「バターン死の行進」を考える

フィリピン

バターン半島攻略戦

 前回記事で1942年3月11日にマッカーサーがフィリピンを脱出したことを書いたが、その後日本軍は砲兵隊、航空部隊を増強し、3月24日から攻撃機によるバターン半島の爆撃が開始され、4月3日から地上部隊による総攻撃が開始された。日本軍は敵の防御線を突破し前進し続け、4月9日にはバターン半島総司令官のキング少将が降伏を申し入れてきた。従軍していた火野葦平は敵の降伏について『大東亜戦争陸軍報道班員手記 第二輯』(GHQ焚書)に次のように記している。

 九日に敵は白旗を掲げてわれわれのところにやって来た。憔悴して汗に汚れた敵は眼をぎょろぎょろさせて急ごしらえの白旗を力のない手でかついでいた。かつては傲岸であった米人のこの姿を見て、私は溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。投降兵は蜿蜒(えんえん)と続き、林の中から山の奥から、谷間からハンケチを掲げ、両手を挙げた敵兵が湧くように出てくる。思いがけなくも沢山いる米兵に私たちは眼を見張る。こんなにも沢山いて、精鋭な武器を有している軍隊が何故戦わないのか。それは一種不可思議な疑念である。私たちは米兵のだらしなさに腹が立って来る。背の低い日本の兵隊がたった一人であるいは二、三人で五百も六百もの捕虜を引率していく。日本の兵隊は彼らの肩までしかない。これは決して漫画ではないのだ。…中略…

 白旗を掲げた米兵を見ていると、不純な要素によって成り立ち、民族の矜持を喪失した国民の憔悴のような感じを受ける。
 バターン半島の防衛軍は東地区西地区、それから戦線の各所から、ばらばらに白旗を掲げて来た不思議な軍隊である。部下が逃げてしまって、師団長がたった一人でうろうろしていたものもある。部下が隊長を縛ってきたり、隊長が部下を統制できないで、一人で逃げてしまったものもある。

 そしてバターン半島の敵は壊滅してしまったが、コレヒドール島だけが頑張るというのである。そしてマリベレスの町をはじめ、バターンには米兵や比兵をはじめ無数の難民がいるにもかかわらず、コレヒドール島から砲撃をしてくるのである。

『大東亜戦争陸軍報道班員手記 第二輯』大日本雄弁会講談社 昭和17年刊 p.183~185

 前回にも書いたように、フィリピン戦の最前線を比兵に任せて米兵は後方から比兵を督戦するだけであった。また食糧は大幅に不足していて、比兵にはまともな食事を与えられていなかった。ところが敗色濃厚になると、すぐに白旗を掲げてニヤニヤしながら降伏した米兵を許せなかったのは火野葦平だけではない。朝日新聞社の従軍記者・西川佳雄は『比島従軍記』(GHQ焚書)でこう書いている。

 …勇士たちは喜びはしなかった。アメリカ兵の最後の一兵まで一人残らずやっつけてやるぞ、と火の如き怒りに燃えていた勇士たちにとって、それは少しも喜びではなかった。
「卑怯者奴っ」
 と、勇士たちは悔し涙を流して泣いた。なぜアメリカ兵は最後まで戦おうとしないのか。自分等の命が危ういとみてとると、それまで銃をとって戦っていたということを一瞬にして忘れてしまったかのように、にこにこと嬌笑さえふくんで両手をあげる米兵たちであった

西川佳雄 著『比島従軍記』興亜書院 昭和18年刊 p.144~145

 『比島:従軍写真記録集』(GHQ焚書)に、投降した米軍の司令官や米兵らの写真が掲載されている。一週間も激戦を闘ってきたにしては、軍服はあまり汚れていないように見えるのは私ばかりではないだろう。捕虜にしては表情にも怯えたところが感じられない。

小柳次一編『比島:従軍写真記録集』東亜文化書房 昭和19年刊

 彼らは弾が尽きて降伏したのではなく、まだまだ戦えるだけの武器や兵力を有していたにもかかわらず、食糧も乏しく勝ち目がないと判断して降伏して来たのである。11日までに残余の部隊の大半が降伏し、捕虜の数は7万を超えたという。これは日本軍が推定していた人数の倍以上で、日本の陸軍主力の倍以上の人数になる。こんなに多くの敵兵が戦わずに降伏して来たのは、マッカーサー総司令官が早々とフィリピンを脱出したことと無関係であるとは思えない。

「バターン死の行進」で日本兵は米兵を虐待したのか

 その後バターン半島からオオドネル基地に捕虜を移動させる際に、日本軍が米軍捕虜を虐待して死に至らしめたとし、捕虜の移動を「バターン死の行進」と名付けられてアメリカが自国民に日本に対する敵愾心を植え付けるための「戦争宣伝」に用いられた

バターン半島での捕虜虐待を非難するプロパガンダポスター(Wikipediaより)

 上の画像は当時のプロパガンダポスターだが、「殺人鬼JAPが全員一掃されるまで戦え」と書かれていて、「フィリピンで5200の米兵が日本軍による虐待で死亡 残酷な死の行進で」という新聞の見出しが、貼り付けられている。こういう宣伝で兵士を集めようとしたのだから、アメリカにとっては日本兵が米兵を虐待したことにする方が都合が良いことになるのだが、実際に日本軍が米軍を虐待して死に至らしめたようなことがあったのだろうか。これが真実であるならば、虐待されて死亡したという5200の米兵のリストが出てきてしかるべきなのだが、その点について誰も論じていないのは不可解である。

 まず基本的な事実から押さえて行こう。捕虜がどこからどこまで移動したかだが、Wikipediaによると日本兵と共に捕虜が移動したのは、以下の表のとおりである。

区間 距離 備考
1.マリベレス~バランガ 約30km 徒歩
2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ)
3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送
4.カパス~オドネル 約12km 徒歩

 フィリピンの地図から地名を見つけてルート検索してつないだ地図を作成してみたが、実際にどの地点からスタートし、どの道を歩いてどの地点に到着したかが判らないので165kmと随分長いルートになってしまった。

 このルートで問題になるのは徒歩で移動した部分だが、Wikipediaで約42kmということになる。なぜ徒歩で歩かせたかという点だが、車両不足に加えて道路が破壊されているという問題があり、これは日本軍の責任というよりも破壊した米比軍側の責任である。引率した日本兵は重装備をして歩いていたのだからやはり捕虜も歩くしかないだろう。目的地はオオドネル基地で、そこには三万七千人以上の捕虜が収容できる施設があった。

 フィリピン戦に関する書物の多くは、戦後GHQによって焚書処分されてしまったために、戦後の日本人はこの史実に触れることが難しかったのだが、今は「国立国会図書館デジタルコレクション」の検索機能を用いれば、多くの資料に目を通すことが出来る。それらの資料を見る限りでは日本軍は捕虜を虐待したりはしていないし、むしろフィリピン兵捕虜、アメリカ兵捕虜とも人間味ある交流があったことが記録されているのだが、なぜかそのような内容が記されている本がGHQによって焚書処分されている。このような真実が戦後の日本人に広まって欲しくない理由がアメリカ側にあるということのようだ。

 火野葦平は戦後になって米比兵捕虜の移動について一冊の本にまとめている。

 いたるところの広場や道路に、アメリカ兵、フィリピン兵の投降兵が密集し、その間に、避難民の群れがあった。森の中から、林の小径から、崖のかげから、アメリカ兵は列をなして出て来た。…中略…
 こういう捕虜たちの間に、日本の兵隊がちょろちょろしている。捕虜百人か二百人かに一人の割合で、日本兵が付き添っているのだが、彼の顔はくすぐったそうな当惑に満たされている。勝利の快感が彼を満足させているに違いないが、彼は、今度こそはお目にかかると思ったアメリカ兵が、あまりにも莫大の数で、自分がその洪水の中に流されている木片ででもあるようなのが、なんとなく照れくさいのである。彼は米兵の肩くらいまでしかない。おまけに、陽に灼け、軍服も帽子も埃と汗でぼろぼろ、軍靴も口をあけてぱくついている。すこしも汚れていない米兵の垢抜けした服装の中にまじると、まるで、乞食だ。

 難民の群集の中から、か弱い赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。顔中深い皺の老婆が草花模様の派手なサヤを着て、戸板の上にぐったりと横たわり、若い女からゼリーのようなものを口写ししてもらっている。病人が多く、男も女も落ちくぼんだ眼をぎょろつかせている。彼等はだれ一人食糧を持っていない。…むざんな難民をこのままに放置することは出来なかった。帰るところのない者はオラニ難民区へ収容することになった。なおも続々と溢れ出てくる数万の捕虜の措置については、まだ何の方針も立っていなかったが、まず難民の救済が先決問題であった。ごったがえす街道の中を、難民を積んだトラックやバスが彼方へ向かって進発した。…中略…

 マリベレスの町に入ると、なおも捕虜の大群がうごめいていた。私はもう彼等をみることに、一種の嫌悪感を覚えた。倦怠感であったかも知れない。後から後からと引きも切らぬ敵兵に、兵隊も辟易したらしい。…中略…

 フィリピン兵たちの憔悴ははげしかった。それは戦闘だけの疲れではなかった。栄養不良、マラリヤ熱、デング熱、赤痢、などで、半病人が大部分だったもちろん戦傷者もいたジャングル病院に行ってみると超満員であったが、入院者はほとんど米兵であった。乾季のため、家も屋根も、キャンプさえ必要でなく、森林の中に数千の寝台がならべられ、蚊帳が吊ってあるだけである。病院の周辺には多くの比島兵傷病者がたむろしていたが、なかには地面の上で絶命している者もあった。渓流に水をのみに行き、水筒をにぎったまま、さかさまに顔を流れに突っ込んで死んでいるフィリピン兵もあった

火野葦平 著 『バタアン死の行進』小説朝日社 昭和27年刊 p.49~52

 捕虜の移動に付き添った日本兵は一人当たり百人から二百人の捕虜の監視を担当していたのだが、そんなに人数に格差があり、そもそも体格も劣る日本兵が米兵を死に至らしめるような虐待をするであろうか。もし日本兵がそのようなことをすれば、圧倒的多数の大柄な米兵から手荒い復讐を受けてもおかしくないと思うのだが、具体的な被害者の名前が出ているのは数名程度で、それもどこまで真実であるかどうかはわからない。

 火野葦平は同上書で、自身がデング熱に罹病したことを書いている。

 私はバターンからマニラに帰来すると、数日後にデング熱で倒れた。私のみならず、バターン作戦に従軍した報道班員のほとんどが罹病した。兵隊も次々と倒れ、兵力の三分の二を失って、次に予定されていたコレヒドール攻略戦は遂行不可能になった。まったく恐るべき瘴癘(しょうれい:風土病)の地である。四十度を超える熱に浮かされて、私は、二十三日マニラ陸軍病院に入院した。退院まで、二十日間をここで過ごした。

同上書 p.62~63

 火野だけではなく、報道班員も日本兵もかなりの割合で罹病したのだから、アメリカ兵もフィリピン兵も同様に多くの捕虜が罹病していた可能性はかなり高い
 火野は入院が長引いたために五月五日に決行されたコレヒドール島敵前上陸に参加することが出来なかった。退院してから、オオドネルの捕虜収容所を訪れているのだが、その周囲に無数の墓標が立っているのを見て驚いている。運転手の兵長との対話の部分を引用する。

「大変な数だね。何千あるか知れやしない」私がそう呟くと、運転手は無表情で、背を向けたまま、ぶっきらぼうに、私にいった。
「三千や五千ぢゃありません。万の単位ですよ」
「これは、捕虜の墓かしらん? 」
そうです。全部、バターンからやって来て死んだフィリピン兵の墓です。」

同上書 p.69

 次いで火野は収容所で伊藤中佐に案内されて高い櫓に登っている。すると誰かが死んだと見えて葬列が墓地に向かっているのが見えた。中佐との対話部分を引用する。

「いまだに、死者があるのですか」
 と私は気の鬱するのを覚えながら訊ねた。
「あるんです。しかし、このごろはもう稀で、平常に復したといってよいでしょう。ひところは大変でした。逃げ出したくなりましたよ。一日に、二百人、三百人と言って死ぬんですからね。統計やグラフが作ってありますから、後程ごらんに入れますが、最高は四百八十七人でした。総計二万ほど死んだでしょうか。こんなに死人があると、どうにも処置に困りますが、ほってはおけませんから、あのとおり、墓地に埋めて墓標を立てたのです。そのころは死体埋葬のほか何一つできませんでした。百方手を尽くしたのですけれど、どうにも及びませんでした」

アメリカ兵もたくさん死にましたか
いいえ、米兵は少数で、大部分はフィリピン兵です。米兵は今はここにまだ一緒にいますが、近く別にすることになっています」

同上書 p.70~71

 前回記事で書いた通り、アメリカはバターン半島に四万名の兵士が半年間持ちこたえられるだけの物資を集めていたが、想定外の十万人以上の兵士と避難民が立てこもることとなった。そのため、フィリピン兵にはまともな食事が与えられなかったのだが、アメリカ兵にはそれなりの食事が与えられていた。また、フィリピン兵は常に日本軍との戦いの最前線に立たされ、米兵は後方にいてフィリピン兵を督戦していただけだった。
 捕虜の死者には傷病兵もいるが、栄養状態の悪かったフィリピン人が大半で、栄養状態の良かったアメリカ人は少数しか死んでいないというのが真実であろうならば大量の捕虜がオオドネル収容所へ移動の際に死亡した責任は、主に米軍側が負うべきではないのか

 それから火野は本部に帰って捕虜に書かせた手記などに目を通している。そしてアメリカ空軍中尉の感想文に目が留まった。

 米国空軍中尉ベンモッセルは、「本書の内容は何ら日本軍より要求されて作られたものではない。筆者の自由なる意思発表であって、放送されても、印刷されても一向に差し支えないものである」と前書きして、長い感想文を書いている。それは三項目に分かれているが、最後の項に次の一章があった。

日本軍の態度は紳士的で、親切で、丁寧な取り扱いぶりであった。五月三日、オオドネルにつれて来られたとき、自分は日本軍が捕虜の日常生活の取り締まりに関しては、各分団の米比将校に一任しているのを知った。食物は日本軍から給与されたが、その調理や分配は全部彼らに委されていた。薯、米、砂糖、ラード、麦粉、豆、果汁、蕪、等があり、米軍兵站から給与されたものより多くの食糧を、日本軍から貰っているとはまことに皮肉な感じがする。もちろん、残念ながら料理用具や石鹸が不足だったが、こんな物はやがて手に入ると思う。マラリヤや赤痢で多数の死亡者があったが、これは一九四八年四月九日にいたるまでの米軍の状態が不良不健康であったためで、遺憾至極ではあるが、この責任は米軍兵站部が取るべきである。なお、オオドネル収容所内では捕虜は完全に自由で、今日まで自分は何等日本軍から干渉されたのを知らない
 自分は無数の米兵と話し合ったことだが、日本人とアメリカ人との密接な交渉はすでに強い友情感を喚起しており、これはかならず米本国に反映して、次の世界新平和に寄与するに違いないと自分は信じている。」

同上書 p.73~74

 米比軍が降伏した日付は1942年4月9日なので「一九四八年」というのは誤記か誤植なのだろうが、ベンモッセル中尉は、多数死亡者が出た原因が「マラリヤや赤痢」であることを明確に書いていることから、降伏した時点で既に味方の兵士の多くがマラリヤや赤痢に罹患していたことが読み取れる。
 日本兵士の中に一部米比兵を虐待した者が居たとしても、それは大局的には問題にならない程度であろう。バタアン半島で米比軍が兵力を存分に残していながら降伏したのは、前線で日本兵と戦うフィリピン兵士の多くが伝染病にかかってしまい、アメリカ兵が戦意を喪失してしまったということも理由の一つではないかと考えられる。
 ベンモッセルがオオドネルに到着したのは5月3日と書いているが、随分日数がかかっていることに誰でも気が付く。普通の人間なら1日30km程度は問題なく歩けるはずだし、彼らが訓練したり日本軍と交戦中にはその程度の移動はしていたはずなのだが、降伏後はそういうわけにはいかなかった。火野葦平はオラニ難民区で捕虜たちが列をなして歩いているのを実際に目撃して次のように記している。

 ここからはすぐ前面に、この間までは戦場であったサマット山や、ナチブの連峰が望まれる。そして部落から三〇メートルとは離れていない本道上を、ここ数日来、朝も昼も、晩も蜿蜒(えんえん)と続いて尽きない大群が、力のない足取りで行進していくのが見える。炎天に灼かれながら、捕虜の隊列は遅々として進まない。思い思いの服装や姿勢で、勝手な行軍をしている。指揮をとる者はだれもいない。ただ、命ぜられた同じ方向に、口も利かず、疲れ切った身体を進んでいく。精神のない機械のように。ある者は立ち止まり、道端にしゃがみ込む。また歩き出す。炎天の陽炎につつまれて、弱り切った兵隊たちはときに亡霊のようにすら見え。道路傍にへたばったまま、長く起き上がらなかったり、そのまま、二日も三日も動かぬものもある

 私がオラニ難民区を訪問したのは、四月十六日であった。バタアンが陥落してから一週間目である。
 部落の中央で、炊き出しが行われていた。直径五尺ほどもある鉄鍋に、お粥が炊かれ、二列に並んだ難民が蜿蜒と続き、食器を手にして、出来上がるのを待っている。やがて、大きな柄杓を持った兵隊が、それぞれ大きさと形の異なる食器へ、不公平のないように気を使いながら、湯気の立ちのぼる粥を分配する。 

同上書 p.56~57

 フィリピンの年間平均気温は26.6度で、最も暑い五月の平均気温が28.3度、最も寒い一月の平均気温は25.5度と、年間を通して大きな寒暖差はなく、日本の猛暑日よりかはフィリピンの方がはるかに過ごしやすいと言われている。捕虜兵の隊列が進まなかったのは、飢餓状態にあったか伝染病に罹患していた兵が相当数いたことが原因だと思われる。
 難民区では、難民の人数分の食事が用意されていたのだが、捕虜兵士の分はオオドネルで用意することになっていたようだ。オラニ難民区で炊き出しの分配が終わると、フィリピン人のカトリック牧師がテント村の中央で何かをしゃべりだした。タガログ語なので火野には何を言っているか判らなかったが、牧師の話が終わると数名が捕虜の行進の列に入って行ったという。通訳が笑って、火野にこう述べたという。

「フィリピン人は信仰ぶかいから、坊主のいうことはよく聞きますね。バタアンから逃亡したフィリピン人がたくさんあって、このテント村にも入り込んでいることはわかりきっているのに、憲兵などが来て、いくら名乗り出るようにいっても、一人も出て来たことはないのですよ。オオドネル捕虜収容所まで歩いて行くよりは、そこにいて徒食していた方がよいに決まっていますからね。それなのに、坊主のたった一言で、素直に出ていくのですから、宗教というのは面白いものです。」

同上書 p.58

 フィリピン人なら、難民のテント村に紛れ込んでも黙っていれば一般の難民と区別がつかない。しかしながら米兵捕虜はそういうわけにはいかず、病気に罹患している者は自力で次の給水ポイント、配給食のあるポイントまで歩くのは大変だったとは思う。しかしそのような状態を招いた責任は、米国空軍中尉ベンモッセルの言う通り米軍兵站部にあると考えるのが正論ではないのか。

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