漢民族の満州発展

もともと満州は満州民族の故地でありかつては漢民族はわずかしかいなかったのだが、清朝末期ごろから漢民族の移住が始まっていた。日露戦争後の講和条約でわが国は満州の権益を取得し、十七億円もの資金をつぎ込んで道路や上下水道だけでなく、鉄道の敷設、ならびに病院や大学や学校や図書館などを相次いで建設し、さらに民間の投資が加わったのだから、満州に人が集まり経済が発展したのは当然のことである。すると、景気が良く治安も良好な満州に年々大量の漢民族がなだれ込むようになっていった。
漢民族が満州で多数を占めるようになると、まず蒙古人を追い払い、満州人を同化させ、朝鮮人に圧迫を加えた。そして最後に日本人に対する圧迫を開始したという。

長野の『民族戦』に、満州における日本人と漢人の人口推移が書かれている。
漢民族の満州発展は、まず蒙古人を満州から逐い、満州人に圧迫を加え、朝鮮人に圧迫を加え、最後に日本民族に対し攻勢を採って来た。満州にある日本人は日露戦役以後の発展にして、戦争の終った明治三十八年末には僅かに五千二十五人に過ぎなかったが、欧州大戦後(第一次世界大戦)の大正七年末には十二万四千三百五十五人、 昭和元年末に十八万五千二百八十四人、 昭和五年四月に二十一万二千九百七十八人、満州事変後の昭和十一年には五十三万六千四百八十七人と増加している。 日本が事変前二十五ヶ年間に、 二十万人增加した間に、支那人は一千数百万人増加し、事変後三十万人増加している間に、六、七百万の増加を来している。
日本の二十万の住民は、主として交通及商工業関係であり、その約半数は二十歳以上五十歳までの働き盛りで、しかも大部分は満鉄沿線の細い帯のような地帯の中にあり、 その大部は直接間接満鉄により衣食していた。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.227-228
満州は満州民族の故地とはいえ、満州民族は牧畜民族でありかつ満州朝廷は支那統治のため相当数が支那本土に移住しており、満州に住む満州族は数百万程度であったと言われている。したがって漢人にとって、移民により満州人口の大多数を占めることは容易なことであった。
満州事変は昭和六年(1931年)のことだが、この時点では満州における人口の九割以上が漢人になっていた。満州事変後もわが国は移民を送り込んでいたのだが、満州事変後の五年間の日本人の人口増加は三十万人に過ぎず、一方漢人はその間に六、七百万人も人口を増加させていたのである。
満州における日本の権益がいかにして奪われて行ったか
わが国から満州に移住した多くの日本人は、漢人からさまざまな圧迫や妨害を受けていた。わが国は南満州の満鉄とその付帯事業については維持ができていたのだが、この事業もその後漢人から様々な妨害行為を受けることとなる。
日本人はまず経済戦に敗れた。
第一労働者としては生活程度の低い体力の旺盛な支那人に伍することが出来ず、邦人の優れた点は知識技術能率だが、満州の工業は高級のものでなく、かうした種類の者は少数しか採用しないし、 かつ賃銀に非常な差があるので能率の若干の差はどうにもならない。
次は商業であるが、 小売商人として支那人は独特の才能を有し、 生活程度が低く品物も日本商人より数割安く売れる。日本人は生活費が高く雇人でも高い賃銀を払わねばならぬ。支那人は相当儲けても日本人のようにすぐ生活程度を高むることをせず、 同じ暮らしを続ける。それに支那人は先天的に経済心が発達していて物事に無駄がない。廃物利用に巧みで、一厘一毛も苟もしない。かうして日本品が支那人の手で支那人に売られるだけでなく、 日本人にさえ売られるのである。 小売ばかりでなく日本からの輸入さえ支那人の手で直接行われるのが多くなった。ために日本人の商売は日本人相手のものが主となり、 いわゆる 「共喰い」の状態を極く狹い範囲で続けていた。労働および商人として不利の立場にある日本人は、 その特長たる企業により満州に発展せんとしたが、 これまた満鉄の付属事業か、 日本勢力の確立された南満を除いてその発展を阻止されたのは、 支那側の政治的圧迫による。 また農業方面では大連の他に鉄道沿線に所々果樹園を見るくらいだし、商租権問題が解決しないため邦人農業と称すべきものは殆んどなかった。
こうした状態の所に支那側の攻勢が始まった。まず政治的には張作霖父子が支那本部に野心を起し、ために軍費誅求のため不当課税をなし、不換紙幣を乱発し、経済界を撹乱したが、これに利権回收熱が伴い、軍閥は少し有利な事業はすべて独占せんとするから、邦人の唯一の活路たる企業貿易は妨害された。
彼等は銀行業から満州大豆の売買、油房、倉庫、紡績、製糖その他すべてに手を伸ばして来た。 更に邦人の森林業に圧迫を加え、 北満の工業に対して巧妙なる妨害をなし、鉱山に対しても邦人の権利を無視して事毎に妨害を企て奉天票を乱発して大豆の買占めをやり、 農業では商租権を未解決のままとして手も足も出ないようにした。かうして日本人は農工商共に圧縮され、最後に残ったのは満鉄及びその付帯事業と二百万の朝鮮人とであった。そこで支那人は日本最後の拠点たる満鉄に迫り、 一方朝鮮人を圧迫して満州から追出し、 満州を完全に漢人の手に独占せんとした。
同上書 p.228-230

漢人のやり方は、ライバルの事業が成り立たないように追い込んでいくのだが、その方法は、安価で品質の高いものを作るという真っ当な方法を取らないことが大半であった。例えば満鉄に対する妨害行為は、わが国と締結した条約を破るようなことも平気で実行し、指摘すれば謝罪し反省して違反行為をやめるような相手ではなかった。この点については、今もほとんど変わっていないのではないか。
かくて最後には日本人の満州に於ける発展の中枢である満鉄の回收に向って歩を進めて来た。支那は満鉄に直接手を触れ得ない現状から、満鉄を周囲からジリジリ攻めつけて、満鉄を骨抜きにしようとした。即ち日支秘密條約を無視して満鉄の両側に並行線を設けて満鉄を包囲し、満鉄に流れる貨物を奪い去ろうとし、その出口としての築港を企て、満鉄側との運賃競争を行い、また日本側の鉄道利権の回收を企てる等種々の手段を講じた。さらに最後には満鉄の駐兵権や付属地の司法権にまで進んで来た。
満鉄と共に日本権益の実態たる百数十万の朝鮮人の駆逐に努めた。…朝鮮人に対する圧迫は遂に萬宝山事件*が起り、これに対し朝鮮事件**が起るや、支那政府は根本から在満朝鮮人の居住権借地県を否認する態度に出で、また満州奥地の到る所で日本内地人と朝鮮人の追出しを試みた。
かくて日露戦後進出して来た満州に於ける日本人の勢力は、次第に支那人により駆逐され、最後の牙城を残すのみに至って満州事変が起り、形勢は一変したのであるが、これを民族戦の立場から見れば、満州の鉄道は実権が我国に帰し、企業も種々興り、営業居住の自由は獲得されたが、満州に定着せる支那人の農業と商工業と労働者とは依然として動かないだけでなく、人口の上からも産業の上からも益々発展しつつあり、漢民族の実力は増加した。
四千万人の土着漢民族は如何ともなし得ない。 遠からず彼等は五千万人となり六千万人となるだろうし、満州の沃野は尙多くの人口収容力をもっている。人口の増加と共に富の力は増し、漢民族の東方への圧力は大に加っている時、日本民族の大陸発展は一体どうなるのか。支那全部が戦禍の中にある時、安住の地たる満州が発展するのは当然である。 恐るべきは漢人の土着的発展であつて、日本はこの澎湃たる漢民族の発展に対し如何に対処せんとするか、支那は領土的に満州を失いながら、 民族的には満州に大々的発展を遂げつつあるではないか。日本の施設と治安の下に隆々と伸びつつある。日本の対満策も数十年の過去を再検討して、 大に考えて見なければなるまい。
*萬宝山事件:1931年7月に万宝山で起こった、朝鮮人と中国人農民との水路トラブルを巡り日本警察と中国人農民とが衝突した事件
**朝鮮事件(朝鮮排華事件):満宝山事件の後朝鮮半島の京城、仁川など各地で起きた朝鮮人による中国人襲撃事件
同上書 p.231-233
当時の新聞にも、満州において日本の権益が迫害される事件が頻発していたことが報じられている。

漢人はひたすら満州在住の日本人や朝鮮人の嫌がることを繰り返し、支那官憲は取り締まるどころか暴動を煽動することさえあり、全く頼りにならなかった。
満鉄に対する妨害行為が頻発

長野は「日本側の鉄道利権の回收を企てる等種々の手段」と抽象的な書き方をしているが、具体的にどのような方法で日本に圧力をかけていたのかがよくわからない。実際に満州事変が起こる前に、満鉄でどのようなことが起こっていたかを調べると、その頃の満鉄では運航が妨害されたりする事件が日常茶飯事となっていたようだ。
アメリカの外交官であるラルフ・タウンゼントは満州事変後アメリカの上海副領事として中国に渡り、第一次上海事変を体験したのち福建省の副領事となり、一九三三年に帰国したのち外交官を辞し、大学講師を務める傍ら著した『暗黒大陸中国の真実』には次のように記されている。
汗と涙の結晶である満州の鉄道は、満洲が無法地帯であるがゆえに減益となるばかりか、鉄道付属施設が破壊等の反日政策の脅威に晒されていた。日本側の報告によれば、一九二九年と一九三〇年の損失は以下のとおりである。
鉄道運行妨害 …… 一七一件
鉄道運行中の強盗 …… 一八九件
鉄道施設の略奪 …… 九二件
電線の略奪 …… 二六件
これに対して中国側は「日本人の護衛を撤退させ、中国人に護衛させよ」と言ってきた。滑稽極まりない回答である。自国の鉄道の警備でさえ出来ない国が他国の鉄道を守れるはずがない。そこで登場するのが張学良である。日本との条約を勝手に破棄し出した。日本は、いわゆる軟弱外交と非難された男爵幣原*が外務大臣であった。幣原は「中国との交渉には寛容と忍耐が求められている」と発言している。
*幣原:幣原喜重郎のこと。武力を用いず対中融和外交を行ったこの間、中国人は何をしていたか。例によって反日運動を盛り上げるネタにしたのである。そこで「軟弱幣原外交は全く通じない。中国人の暴虐ぶりは減るどころか激増しているではないか」と大日本帝国陸海軍は噛み付いた。何も今に始まったことではない。いずこの国も中国人には恩を仇で返されてきたのである。
ラルフ・タウンゼント『暗黒大陸中国の真実』芙蓉書房出版 p.259~260
この本によると、満州事変が起こる前の二年の間に、満鉄に関する妨害事件等が単純合計すると四百七十八回起きていたことになるのだが、毎週数回程度はこのような事件が起きていたというのは異常な頻度である。
ところが、戦後のわが国の歴史叙述ではこのような事実には一切触れることなく、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の満鉄爆破については「関東軍による自作自演」ということにされてしまっている。
関東軍の自作自演とされるようになったのは、 昭和三十年に発行された雑誌『別冊 知性』の十二月号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載された ことが契機となっているのだが、この記事は 当時東大生であった秦郁彦が本名を伏して花谷の手記として発表したものである。
関東軍が爆破したとする根拠資料はこの文章しか存在しないのだが、秦郁彦が花谷という人物に取材した内容を忠実に書き起こしたものであるのかどうかは確かめようがない。また、この文章が発表された時には、関東軍の指導者であった板垣征四郎や石原莞爾らは物故していたので、その裏付けも取れていないのだ。
関東軍による自作自演であるならば、直後から中国側が声高に世界に日本の犯罪を主張し、その論拠に説得力があれば世界も厳しく日本を批難したはずなのだが、中国側も反論しておらず、東京裁判でも問題にされておらず、世界も支那兵が爆破したとの認識であったことを知るべきである。花谷の名前で書かれた「満州事変はこうして計画された」は、「「満州事変」に関する資料集(1)」で全文を読むことが出来る。

当時の支那は、軍閥と称する諸将領の乱立状態にあり、国民政府は揚子江下流の数省を軍閥権力によって辛うじて成立しているだけで支那全体の統治権を有しておらず、独立国家の体を成していなかった。治安は極めて悪く、外国公使館や企業が存在したが、それぞれの国が自国の軍隊を駐屯させることで居留民や守っていたのだが、このような異常な状態にあった方が、支那にとっては満州から朝鮮人や日本人を追い払うのに都合がよかったのではなかったか。満州事変にせよ支那事変にせよ、支那の「民族戦」の流れの中で捉えるべきではないだろうか。
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