米西戦争から米比戦争
1898年2月、キューバの港ハヴァナで何者かにメイン号が爆破されて多くの死者が出たことをきっかけに、「メイン号を忘れるな!」(リメンバー・ザ・メイン)の戦争国民標語はたちまち全米を風靡して交戦ムードが高まり、アメリカは4月に正式にスペインに対して宣戦を布告した。この戦争を「米西戦争」と呼ぶが、この戦いは8月に終わってスペインが敗北し、アメリカはカリブ海及び旧スペイン植民地に対する管理権を獲得した。
ところが、それまでスペインの植民地であったフィリピンでは、1896年8月以来フィリピン人たちがスペインからの独立を求めて武器を執って戦っていた。1898年に米西戦争が始まったのちアメリカはフィリピンに派兵し、独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに、戦争勝利の暁には独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせている。1899年1月にアギナルドは一応軍事目的を達成したのでマニラの北方マロモスに革命政府を樹立し、フィリピン共和国憲法を布告して自ら初代大統領に就任した。(第一次フィリピン共和国)
しかしながら、アメリカが1898年12月にスペインと結んだ講和条約には、フィリピンは二千万ドルの代償でスペインからアメリカ領に移されることが明記されており、アギナルドのアメリカとの約束は無視されていたのである。アメリカはフィリピンの建国を認めないばかりか、自国の植民地にしようとする動きにフィリピン人の独立派は猛烈に抵抗し、その後三年にわたってアメリカ軍と戦うこととなる(米比戦争)。
この時期にアメリカ軍を率いた著名な軍人としてアーサー・マッカーサー・ジュニアについて触れておこう。彼は米西戦争がはじまると准将に昇進しフィリピンに義勇軍師団長として単身で出征し、フィリピンがアメリカに割譲されることが決まると少将に昇進し、さらに米比戦争での活躍が認められて在フィリピンのアメリカ軍司令官(実質的なフィリピンの植民地総督)に昇進している。ちなみに、彼の三男のダグラス・マッカーサーは1936年にフィリピン軍の元帥となり、1944年にはアメリカ陸軍元帥、戦後1945年にはGHQの最高司令官となった人物である。
話を米比戦争に戻そう。この米比戦争でフィリピン軍は通常戦を戦う能力を失っていき、戦況は次第にゲリラ戦の様相を呈するようになっていったのだが、アメリカ軍は山に逃げ込んだフィリピン軍を非正規軍と宣言して、兵士ばかりでなく多くの原住民を殺害している。Wikipediaには次のような事例が解説されている。
1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
Wikipediaに米比戦争の風刺画が紹介されている。上の画像は1902年5月5日付けの『ニューヨークジャーナル』のもので、フィリピン人を銃殺しようとする米兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し(KILL EVERY ONE OVER TEN)」と書かれている。Wikipediaには、米比戦争で「戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。」と解説されているのだが、インディアン戦争や米比戦争といったアメリカ史の「恥部」に当たる部分は、戦後の日本人にはほとんど知らされてこなかったのではないだろうか。
1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一次フィリピン共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトルコとともにアメリカの主権下となり、1902年7月にアメリカはフィリピン人による傀儡政権を作って米比戦争を終わらせたのだが、それまでに数多くのフィリピン人が犠牲になった。GHQ焚書である伊藤七司著『米国の対日謀略』には米比戦争におけるフィリピン人の犠牲者について以下のように記されている。
比島人軍側の損害は北ルソン島において戦死1014人、戦傷95人、南ルソン島においては戦死3227人、戦傷694人。即ち、1人の戦傷者に対して平均5人の戦死者を出した。これは実に驚くべき比律であって、当時の南アのボーア戦をはじめとし、多くの戦争における戦死と戦傷との比率は1対5、即ち戦死1に対して戦傷5であったが、米比戦争における比島人軍側の比率はその反対であって、戦傷1に対して戦死5を出した。これによって見ても、当時米軍が如何に暴虐であったかということを知ることが出来る。即ち、米軍は俘虜を無慚に虐殺したのである。
伊藤七司 著『米国の対日謀略史』非凡閣 昭和19年刊 p.71~72
なお米軍は単に比島人軍を虐殺せるのみならず、比島の一般民に対しても徹底的な殺戮掃蕩戦を行った。その当時のルソン島の人口は約350万人であったが、そのうち殺戮された者は約60万に達した。即ち全人口の6分の1が虐殺されたのである。この戦慄すべき、この人道を無視せる虐殺の事実を、当時米軍の指揮官であったベルは、本国政府に対して得意げに報告した後「比島民に常識を与えた」と言っているのである。これによってわれらは正義人道を口にするところの米人が、有色人種に対して如何なる考えを持っているか、米人が如何に兇暴であるかを明確に知ることが出来る。
米比戦争ではルソン島以外でもボホール島、サマール島、レイテ島なども戦場となっており、実際にはもっと多くの犠牲者が出ていたのである。また米比戦争終戦後も、南部諸島の回教を信仰するモロ族などアメリカによる支配を喜ばない種族がたびたび反乱を起こし、10年以上にわたりアメリカ軍による残党狩りが行われて多くの一般民が虐殺されている。
Wikipediaによると米比戦争におけるフィリピン側の民間犠牲者数は、20万人から150万人と書かれているのだが、米比戦争終戦後の民間犠牲者数を加えるとどれくらいの数字になるのであろうか。
アメリカ統治下のフィリピン
アメリカによるフィリピン統治は、初期においてはかなり血なまぐさいものであったのだが、本土から大量の小学校教員が派遣され、またコレラと腺ペストと天然痘を撲滅するための保険運動が開始され、教育と保険施設に関してはそれなりの成果を出したようだ。しかし統治の考え方についてはわが国と随分異なっている。
池田曄 著『フィリッピン : 歴史と現実』(GHQ焚書)に、アメリカのフィリピン統治について解説されている。
驚くべきことは、こういう小学校や、井戸や、癩病院の費用が、米本土から一銭も出ていないで、総督の俸給から、道路、村の噴水泉に至るまで一切フィリピン人自身の負担に帰せられていたことである。「フィリピン人のフィリピン」というスローガンは初代の文官総督ウィリアム。ハワード・タフトが作り出したものだが、これはイギリスとオランダの両国に比べてアメリカの植民政策がいかにも素人臭く、性格的にセンチメンタルなことを示すものである。最初の出発点からアメリカの為政家は、この群島とその住民をアメリカ財界の搾取の目的物たらしめぬよう非常な注意を払ったことは事実で、従ってアメリカのこの群島に対する直接投資額はチリ―またはメキシコに対するよりははるかに少なかったのである。 …中略…
各総督はいずれもフィリピン人に対する保護政策をとって、一意善政を布くことにこれ努めた。しかし、果たして何が島民にとって善政であるかという問題は、米本土において民主党と共和党のいずれが政権をとるかによって、いつもかなりの相違が生じたのである。民主党政府は伝統的にフィリピン人の自治を許す政策をとり、共和党はこれに反して彼らに対する監督を強化する政策をとった。これがフィリピン人に如何なる影響を与えたかは想像するに難くない。…中略…
池田曄 著『フィリッピン : 歴史と現実』中川書房 昭和17年刊 p.16~18
その結果、フィリピン人は結局民族的自負心を欠くこととなり、深刻な劣者意識とアメリカ人に対する異常な矛盾心理とを持つ民族に出来上がってしまったのである。
このようにアメリカは、人は出したが金はほとんど出さなかった。本音はフィリピン人から搾取したかったのかもしれないが、フィリピンの独立派をだました経緯から、極端な搾取ができる環境ではなかったことが考えられる。
その後もフィリピン人はアメリカに独立を要求し続けたのだが、少しずつとは言え自治の権利などを勝ち取ることが出来たのはアメリカで民主党が政権を握っていた時代で、逆に共和党政権の場合は彼らがいくら頑張っても、要求は徒労に帰したという。
しかしながら、フィリピン人にとって大きなチャンスが訪れる。奥間徳一 著『フィリピン読本』(GHQ焚書)には次のように解説されている。
独立運動が盛んに行われた昭和六、七年頃(1931,2年)、アメリカにこれまで未だかつて見なかった恐ろしい不景気が襲って来た。そのために豊富な農産物は買う者がなくて畑にそのまま腐らしておき、何百万、何千万という失業者は街にあふれるようになった。その時フィリッピンからは賃金の極めて安い労働者が続々と渡って来て、アメリカ労働者の仕事を奪ってしまった。アメリカの失業者はますます増え、不景気はいよいよひどくなって来た。
一方アメリカの資本によって作られたキューバの砂糖が街にあふれて困っているのに、フィリピンで出来た砂糖が山のようにアメリカへ積み込まれてきた。そのために砂糖の値段は非常に安くなってほとんどただみたいになり、アメリカの砂糖業者は目も当てられないような困窮に陥ってしまった。そこでアメリカの労働者や糖業者たちは、フィリピンの労働者と砂糖をアメリカに入れないために、早くフィリッピンを独立させてもらいたいという運動を起こした。このアメリカのフィリピン独立運動と、フィリピン人たちの熱心な独立運動に動かされて、アメリカ政府もいよいよ独立を与える決心をすることになった。
奥間徳一 著『フィリピン読本』改造社 昭和18年刊 p.203
アメリカ人がフィリピンの独立を望むようになったのは、つまるところアメリカ人の都合によるものであった。世界恐慌の後でアメリカが大不況に陥り、非課税でアメリカ本土に大量に移入された安価なフィリピン産の砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖の価格暴落を招き、本土で破産者が続出し、失業者が巷に溢れることとなった。そのためにフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すためにフィリピンを独立させようとする世論が強まっていったのである。また、抵抗するフィリピン人討伐などのためにアメリカによるフィリピンの維持費は結構高くついていて、毎年四千万ドルほどの欠損が出ていたと言われている。(『比律賓に於ける政策の変遷』p.49)
アメリカ議会は1934年にタイディングス・マクダフィー法を成立させて十年後にフィリピンを完全に独立させることを約束し、フィリピン議会もこれを承諾した。同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とする米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立し、その翌年に、アメリカ陸軍参謀総長を退任したダグラス・マッカーサー少将がフィリピン軍の軍事顧問に就任している。フィリピンは独立するまでに自国の軍を持つ必要があったのだが、マッカーサーの友人であるケソン大統領が自ら軍事顧問に就任を要請したことにより実現したという。
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