけひきに至っては日本人は到底漢人の敵ではない。この一種特異な民族を日本人の有する単純、性急、かつ率直なる知識、財力、武力を以て永久に誘掖指導していくということは容易ならぬことである。
夷を以て夷を制するというのは漢民族が数千年来採り来った伝統的対外政策である。満洲国が一つの独立国家として出現し、そこに若干の日本人が相当なる地位に入り込んだとして如何ほどの事を為し得ようか? 否むしろ日本従来の行き方を以てしては、必ず彼らに逆に巻き込まれるおそれなしとしない。幾多の先例はこれを事実の上に明示しているではないか?
彼らを以て直ちに日本人と心から融和提携し得る民族だと思うのは非常な誤算であり、飼い犬に手を噛まれるようなことにならぬとも限らぬ。まず満洲国政府要路に或る日本人が入ったとすれば、その声望権威と対抗すべく、彼らの私設秘書である日本人を使って、日本本国の有力なる官民に対して盛んにそれら日系官吏の悪弊を放たしめ、結局その任に堪えざらしむるの策に出る如きは、彼ら一流の不愉快なる常套手段であり、朝飯前の片手間仕事である。
同上書 p.197-198
このような国民相手に、少数の日本人官吏がわが国の国益ばかりを考えて満洲国の政策を誘導することなどできるはずがないと思うのは私ばかりではないだろう。彼らは満洲国のそれぞれの民族が納得できるような、公明正大な施策を行うことに心掛け、そのために本土から優秀な人材を満州に送り込み、満洲の諸制度を近代化し、さらに官民が巨額の投資を行っていたことを知るべきである。
満洲国の諸制度の近代化と官民による投資

例えば、近代化を推進するために前近代的で人治的な法令や制度はことごとく廃止されて、建国の理念に基づいたものに置き換えられていった。また近代司法制度確立のため、一九三六年に法院(裁判所)組織法が制定され、新京の最高法院の下に新京、奉天、ハルビン、牡丹江、錦州、チチハルの六高等法院、その下に二十九の地方法院、さらにその下に百二十九の区法院が設置され、司法と行政を兼ねていた司法公署、兼理司法県公署は廃止されて三権分立が達成された。
さらに日本政府は昭和十二年(1937)十二月に、満洲国における日本人が享受する治外法権を撤廃し、満洲鉄道付属地の行政権も満洲国に移譲している。
また貨幣制度や税制も大幅な改正が実施された。
黄文雄氏は、満洲のこれまでの貨幣制度の問題点についてこう解説しておられる。
満洲では、張作霖父子に限らず、各地の軍閥のほとんどが通貨の乱発で民衆を収奪していた。たとえば湯玉麟(とうぎょくりん)支配下の熱河省では、同省政府経営の熱河興業銀行が一九二六年から三回にわたって異なる『熱河票』を発行し、そのたびに従来の紙幣を無効にして民衆の財産を収奪した。
満洲の軍閥にとって安定していた財源が租税であり、専売制度だった。租税徴収では簡単な請負徴収制度が採られ、超過税収額が奨励金として交付されるため、税吏は競って苛酷な取り立てに走っている。手っ取り早く蓄財できる徴税局長のポストは売買の対象となり、局長が代われば、その一族郎党で構成されていた局員も代わる。局長職の競売も軍閥にとっては大きな収入源となった。税金の名目も多く、百三十余種に上ったこともあった。
『近現代史集中講座 台湾・朝鮮・満洲篇』p.190)

黄文雄氏によると、満洲建国直後に設立された満洲中央銀行が、公私各種の旧金融機関から継承した紙幣は、幣種十五、券種百三十六種に及んだそうだが、銀本位制が採用されたのち一九三二年に新通貨が発行され、わずか二年足らずで旧通貨との引き換えが進み、通貨の統一をはかることに成功したという。

また軍閥支配下の時代は、満洲では財政予算の大半が軍閥の軍備や内政に消えてしまい、インフラ整備はほとんど行われなかったのだが、満洲国建国により鉄道、港湾、空港などの交通網整備から、農業・鉱工業などの産業開発、治山治水、電力供給、都市改修などの工事が積極的に行われた。

わが国が日露戦争以降満洲国崩壊までに投資した金額は官民合わせて約百十億円と推定されているが、満洲国の国家予算は一九三二年が一億四千万円、一九四二年が八億二千万円というから、如何にわが国が満洲に巨額の投資をしてきたかがわかる。

上の画像は鞍山の昭和製鋼所だが、この工場は百七十五万トンの製鉄と百万トンの製鋼が可能で、当時国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鉄八幡製鉄所と遜色のない規模であった。

南満洲鉄道が吉林市を流れる松花江の上流に建設した豊満ダムの最大出力は七十万キロワット、朝鮮窒素肥料(現在のチッソ)が鴨緑江に建設した水豊ダムの最大出力は六十万キロワットというが、当時の日本本土の水力発電規模は合計で二百八十万キロワットというから、投資規模の大きさは半端なものではない。ちなみに現在の日本最大の出力を誇る奥只見ダムが五十六万キロワットなのである。
当時満洲電業理事長であった松井仁夫は豊満ダムの視察に訪れたフィリピン外相を案内した際に、外相はその規模の雄大さとその効用に驚き、次のような感想を述べたことを著書『語り部の満洲』に書いている。
フィリピンはスペイン植民地として三百五十年、アメリカの支配下で四十年を経過している。だが住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作っていない。満洲は建国わずか十年にしてこのような建設をしたのか。
松井仁夫『語り部の満洲』銀河書房 1980年刊 p.90
スペインやアメリカに限らず、植民地を持っていた国で住民の生活向上の為に巨額の投資をした国が日本以外に存在していたであろうか。戦時体制下の満洲では「一業一社」制度が採用され、大規模工場が多数建設されて、満洲国は急速な産業発展を遂げ、人口は建国された一九三二年の二千九百万人が、一九四二年には四千四百万人まで増加したという。満洲国で人口が増加したことは、善政が行われたことの証であるが、日本本土の国民がそのために犠牲になったことでもある。
終戦後の満洲国を狙ったソ連と中国

「満洲国」という独立国家の存在を認めたくない中国は、今もこの国を日本の「傀儡国家」とし、日本軍による虐殺や搾取があったと主張しているのだが、この点について黄文雄氏は著書でこう述べておられる。
もしも本当に満洲が阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満洲国建国後に、年間百万人を超える中国人が『万里の長城』を超えて流れ込んだのだろう。
人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込みはしないはずだ。こうした至極当然の疑問について、中国人学者は何も答えられない。『日本軍に強制連行されたのだ』と弁明する者もいたが、もちろん、それはまったく根拠のない話だ。数万の関東軍がどうして、年に百万もの中国流民を強制連行できるというのか。また、その必要性は、どこにもない。 …中略…満洲国は十三年余と短命であったが、それでも東亜大陸の一角に戦闘機まで造れる大産業国家が忽然と出現したことは、人類史上の奇跡に近い。当時の中国人にとっては、戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられるこの国は桃源郷だった。
同上書 p.205-206
満洲国は終戦直前までは比較的平和であったのだが、一九四五年八月八日に対日宣戦布告したソ連は同日満洲に侵攻した。関東軍首脳は撤退を決定し、八月十日に特別列車で脱出を図ったため、取り残された日本人居留民は酷い目に遭ったのだが、この点については別の機会に改めて書くことと致したい。
ソ連軍による侵攻のあと、ハゲタカのように満洲を襲ったのが中国である。黄文雄氏はこう解説しておられる。
ソ連軍が満洲に侵攻しはじめた翌日、中国共産党も満洲占領を指令している。当時、満洲の重工業は全中国の約九十パーセントを占めており、事実上中国の生命線だったのである。
号令一下、共産党軍は、ソ連軍と入れ替わるかたちで各地から続々と満洲に侵入し、十月には国民党軍も進駐してきた。初期の戦闘では米式装備の精鋭部隊を投入した国民党軍が優勢で、共産党軍は一時、鉄道沿線都市から農村、さらに山林へと撤退したものの、やがて反撃に出る。このように、本格的な国共内戦は満洲国の遺産をめぐって開始されたのである。
同上書 p.211-212
この戦いは一九四八年十月まで続いて、満洲はほぼ中国共産党の手中に収まったのだが、林彪の報告によると、この戦いで殲滅された国民党軍は四十万人以上、共産党軍の死者は六万人だったという。
こうして奪取することに成功した満洲国のインフラや工場設備などが、長い間中国経済の屋台骨を支えてきたことになるのだが、このような史実が広まることは、中国共産党にとっては余程都合が悪いのであろう。彼らの行為を正当化するために、中国の歴史叙述の中で満洲国は『偽満洲国』などと呼ばれ、満洲に巨額の投資をしてきた日本企業も貶められている。

例えば先ほど紹介した豊満ダムの建設に十五万人の中国人が徴用され、苛酷な環境の下で強制労働を強いられ一万五千人が死亡し、松花江右岸の河岸段丘に棄てられたと中国は主張し、『豊満万人坑遺骨館』を建設して大量の人骨等を展示している。旧満洲国だけでこのように『万人坑』と称して人骨等を展示する建物が二十ヶ所以上あるようだが、中国がこのような主張をしだしたのは文化大革命の頃で、記念碑や記念館が整備されたのは一九六〇年代のようだ。写真の『豊満万人坑』の碑は一九八四年に建立されている。
工事中に千人程度の死亡者が出たことは日本側の記録に残されており、漢人だけでなく朝鮮人も日本人にも死亡者が出ており、死因の九十四パーセントはチフス、発疹チフスの発症などによる病死であったという。工事事故による死亡は、凍土崩落事故やトロッコの暴走などが記録されているが、技術指導の為に日本技術者が二名が敗戦後約三年にわたり満洲に残留しているという。
もし日本人が支那人らに過酷な労働を強要したことが事実なら、おそらくこの二名は戦後帰国することが出来なかっただろう。豊満ダム関係した日本人は誰も万人坑容疑で逮捕されたり裁判にかけられていないことから考えると、中国側の主張はいつもと相変わらずの政治的プロパガンダの可能性が高いのではないか。この問題について詳しく知りたい方は、『検証 豊満ダム・万人坑』が関係者の証言が集められているので是非読んでいただき、中国や一部学者が声高に主張している内容が信頼するに値するものであるかどうかを考えていただきたいと思う。
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