岐尼神社
昼食休憩を終えて岐尼神社(きねじんじゃ:能勢町今西103-3)に向かう。
能勢町には古い神社がいくつかあるが、この神社も「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に名前の出ている由緒ある神社である。「延喜式神名帳」というのは延長五年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、ここに名前のある神社を「式内社」と呼び、全国で二千八百六十一社あるという。能勢町には野間神社、岐尼神社、久佐々神社と「式内社」が三社も存在する。
岐尼神社の御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと:天照大神の孫)、天児屋根命(あめのこやねのみこと:中臣氏の祖神)、枳根命(きねのみこと:大名草彦命の子)と「源光仲」とある。
案内板によると、この神社は延暦元年(782年)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家の御祈願所であったと伝えられるが、戦国時代に何度か戦火に遭い古文書が焼失してしまったという。今の社殿は、慶長十年(1605年)に再建されたものだという。
かつては神仏習合で近くに白雲山神宮寺が建てられて盛時は十坊を数えたそうだが、戦国時代の天正年間(1573~91年)に多くが断絶し、成就坊のみが残ったという。江戸時代の天保期に凶作が続き、農民は飢饉に苦しんだ(天保の大飢饉)。各地で百姓一揆が多発したのだが、天保八年(1837年)に能勢郡山田村の山田屋大助が農民千人を集めて米穀の均分支給と徳政令の発布を求めて一揆に及んだ(能勢騒動)記録がある。その発起点となったのがこの岐尼神社で、その時に各村々に響き渡った早鐘は成就坊の釣り鐘であったという。その成就坊は明治維新の神仏分離で廃寺となり、また日露戦争後の明治四十年(1907年)には神社合祀で十ヶ村の氏神が岐尼神社に合祀されたそうだ。
月峰寺の歴史と六体の阿弥陀座像石仏
岐尼神社から月峰寺(げっぽうじ:能勢町大里555)に向かう。この寺の歴史は古く、推古天皇の時代に日羅上人が剣尾山(けんびさん)の山頂に開創し、最盛時には四十九余の院坊があったそうだが、天文十四年(1545年)に丹波八上(やがみ)城主波多野氏の兵火により焼失してしまい、大坂城代・茨木城主であった片桐且元が、豊臣家再興を願う秀頼の祈願所として堂宇の再興を計る計画があったのだが、豊臣家が滅亡したためにそれが叶わなくなり、寛文四年(1664年)に観行上人は開創の剣尾山の山上を去り、麓の現在地に月峰寺を再建したという。剣尾山の山上には本寺草創期の寺跡が残されており、大阪府史跡に指定されている。
本堂の拝観は予約すれば出来たのかもしれないが、この寺には本尊の十一面千手観音座像(江戸時代)のほか、釈迦如来坐像(鎌倉時代から室町時代初期)、木造聖徳太子孝養像(南北朝時代から室町時代)があるという。
『摂摂津名所図会』に月峰寺の境内と左上に剣尾山が描かれている。今残されている境内は、左上の方に描かれている一部にすぎないのだが、昔は随分広い境内であったことがわかる。
名所図会には描かれていないのだが、境内には室町時代前期の文安四年(1447年)に制作された等身大の阿弥陀石仏座像六体が並んでいる。制作者は京都系の石大工と推定されているが、光背のある六体の石仏が並ぶ姿は結構見ごたえがある。剣尾山上の旧月峰寺跡にも六地蔵と呼ばれる六体の石仏が残されているのだそうだが、体調が良くなったら訪問したいものである。
久佐々神社と土師氏
次の目的地は久佐々神社(くささじんじゃ:能勢町宿野270)。この神社も「延喜式神名帳」に名前の出ている由緒ある神社である。現地の案内板によると創建は和銅六年(713年)で、当社の社名についてはこう記されていた。
『日本書紀』雄略天皇十七年三月二日の条に、…
「天皇が朝夕の食事に使われる食器を、献納する詔がくだり、土師連(はじのむらじ)の祖である吾笥(あけ)が、摂津国来狭狭(くささ)村などに居住している部民を、贄土師部(にえのはしべ:土器を作る職人)として朝廷に献上した」というのである。文中の「来狭狭村」は当地に比定され、社名もこれに拠ると考えられる。 …中略…
当社は、悠久の大化前代から土地を開いた祖神や先人を産土神(うぶすながみ)として祀(まつ)り、当社は社名・村名を同じくし、以後千有余年の星霜を重ねてきた。…
たしかに、地名も社名も千年以上引き継がれてきたという事例は全国的にも珍しいのではないだろうか。境内には杉や檜の巨木が林立し、この神社の長い歴史を感じさせられる。
御祭神は「加茂別雷神(かものわけいかずちのかみ)」のほか、末社の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」「豊受比売命(とようけひめのみこと)」、「事代主尊(ことしろぬしのみこと)」、「宇賀御魂神(うがみたまのかみ)」、「応神天皇」と多いのだが、末社の神々は明治四十年(1907年)に近隣の神社を合祀したことによる。主祭神については案内板には、次のように記されている。
大宝元年(七〇一)の能勢郡の設置に伴い、能勢郡郡司となった神人為奈麻呂(かわひとのいなまろ)が、賀茂氏とは同祖であることから、祭祀された可能性が大きいと思われる。また、当社の文書断簡に「祭神天穂日命(あめのほひのみこと)、御合殿祭神賀茂別雷神、右大同年間(八〇六~九)奉斎ス」とあり、「天穂日命」は、前述の贄土師部の遠祖であることから、当初は「天穂日命」が奉斎されていたように思われる。
デジタル版日本人名大辞典によると「天穂日命」は、
天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際に生まれた五男神の一神。葦原中国(あしはらのなかつくに)に高天原(たかまがはら)から派遣されたが復命せず,のちに大国主神(おおくにぬしのかみ)の祭主を命じられたという。出雲(いずも)氏,土師(はじ)氏らの祖先神。
コトバンク 天穂日命
とあり、土師氏系の人々がこの地に住み着いて彼らの祖先神を祭神としたということであろう。古代豪族の土師氏は技術に長じており、古墳時代に古墳造営や葬送儀礼に携わったと言われている。
久佐々神社の主祭神が「天穂日命」が途中で秦氏の氏神である「加茂別雷神」に変わったというのは非常に興味深い。
近鉄南大阪線に「土師の里」という駅があるが、大阪府藤井寺市の道明寺辺りは土師氏が本拠地としていた地域で、道明寺は土師氏の氏寺である。しかしながらかつてこの地域は秦氏の居住地であり、相次ぐ古墳の築造で土師氏が勢力を得ていったことを意味するのだが、もしかすると久佐々神社の案内板に書かれているように、「雄略天皇十七年(五世紀後半)」に久佐々から古墳や土器を作る人々を朝廷に献上したとすれば、藤井寺辺りに住み着いた可能性が高いと思われる。羽曳野市から藤井寺にかけては五世紀から六世紀にかけて百二十三基の古墳(現存八十七基)が建造されたというが、病気が快癒したらこの古墳群を一日かけて巡ってみたいと思う。
湧泉寺の古仏と倉垣天満宮の大銀杏
次の目的地は湧泉寺(ゆうせんじ:能勢町倉垣1773)で、この寺には平安時代から鎌倉時代に制作された仏像が三体残されている。拝観を予約していたわけではないのだが、たまたま庭に奥様が出ておられたので、お願いしたら前住職から直接案内を受けることが出来た。
簡単に湧泉寺の歴史を振り返っておこう。
弘仁十一年(820年)に空海が釈迦ヶ岳の山頂に龍泉寺を開き、以後真言宗の寺として栄えたのだが、文明十五年(1483年)に戦火に見舞われ、堂宇や古記録は失われてしまう。
江戸時代に入り能勢一円の寺が日蓮宗に改宗されることとなり、この寺も寛永六年(1629年)に湧泉寺と名前を変え日蓮宗の寺となって、現在地に移転した。
昔は神仏習合で、この寺は隣接の八坂神社(現:歌垣神社)の神宮寺であったのだが、歌垣神社の案内板によると、「寛永二年(1625)二月 領主の命により、祇園牛頭天王(ごずてんのう)を勧請」したとある。「祇園」というのは「感心院祇園社」(現在の八坂神社)のことで、その祭神は「牛頭天王」で災厄を除いてくれる神として信仰されていた。
湧泉寺にはかつて牛堂があり水牛に跨る大威徳明王が祀られていて、この寺は「牛堂さん」と親しまれ、一月八日に催される『牛堂講』には牛を連れた参詣人で賑わったという。
ところが明治時代に入って、政府による神仏分離施策により「牛頭天王」を守ることが禁じられ、八坂神社も祭神を素戔嗚尊(スサノオノミコト)に変えられ、社名も「歌垣神社」に改称した。
一時期はこの寺は廃寺同然となったようだが、古仏は守られて、再び『牛堂講』に近隣各地から牛を連れた参詣人が集まるようになったという。しかしながら昭和三十年代頃から農家も牛を使わなくなり、一月八日の縁日もなくなってしまったという。
上の画像は平安時代後期に制作された木造多宝如来坐像(大阪府重要文化財)。胸部に「経深」と読める墨書があり、仏師の名前ではないかとされている。合掌の手がわずかにバランスを欠いているのは、日蓮宗改宗の際に阿弥陀如来像から改変されたと考えられているという。
上の画像は木造大威徳明王像(能勢町指定有形文化財)でこの仏像も平安後期に制作されたものである。「威徳明王」は真言宗の五大明王の一尊で、西の守りを担う明王とされている。大阪府下では最古で最大の大威徳明王像なのだが、この仏像を日蓮宗の寺に残すために、日蓮像を前面に置くなどいろいろ苦労をされておられる。
上の画像は鎌倉時代に制作された木造釈迦如来坐像。特に文化財指定はないが、表情の美しい仏像である。この仏像も両手首がわずかにバランスを欠いており、日蓮宗改宗の際に薬師如来像を釈迦如来像に変えたのではないかと考えられているという。
前住職にお礼を述べて、最後の目的地である倉垣天満宮(能勢町倉垣989)に向かう。この神社は天喜二年(1054年)に北野天神の分霊を歌垣山の頂上に勧請し祀ったのが起源とされ、御祭神はいうまでもなく菅原道真である。
天正十二年(1584年)に現在の地に遷座されたのだが、現地案内板によると遷座の理由は「参詣の便をはかるために山麓を目指し」たのだそうだ。
どこにでもあるような神社なのだが、境内には大阪府天然記念物に指定されている大イチョウがある。
樹高十八メートル、幹回り八メートルの大木で、大阪府では最大のイチョウだという。野間の大ケヤキもいいが、この大イチョウも素晴らしい。
能勢町には観光地として有名な寺社はわずかしかないが、古い歴史のある寺社が昔のままに残されていて、古い文化財が数多く残されている。どこの町にもあるようなチェーン店の看板はなく、どこかのように太陽光パネルや風力発電機も見当たらない。山も川も寺も神社も街並みも、地域の人々の生活の中で美しく保たれている。
昔のものが昔のままに美しい町を一日散策して、長期入院する前に大きなパワーを頂いたような気がした。
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