大正八年(1919年)の排日運動
前回の歴史ノートで西安事件で蒋介石が張学良に拉致されたあと第二次国共合作が成立したことを書いたが、今回はそれまでの排日運動で実際にどのようなことが起こっていたかについて、当時の記録を紹介しながらまとめることとしたい。
初期の排日運動は比較的穏健なイメージを持っていたのだが、戦前の新聞や書物で調べると、当初から結構酷いことが行われていたことがわかる。
上の画像は大正八年(1919年)七月十六日の報知新聞の記事だが、この年の五月から本格化したばかりの排日運動は学生が中心で、以前にも書いたように英米の宣教師が盛んに学生を煽動し、学生の活動資金も支援していた。学生等は日貨を取扱う商店に封印を施し、もし売買すれば店主に罰金を科したり、村の村長を脅迫して日本商品を取扱わないようにさせたりしていたという。もちろん彼らには商人を取締ったり処罰する権限はなく、彼等のやったことは明らかな違法行為である。
山東省各府県は今や日貨排斥益々激甚を加え、学生等は各商店を調査して日本製品には皆封印を施し、若し売買するものあれば容赦なく罰金を徴して厳重に監視し、又村落にありては各荘長を脅迫して日貨の売買を禁じたるを以て一般民は大いに困惑…中略…
済南府にては山東鉄道によりて貨物の託送を厳禁し、又日本人貨物にして支那人が貨車積卸しに従事したるもの等を発見すれば直に罰金に処す。人力車も日本人客を乗車せしむるを得ず等にして日本人の取引貨物減少し、山東鉄道は殆ど空貨車のみ運転せらるる事多し(青島)
「神戸大学新聞記事文庫」外交24-25
ところがこのような違法行為に対して官憲は動かず、そのために同様な行為が各地で行われるようになるのだが、このような強引なやり方で日本商品の流通を止めても、商人や一般民衆にとっては必要なものが手に入らないために困窮するだけであった。
上の画像は九月十二日の大阪毎日新聞の記事だが、当時に於いてはこのようなやり方では日本商品を排斥出来ず、意図したことの逆の結果を招くことがあったようだ。
最近上海方面に於て日貨排斥再燃の兆あり日貨抵制、国辱を忘るる勿れ等の貼紙再び各街路に現れ、日本との取引商店、金融業者の恐慌一方ならずとの報道達せるも、右は終熄期に近づける学生連合会等の排日団体が最後の気勢を揚げるため、もしくは学生団に名を藉る無頼漢等が支那商店を脅迫して幾分の利得をなさんとする術策たるに過ぎざるべし。大勢は既に決し、今や日貨は反動的に取引増加を見ると共に、かつて日貨排斥を鼓吹したる英米人煽動家等は却って支那商人の怨恨を買いつつあり、蓋し彼等英米人は日貨に代るべき在荷を有せず、漫然として日貨を排斥せるため日貨の市場に姿を匿すと同時に、支那商人は英米煽動家に誤られたるを自覚するに至れる次第…
「神戸大学新聞記事文庫」外交24-110
このように大正八年頃は商人や民衆の反日意識はまだまだ薄く、必要な商品を調達しづらくなったことで学生たちの行動やそれを煽動した英米人がかえって怨まれることとなった。商人たちの中には、排日貨の活動の弱い地域から必要な日本商品を多めに仕入れることで乗り切ったものが少なからずいて、逆に日本商品の取り扱いが増えたという皮肉な結果が起きたケースもあったようである。
しかしながらこのような日本商品の物流を強引に止めるような排日運動は長くは続かず、上海では上海学生会に利得の一割を支払うことで妥協して運動を辞めさせたという事例もあり、排日貨運動も一旦は下火になって行くのだが、しばらくすると上海を中心とした新興財閥が日本製品にそっくりな商品を製造して売り広めようとする企業が現れるようになり、ふたたび排日活動が活発化するようになる。新興財閥が作った製品の品質は日本製品よりかなり劣るのだが、排日学生を使って各戸に半ば強制的に売りつけて、高い代金を取ることで学生も潤ったようである。
運動の主体が共産主義青年会に移行
一方大正八年(1919年)から始められていた反日教育により反日思想が商人や民衆の間に次第に浸透していき、大正十二年(1923年)頃から運動の主体が英米系のキリスト教青年会の幹事から共産主義青年会の幹部に代わり、英米の宣教師の活動は次第に控えめとなっていくとともに、排日運動に代わって反帝国主義運動が展開されることとなる。
昭和二年(1927年)三月二十四日に、北伐の途上で蒋介石率いる国共合作軍が南京を占領した際に日英米の領事官などが襲撃され、多くの居留民が虐殺、掠奪、強姦などの被害に遭った(第一次南京事件)。この事件では英国人三名、フランス人二名、日本人一名、イタリア人一名、デンマーク人一名が殺害されている。この際に英米は捕えられた自国民の引き渡しを要求したところ支那側から拒否されたため、南京停泊中の英米艦から二百発の艦砲射撃を行ったのだが、わが国の場合は当時の幣原外相が海軍の駆逐艦に対し威嚇射撃すら行うことを禁止したという。その後英米は揚子江上流の領事官を撤退したのだが、長野朗の『支那三十年』によると、英国は「あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き、今まで北方軍閥派の討赤連合軍を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂の芝居を打たせ」たと解説しているが、そのためにその後「反帝国主義」の鉾先がわが国に集中することとなる。
昭和三年(1928年)五月三日に、山東省の済南で、国民革命軍の一部により日本人が襲撃される事件があり、わが国の権益と居留民保護のために派遣(第二次山東出兵)されていた日本軍と国民革命軍との間に武力衝突(済南事件)が起きている。四月七日に蒋介石率いる国民党は北伐を宣言し、南軍と北軍に別れて支那は内戦状態にあったのだが、商業都市である済南には日本人を中心として多くの外国人が居住していたなかで、略奪などの被害は日本人に集中している。
イギリスにおいては一般に済南を中心とする日本の窮境に対して同情し、蒋介石の威令はその軍隊の全部に行われず、且つ土匪の出没が盛んであるから日本軍の行動は正当防衛のみならず、秩序維持上必要である。その点から見て軍隊の増発はやむを得ないと諒解されている。内外多事なるに際して日本の朝野が政争に没頭し支那に対して十分に策を施し得ないのは気の毒であると見ている。
「神戸大学新聞記事文庫」軍事(国防)20-108
大阪朝日新聞では英国はわが国に同情したと報じているが、暗にわが国の外交下手を心の底ではあざ笑っていたのかもしれない。このブログで何度も書いているが、そもそも最初に支那の排日を仕掛けたの英米なのだ。
国民政府の排日貨密令
その後排日運動は一旦下火になり、わが国の対支輸出額が一時回復するのだが、一九二九年八月には国民政府は排日貨密令を出している。この年の上海の排日状況を詳細に記録した『上海の排日貨実情』という本に、その密令の要約が収められている。
…対日経済絶交は原来国民の愛国心の発露なるが、従来その運動方法につき措置を誤り屡々事態の紛糾を来たせり。最近調査する所によれば各地廃約促進会に於いては直接日貨の検査及び奸商の処分などを行える事実あり。この種直接行動は明らかに中央の意思に違反するものなるを以て、茲に本会決議を以て密令を発し、爾今右の如き直接行動の取り消しを命じ、同時に各地承認団体をして自発的に救国の責に任せしめ、若し承認団体にして違反者の検査並びに処罰などを行わざる時は該商会を厳罰に処すべし。かくして今後直接事態の紛糾するを避け円滑に経済絶交を進行せしめんとす。
『上海の排日貨實情 自21號至30號』金曜会 昭和4年刊 p.6
それまで政府は排日団体による日貨の検査押収などを強制していたわけではなく、そのために日貨排斥が徹底できていなかった。そこで政府はこの密令により商人団体に排日貨を強要し、日貨を取扱った業者の処罰などを行わない場合は政府が厳罰に処すこととしたのである。
日貨排斥が本格化するなかで満州事変が勃発
この密令により排日貨運動が再び動き出すのだが、昭和六年七月二十二日の大阪朝日新聞は、いよいよ排日運動が本格化してきたことを報じている。
【上海特電二十一日発】反日大会は二十日各省党部を通じて各地の各団体に対し「日貨がもし到着した場合には差押えられたき旨」を通電した。上海では直に日貨検査を開始し、埠頭、停車場に検査員を派することとなった。また現に手もとに日貨を持っているものはその商品と数量の登記をすることになっているのでこれが登記は二十三日より開始されることとなった。…中略…
差押えたる日貨は焼棄てること、違反者には死刑の極刑まで科することなどの過激の言をなす団体もあって、排日はいよいよ実行期に入り相当根強く続けられる予想が確実になって来た。
『神戸大学新聞記事文庫』外交77-102
この大阪朝日新聞の記事の翌日の大阪時事新報は、アメリカの満蒙進出の活動が再開されたことを報じている。排日貨運動がこれから本格化するというタイミングでアメリカが満蒙進出に再び動き出したことはとても偶然だとは思えない。
昨年夏から秋にわたって猛烈な活動を試みた米国の対支特に対満経済発展策は、昨冬来一時勢いをひそめていたが本年四月頃から再び活動を開始し、殊に七月に入ってからは顕実になったようである。
『神戸大学新聞記事文庫』アジア諸国(4-107)
確たる証拠があるわけではないが、この時期に再び支那の日貨排斥が激しくなる背景にはアメリカがあったのではないだろうか。それまでは日貨の取締が徹底されていたわけではなくいずれ下火になると楽観視する向きもあったが、日貨排斥のルールの違反者を厳罰化する方針が出たことでその後日本の商品が厳しく管理され、差し押さえられるようになる。
八月六日付の神戸新聞記事では、伊藤忠商店(現伊藤忠商事)の綿糸二百二十五俵と東洋綿花(現トーメン)の五十俵、綿布八十五俵が差し押さえられ、返還を拒否されたと報じている。こんな行為は強盗と変わらない。
八月十四日の大阪毎日新聞の記事では、上海の反日会が日貨抑留を宣言して以来約一ヶ月間で、差し押さえられた主な事例が報道されている。
上海本社特電【十三日発】七月十三日上海反日会が日貨抑留を宣言して実行に入って以来、法治国にあるまじき不法行為は、わが当局の厳重なる抗議と内外人のひんしゅくを買いながら依然として今日まで継続され、最近に至ってますます悪化の兆あり。日本商人側では自衛団組織の空気をさえかもすに至っている。
『神戸大学新聞記事文庫』外交77-139
反日会が日本商品差押えて返却もしないことは明らかな不法行為だが、支那官憲は反日会の行為を黙認しており、日本商人が商品を取り戻すことは容易ではなかった。同日の東京朝日新聞は、次のように伝えている。
上海における反日会の横暴ばっこに対して、十一日遂にわが海軍陸戦隊は、実力をもって反日会の強奪品を奪い返すに至ったとあるが、かくの如き不法行為に対しては、実力の応酬以外に方法はあり得ない。抗議などは何の役にも立たないのである。支那側の反省なき限り、望ましからざる方法であるが、やむを得ざることと思う。
『神戸大学新聞記事文庫』外交77-137
支那に関しては排日貨運動ばかりが問題なのではない。排日教育で反日感情が煽られて各地で反日スローガンのポスターが貼られ、たとえば満州では鉄道妨害や線路などを爆破する事件が多発している。さらに六月二十七日には中村大尉が案内として同行した元騎兵曹長井杉延太郎とともに、民安鎮という部落で、同地駐在の支那官兵のために虐殺される事件(中村大尉事件)が起き、七月二日には長春北西の萬宝山で入植中の朝鮮人が現地中国人と小競り合いから、日本警察と中国農民が衝突する事件(万宝山事件)が起き、これを機に朝鮮半島で中国人排斥運動が起こり多くの死傷者が出ている(朝鮮排華事件)。そして九月十八日には満州事変のきっかけとなる柳条湖事件が起こるのだが、この事件について、満鉄を爆破したのは支那兵であったことに異議を唱える国は戦後になってからもなかったといって良い。しかしながら、満州事変時関東軍の指導者であった板垣征四郎や石原莞爾が他界した後、昭和三十一年になって雑誌に発表された論文がきっかけとなり、柳条湖事件は関東軍の自作自演であったと歴史が書き換えられてしまった。事変当時支那は関東軍の自作自演と言っていたのだが、世界は支那の主張を相手にしなかった。この国は今も同じだが、息を吐くように嘘をつく。誤情報を宣伝で広めて世界を撹乱することは日常茶飯事である。
戦後わが国の教科書やマスコミの解説では、柳条湖事変は関東軍の自作自演と書かれているのだが、その根拠とする昭和三十一年十二月発行『別冊 知性』第五号で花谷正の名前で書かれた論文は本人の書いたものではない。事変当時の記録や世界の論調等を読めば、少なくとも世界はわが国の発表内容に全く疑問を持っていなかったことがわかるのだが、戦後十一年も経って発表された論文で事件当時の記録総てが否定されてしまった。その点について語ることは今ではマスコミや出版会ではタブーにされているようである。
左翼の多い日本史学会ではこの通説は簡単にはひっくり返らないと思うが、戦前・戦中にわが国や世界で認識されていた内容とは真逆になっている歴史叙述については、どちらが正しいかを考える姿勢が必要ではないだろうか。
戦後GHQが焚書処分して戦後の日本人に読めないようにした本を国別に点数を調べると、中国や満州に関する本が英米よりもはるかに多いのである。戦後にわが国に広められてきた中国に関する歴史で、特に中国が声高に主張している内容を鵜呑みにすることは危険だと思う。
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