「太平洋の鍵」を支配する
米国海軍大佐であったA.T.マハンが一八九〇年に『海上権力史論』という本を著し、欧米史においてシーパワーがいかに重要であったかを論証したが、その本の中でパナマ運河が開通したのちアメリカは太平洋沿岸に海軍力を強化すべきであることを書いていた。

そして一八九三年一月にハワイでアメリカ人の治安委員会のサンフォード・B・ドールらが王政の廃止と臨時政府設立を宣言したのち、マハンは『ニューヨーク・タイムズ』紙に、「ハワイと海上権力の将来」という論文を寄稿し、アメリカがハワイ領有することが急務である旨主張した。彼の論文はハワイ併合派の理論的根拠となり、一八九七年の米上院外交委員会の報告書には次のような内容が記されている。
現下のハワイ紛争は、めざめつつある東洋文明の力と西洋文明の力との間の、きたるべき大闘争の前哨戦にすぎない。真の争点は「太平洋の鍵」を支配して優位を占めるのがアジアか、それともアメリカか、ということなのだ。
文明と人種の対立という思想はマハンのものであり、アメリカは西洋文明のチャンピオンとしてハワイを併合すべきだと主張していた。米上院外交委員会が「アジア」と述べているのは日本のことで、「太平洋の鍵」というのは、どの場所を支配すれば太平洋の制海権を握ることができるかという意味である。もちろんハワイは重要な「鍵」であったのだが、他にもいくつかの重要な『鍵』が存在した。
アメリカはハワイに続き、かなり強引にフィリピンを獲りにいくことになるのだが、今回はアメリカがいかにしてフィリピンを征服したかについて書こととしたい。
スペイン圧政に立ち向かったホセ・リサール
当時のフィリピンはスぺインの植民地であったのだが、ハワイ王朝が倒れた頃フィリピンでは民族運動が高まっていた時期である。最初に、スペインがフィリピンを領有してからフィリピン人の民族運動が高まっていった経緯について簡単にまとめておこう。
世界一周で名高いポルトガル人のマゼランが、スペイン王の信任を得て南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋を航海した後、一五二一年にフィリピンに上陸している。
その後一五六五年にはスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有し、以降スペインは徐々に植民地の範囲を広げていき、一五七一年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服されてスペインの領土となった。
スペイン人は、支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンにおいても、輸出農産物を生産する大規模なプランテーションを開発し領民を労役に酷使する支配的地位を確立していた。民衆の多くは苦しい生活を余儀なくされ、何度かスペインに対する反抗が繰り返されたもののその都度容易に鎮圧されていた。

しかしながら一八八七年にホセ・リサールが書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触るな)』で、スペイン圧政下に苦しむフィリピンの諸問題を告発したことなどがフィリピンの人々に強い影響を与え、十九世紀末にはフィリピン人の間で民族的自覚が高まっていったという。
『ノリ・メ・タンヘレ』には当時のフィリピンの状態が描かれているのだが、GHQが焚書処分した 毛利八十太郎著『フイリッピンの偉人ホセ・リサール』には、リサールが『ノリ・メ・タンヘレ』で指摘したスペイン統治の問題点について次のように記されている。
一、智的島民は僧侶(宣教師)と氷炭容れないから、比島(フィリピン)に住むことが出来ぬ。智的島民は僧侶のためあらゆる迫害を受け、虚偽の刑事問題に捲き込まれ投獄、亡命あるいは刑死の憂目に遇う。
二、比島は島民のための比島でなく、スペインのための比島である。否、僧侶のための比島である。
三、警備隊員の職権乱用は甚しく彼らは悪漢を捕えるより作る方が多い。
四、比島に駐在のスペイン人は何ら思想的の風格なく、多数は破落戸(ごろつき)に堕落している。
五、カトリック教(旧教)は島民圧政の道具として使われている。
六、純粋な比島民は永遠に無智であるように仕向けられている。
七、比島の女はスペイン人と結婚出来ぬ。しかし彼の女の両親は僧侶の暴圧から免れるため自己防衞の手段として、 彼の女を人身御供に提供する。
八、現在の如き悪政では、島民は永くスペインの治下に在ることは出来ぬ。島民は彼らの当然の権利を要求する。
九、暴動の主な原因は、島民が自暴自棄になるがためである。人間は持てるものすべてを奪はれた時には反噬(はんぜい:反抗)する。
毛利八十太郎著『フイリッピンの偉人ホセ・リサール』青年書房 昭和17年刊 p.42-43
総督は直ちにこの書の流布を厳禁し、この書を所持する者は財産を没収して密告者に賞金を授けることとしたのだが、この布告が逆効果となり読者が拡がっていったという。しかしながら、スペインによる悪政は続き、彼は探偵や密告者の眼を離れて、真実を書き残せる場所を求めて祖国を脱出することになる。彼は当局から逃れるためにロンドンに向かう途中で、一八八八年二月に日本に立ち寄っている。

ホセ・リサールは戦後のわが国ではほとんど知られていないのだが、昭和十九年に出版されたリサールの伝記を書いた絵本が講談社から出ているし、新聞でもよく採り上げられていたので戦前では多くの日本人が名前を知っていたと思われる。しかしながら戦後になってこの絵本を含む三点のリサールの伝記がGHQによって焚書処分されてしまった。日本人だけでなく白人に抵抗したアジア人の伝記もまた焚書処分されていることは多くの人に知ってほしいところである。

リサールは日本には短期滞在のつもりだったのだが、すぐに日本の魅力に取りつかれてしまい、出発を先延ばしにしている。案内してくれた江戸旗本の武家の育ちであった臼井勢似子[おせいさん]にも魅了されて、東京や箱根など各地を精力的に見て回り四十日以上も滞在したのだそうだ。
しかし世界各地にはフィリピンの独立のために戦う同志が待っており、断腸の思いで彼は日本を離れてヨーロッパに旅立っている。その後ヨーロッパにわたって執筆活動をしたのち、一八九二年に危険を冒してフィリピンに戻って「フィリピン同盟」を結成するのだが、その直後に逮捕されミンダナオ島に流刑されてしまう。
一八九六年に刑期が終わるとリサールはキューバに向かったのだが、その頃フィリピンの革命軍が武器を持って蜂起し、慌てたフィリピン総督は上陸地のバルセロナでリサールを逮捕してマニラに連れ戻して裁判にかけた。リサール7は暴動の扇動容疑で銃殺刑を宣告され、マニラ湾の見える刑場でスペイン兵により銃殺され三十五歳の短い人生を終えたという。

リサールは医者でもあり、小説家、歴史家、芸術家としても知られ、語学は二十一か国語に通じた天才で、フィリピンでは国父ともいうべき国民的英雄である。彼が処刑された場所はリサール公園として整備され、彼が処刑された十二月三十日はフィリピンの祝日とされて、毎年リサールを追悼する儀式が行われているのだそうだ。
アメリカに騙されたアギナルド
リサールが処刑された前後から独立派内部の対立が激化し、一八九七年五月に親米派のアギナルドは親日派のボニファシオを捕えて処刑して全権を掌握し、山中の根拠地にフィリピン共和国臨時政府を樹立し、六月に「フィリピン共和国独立宣言」を発表している。

一方植民地軍はスペイン本国からの兵力補給により優勢に転じ、形勢不利と判断したアギナルドは簡単に「独立」を反故にして、スペインから八十万ペソを受取ることを条件に和平協定を結び、自発的に香港に亡命してしまった。
ところが翌一八九八年にフィリピンを支配しているスペインとアメリカとの戦争が始まった(米西戦争)。

この戦争が勃発する前後にマッキンレー米大統領がフィリピンのことをどう述べているかは注目してよい。ビーアド『アメリカ精神の歴史 (岩波現代叢書)』には次のように解説されている。
マッキンレー大統領は、米西戦争について、その直前(一八九七年十二月)の教書においては(スペイン領土の)「強制的併合などはまったく思いもよらぬことだ。それは、われわれの道徳律に照らして、犯罪的侵略でろう」と述べ、米西戦争の目的につき、むしろ懐疑的でさえあったが、史家ローズ(James Ford Rhodes)が指摘したように、戦いが酣(たけなわ)となると、マッキンレーは、「海外市場開拓に対する鋭い直感力を示して」、消極説から積極説に転向し、〔戦いが終った後〕一八九九年には、メソジスト教会での演説において、〔そのフィリピン〕供合の政策を、鮮明する機会を得たのであるが、しかもそれは、文明の名においてであった。「私個人としてはファリビン諸島などは欲しくはなかったのだ。その後、それが、神々(gods)の贈物として、われわれにもたらされたとき、どうしたらよいのか、自分には分らなかった。……しかし、万能の神に祈ること数夜、忽焉として天竺が与えられた。フィリピン諸島をスペインに返還することは卑怯なことであり、かつ恥ずべきことである。これら諸島は、東洋におけるわれわれの商敵の手に委ねてはいけないのだ。……われわれのなすべき唯一のことは、フィリピン諸島をわがものとなし、フィリビン人を教育し、彼らを向上せしめ、文明化し、キリスト教化する……ことである」云々と。
一八九八年の二月にアメリカの新型戦艦メイン号がキューバのハバナ港内で爆発・沈没し、将兵二百六十名が死亡する事件が起こり、これをスペイン側の仕業と断定して「リメンバー・メイン(メイン号を忘れるな)」というスローガンで国民世論を対スペイン開戦論一色に染め上げることに成功し、四月に米西戦争に突入したのだが、今日ではメイン号を爆発させたのはスペインの機雷が原因ではないとする説が多数説となっており、石炭の自然発火が原因かアメリカの自作自演なのかについては未だに結論が出ていないようである。
アメリカが「リメンバー」と高らかに唱えて世論を動かし、戦争に突入する事例はアメリカの歴史では過去に何度かあるのだが、一八三六年テキサス独立戦争時の「リメンバー・アラモ」、一八九八年米西戦争の時の「リメンバー・メイン」、一九四一年の「リメンバー・パールハーバー」、二〇〇一年の「リメンバー 9.11」など、いずれもアメリカが開戦に導くためのプロパガンダとして用いられてきたことを知るべきである。
話をフィリピンに戻そう。この米西戦争はスペイン領であったフィリピンにも波及し、米海軍のデューイ提督はマニラ湾のスペイン艦隊を撃破した。提督はその後、香港に亡命していたアギナルドに「独立運動を支援する」という触れ込みで接近し、もともと親米傾向のあったアギナルドは「決してフィリピンをアメリカの植民地にはしない」という約束を信じて米軍艦で帰還し、対スペイン独立戦争を再開した。
そして五月二十四日、米国の勧めで独裁政府を樹立したアギナルドは、国民に向かって次のようによびかけた。
フィリピン国民よ。偉大なる北米合衆国は真正な自由の揺籃(ようらん)であり、…かれらは保護を宣してわれらに手を差伸べた。これは決意に満ちた行為である。米国は、フィリピン国民が不幸な祖国を自治する能力を持つ十分に開花した民族であると做すが故に、わが住民にたいし微塵の私欲も抱くはずがない。寛大なる北米合衆国がわれらに与えた高き評価を維持するために、われらは、この評価を低めうる一切の行為を嫌悪すべく心掛けねばならぬ。
レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史Ⅱ』井村文化事業社 1978年刊 p.308
このようにして、フィリピン独立に対する米軍の支持を取り付けたと信じたアギナルドは、破竹の勢いで、スペイン勢力を駆逐し、翌一八九九年一月、第一次フィリピン共和国(マロロス共和国、大統領アギナルド)が誕生した。これで正式にフィリピンの独立が達成されたかに見えたのだが、アメリカは前年十二月のパリ条約でスペイン側と勝手に取り引きし、フィリピンを二千万ドルで買収・割譲せしめることに合意していたのである。
要するにアメリカはアギナルドを騙してスペインと戦わせ、スペインが敗れると安い価格でスペインからフィリピンを買い取った。そしてアメリカはフィリピン共和国の建国を認めず、今度は独立派を虐殺にかかろうとした。
米比戦争

アギナルドはアメリカと戦う決意を固めたのだが、兵力格差は質量ともに圧倒的な差があり、食糧も不十分であった。アメリカからは八月十四日に一万一千人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られており、この時にフィリピン駐留アメリカ軍司令官(実質的なフィリピンの植民地総督)となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアで、この人物の三男がのちにGHQ最高司令官として日本に駐在したダグラス・マッカーサーである。
地上戦では勝つ見込みがないために、アギナルドはゲリラ戦をもって抗戦を継続することを決意し、民衆による反撃が盛んに行われた。何度かフィリピン軍が勝利したが、フィリピン軍が山に逃げ込むとマッカーサーは彼らを非正規軍と宣言し、彼らとその協力者を逮捕拷問、殺害していったという。
一九〇一年三月にアギナルドが逮捕されると彼は態度を一変してアメリカへの忠誠を誓い、仲間に抵抗の中止を呼びかけている。その後多くの指揮官や指導者が続々と逮捕されあるいは投降していき、四月に米比戦争が終結したのであるが、アメリカ軍が多くの民衆を殺害した戦い方は後に問題にされている。GHQに焚書処分された池上博著『アメリカ対比政策史』には次のように記されている。
最後に残ったのはルソン島のパタンガス州で戦っていたミゲル・マルヴア将軍とサマール島のヴィセンテ・ルクバン将軍であつた。 猛将ルクパンは一九〇二年四月十七日ついに逮捕されるところとなったが、この戦いで米軍のヤコブ・スミス将軍がサマール島住民の十歳以下の子供を無残にも全部殺害するという戦法をとったことは、彼らの残虐なる血を語るものであり、永く比島人の忘る能わざるものとなった。マルヴァも同年四月十七日、遂に白旗を掲げ、ここに米比戦争は遂に終結した。
池上博著『アメリカ対比政策史』人文閣 昭和19年刊 p.79
この米比戦争でどれだけのフィリピン人が虐殺されたかについては諸説があるようだが、抵抗するゲリラに味方したとして米軍が村々を焼き払い多くの農民を虐殺したことは事実であり、「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約六十一万六千人にあたる数字なのだそうだ。

上の図はWikipediaに紹介されている当時の風刺画で、ニューヨークジャーナルに掲載されたものである。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵が描かれているのだが、表題には”KILL EVERY ONE OVER TEN(十歳以上の者は皆殺し)”と書かれており、その右下に”Gen.Jacob.H.Smith(ヤコブ・H・スミス将軍)”の名前が読めるので、サマール島で実際に起こったことが描かれているようだ。
米西戦争でフィリピン人に独立を約束してスペインと戦わせ、あとでその約束を反故にしてフィリピンを強奪した歴史はアメリカ史の汚点であるのだが、このような歴史を戦後の日本人にはほとんど知らされてこなかったと言って良い。
終戦直後のアメリカにとっては、アメリカに騙されたり裏切られたりした国の歴史を日本人に知られてはまずいとの判断から、このような記述を封印したということはわからないでもないが、終戦後八十年以上が過ぎてもこのような歴史が日本人に知らされない状況が続いていることはおかしなことだと思う。
ハワイもフィリピンもアメリカに酷いやり方で国を奪われた事実があり、他の欧米列強も同様に世界を侵略してきた歴史を知らずして、どうして明治から昭和初期にかけてわが国が富国強兵政策をとってきたかを正しく理解できるとは思えない。
このブログで何度も書いていることだが、どこの国でもいつの時代でも、歴史は勝者にとって都合の良いように書き換えられるものであり、戦後のわが国でマスコミや出版物等で広められてきた歴史はほとんどが、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の良い歴史であることを知るべきである。
真実は、戦勝国が日本に広めようとした歴史と、彼らが封印した歴史の双方をバランス良く学び、その違いを知ることによって少しずつ見えてくるものではないだろうか。
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