湖東の紅葉名所
滋賀県の琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西の山腹に湖東三山と呼ばれる三つの天台宗寺院がある。北から西明寺(さいみょうじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)と並ぶのだが、百済寺の南東にある永源寺とともにいずれも紅葉の名所として良く知られており、この季節には訪れてみたい寺である。
近くの近江八幡市にも教林坊という紅葉名所があるので旅程に入れて、一日で巡ることにした。
龍應山 西明寺
最初に訪れたのは、西国薬師四十九霊場第三十二番札所の西明寺(滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26)。山号は龍應山(りゅうおうざん)で、湖東三山で最も北にあり、境内の西側に大池があることから池寺とも呼ばれる天台宗の寺である。下の画像はその中門である。
寺伝では、平安時代の承和元年(834年)に三修上人が仁明天皇の勅願により開創したとされ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内に十七の堂塔と三百を数える僧坊を持ち、寺領は二千石にも及んだという。
しかしながら、元亀二年(1571年)に比叡山が織田信長に抵抗したため、この寺も丹羽長秀によって焼かれ、本堂・三重塔・二天門のみが兵火を免れて残された。その後、寺は荒廃していったが、江戸時代に入り徳川将軍家の庇護を受けて徐々に復興し現在に至っている。
受付をすませて中門から庭園に入ると不断桜が咲いている。
上の画像は国指定名勝の蓬来庭で、江戸時代中期に望月友閑が作庭したとされる池泉回遊式の蓬来庭園である。
参道を登ると二天門(国重文)がある。入母屋造・杮(こけら)葺きの八脚門で正長二年(1429年)の胎内銘札がある増長天像と持国天像が安置されている。
二天門をくぐると正面に本堂がある。本堂は鎌倉時代初期に建てられたもので、国宝に指定されている。本尊の木造薬師如来立像(鎌倉時代・国重文)は秘仏で、両脇侍に木造日光・月光菩薩立像(鎌倉時代)、その周囲を木造十二神将像(鎌倉時代、滋賀県文化財)、多聞天・広目天の木造二天王立像(平安時代・国重文)が立つ。裏堂には木造不動明王及二童子像(平安時代、国重文)や、木造釈迦如来立像(鎌倉時代、国重文)など貴重な仏像を間近に見ることが出来る。
本堂の右には三重塔(国宝)が立っている。鎌倉時代後期に建てられたもので、高さは24mあるという。塔の初層荘厳画は大和絵の一派巨勢派の絵師によって描かれたもので、現存する鎌倉時代の極彩色の仏教壁画としては国内唯一とされ、春と秋には数日間特別公開されるが今年の特別公開は終了してしまったようだ。
松峰山 金剛輪寺
次に訪れたのは金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874)。山号は松峰山(しょうほうざん)で、湖東三山の中央にある天台宗の寺である。西明寺からは車なら7分程度で到着する。下の画像はこの寺の黒門である。
寺伝によるとこの寺は天平十三年(741年)に聖武天皇の勅願により行基が開山したとされ、嘉祥年間(848~851年)に延暦寺の慈覚大師(円仁)が中興して天台宗に改められたとある。また寿永二年(1183年)には源義経が木曽義仲追討に向かう折に、武運長久を願って当寺に参籠し、太刀を奉納したことが伝わっているという。
中世になると、近江守護の佐々木氏の厚い崇敬を受け、山内に百ほどの坊舎が建ち並んでいたが、応仁・文明の乱以降の騒乱で寺勢は衰え、織田信長の近江侵攻と佐々木六角氏の滅亡により坊舎の多くを失ったという。
参道を進む途中に明壽院(みょうじゅいん)の門があり、その庭は桃山時代から江戸時代にかけて造られた池泉回遊式庭園で国名勝となっている。江戸時代には二十余の坊舎が存在したというが、明治維新後荒廃し、現在は明寿院1坊で護持されている。
明壽院から参道に戻って、参道の石段を登っていくと二天門(国重文)がある。室町時代後期に建てられた入母屋造・檜皮葺の八脚門である。
二天門を抜けると本堂(国宝)がある。入母屋造・檜皮葺で室町時代前期の建立である。本尊の木造聖観音立像(滋賀県文化財)は秘仏だが、左右の厨子には木造阿弥陀如来坐像二軀(鎌倉時代・国重文)、不動明王立像(鎌倉時代・国重文) 、毘沙門天立像軀(鎌倉時代・国重文)、四天王像四軀(鎌倉時代・国重文)など貴重な仏像が立ち並び、まさに圧巻である。
裏堂にも十一面観世音立像(平安時代・国重文)などが所狭しと並べられている。
本堂左手には三重塔(国重文)がある。室町時代の建立なのだが、長らく荒廃していて初層は骨組みをさらし、三重は倒壊した状態であったようだ。「日本の塔婆」サイトに復元がなされる前の三重塔の写真が出ているが、昭和五十三年(1978年)に復元がなされて美しい姿を蘇らせたという。
受付の近くに愛荘町歴史文化資料館があり、寺の受付で団体割引券が入手できる。
この資料館の中には金剛輪寺所蔵の名宝のほか、明治時代初期に金剛輪寺から東洋美術家ビゲローによって海外に持ち出され、現在はアメリカのボストン美術館が所蔵する金銅造聖観音坐像のレプリカがある。今は大勢の観光客で賑わう金剛輪寺なのだが、明治政府の神仏分離政策のあと、寺領を上知令により奪われ、それまで寺社を支えていた領主も失われ、金剛輪寺だけでなく多くの寺の収入が激減したために存亡の危機に襲われ、この時期に多くの美術品が海外に売られたことを知るべきである。
愛荘町歴史文化資料館から撮影した画像だが、この近辺の紅葉もまた素晴らしかった。
釈迦山 百済寺
次の訪問地は百済寺(滋賀県東近江市百済寺町323)。山号を釈迦山といい、湖東三山の最も南に位置する天台宗の寺である。金剛輪寺からは車なら15分程度で到着する。下の画像は表門付近の紅葉である。
と古代より湖東一帯は渡来人が多く定住しており、この寺が渡来人との関りがあったことは「百済寺」という寺号からも推測される。
寺伝によれば、推古天皇の時代に聖徳太子の発願により創建されたとあるが、当時の記録はないので詳しいことはわからない。平安時代には比叡山延暦寺の勢力下にはいり、天台宗の寺院となり、最盛期には僧坊は三百を超え、千人近い人々が山内に住したと伝えられている。
記録によると、文永十一年(1274年)、明応七年(1498年)に大火があり、その後文亀三年(1503年)には近江守護六角高頼と守護代伊庭貞隆との争いに巻き込まれほとんどが焼失してしまったという。その後復興されたが、織田信長の近江侵攻に際して、この寺が信長に抵抗していた六角承禎を支援したために信長の焼き討ちに遭い再び全焼してしまう。江戸時代に入り、天海僧正の高弟亮算(りょうさん)が復興を進め、彦根藩の支援を得て、慶安三年(1650年)に本堂・仁王門・山門が完成している。
本坊の喜見院は以前は仁王門の近くにあったが、昭和15年(1940年)に現在地に移転し、その時に池泉回遊式の大庭園も移されたのだそうだ。
庭園の見晴らし台からは、眼下に湖東平野を望むことが出来る。晴れた日には比叡山や比良山系の山々も見渡すことができるという。
見晴らし台から本堂に向かう石段を進むと、正面に大きな草鞋(わらじ)の掛かった仁王門が見える。
仁王門を抜けると、ようやく正面に本堂の石垣があらわれ、本堂の大屋根が見えてくる。本堂は入母屋造の檜皮葺で、正面には軒唐破風がついている。本尊の木造十一面観音菩薩は秘仏で開帳時期以外にみることは出来ないが、平安時代に制作された像の高さは2m60cmもある大きなもので、信長侵攻の際には奥の院不動堂に避難して火災を免れ、江戸時代に修復されたものだという。
百済寺も明治初期の神仏分離の後、かなり荒廃したようだ。『日本の塔婆』にはこう記されている。
明治維新の上地、及び神仏分離で坊舎の僧は山を去り、坊舎は廃棄される。日吉十禅社・八幡社・白髭社・大行事社は分離される。
(維新後、岩本坊・一乗坊の記録は残る。)
明治36年本坊喜見院住職が逝去し、長く無住となる。(その後は金剛輪寺住職が兼務する。)
昭和初期住職が入山、喜見院を現在地に移築し、現在は喜見院1坊で護持する。」
教林坊
次の目的地は教林坊(滋賀県近江八幡市安土町石寺1145)。百済寺からは車で30分もかからない。この寺は紅葉が美しいことで知られており、春と秋にのみ一般に公開され、普段は非公開である。公開時期は教林坊のホームページに出ている。
この寺は、西国三十三か所観音霊場の観音正寺(天台宗)が創建された際に開かれたといわれる三十三坊のうち唯一現存している寺院である。しかしながらこの寺もその後荒廃していき、しばらく無住の寺になっていたのだが、平成九年(1997年)に就いた住職は、翌年に庭園、庫裏、表門が町の名勝・文化財に指定されたことから町の協力を得て修復を進め、一般公開に至ったのだそうだ。
上下の画像は近江八幡市指定文化財の庫裏。江戸時代前期の建造と考えられている。
この寺の庭は、慶長年間(1596~1615年)に小堀遠州によって築かれたと伝わっており、近江八幡市指定文化財名勝である。画像の左の建物は本堂である。庭園全体に配されたモミジ、スギゴケ、竹林の風情が素晴らしく、公開期間中は夜のライトアップも行われているという。
瑞石山 永源寺
最後の目的地は永源寺(滋賀県東近江市永源寺高野町41) で、教林坊から車で30分ほどドライブして到着する。この寺は臨済宗永源寺派の大本山で、山号は瑞石山(ずいせきざん)である。
総門から続く参道を進むと亨和二年(1802年)に完工した山門がある。
この寺は室町時代の初め康安元年(1361年)に近江の領主佐々木氏頼が寂室元光禅師(じゃくしつげんこうぜんじ)に帰依し、自ら開基となって寂室元光を開山として創建した。応仁・文明の乱では、京都を避けた相国寺の横川景三らの禅僧がこの寺に避難し、禅文化が交流したという。しかし、明応元年(1492年)、永禄六年(1563年)に戦火を受け、全山が焼失して寺は衰亡した。
江戸時代に入り、後水尾天皇が帰依した一絲文守(いっしもんじゅ)が入寺し伽藍は再興されたが、再び火災で焼けてしまい、その後彦根藩の井伊家が復興に尽力したという。
上の画像は本堂で、明和二年(1765年)に建立されたものである。
本堂から法堂、開山堂と進んでいくあたりは特に紅葉の美しい場所である。上画像は開山堂付近の紅葉だ。
京都の紅葉名所を廻る場合は、紅葉の盛りの時は平日でも駐車場待ちや道路の渋滞で時間をロスすることが良くあるのだが、今回の旅行では美しい紅葉の時期に予定していた古刹をスムーズに巡ることができ、大満足の一日であった。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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