以前このブログで奈良の廃仏毀釈や神仏分離について何度か記事を書いたことがある。奈良県は明治九年(1876年)の第二次府県統合で大阪府東部・南部を管轄していた堺県に統合されて「奈良県」の名が地図から消え、さらに明治十四年には堺県が大阪府に編入されている。奈良県が再設置されたのは明治二十年のことなのだが、「奈良県」の名前が地図になかった時代に、奈良は多くの文化財を失っている。
久しぶりに奈良に行きたくなって、廃仏毀釈や神仏分離が行われた奈良の寺や神社を中心に巡って来たが、今回は石上神宮と内山永久寺の跡地のレポートをさせていただく。
石上神宮

最初に訪れたのは石上神宮(天理市布留町384)。この神宮は『古事記』や『日本書紀』にも記載されており、桜井市の大神神社とならぶ日本最古の神社と言われている。ヤマト政権の軍事面を統括した物部氏の総氏神としてその信仰を集め、御祭神は石上大神で、昔は「石上社」「布留社」「布留石上明神」などと呼ばれていた。
上の画像は楼門(国重文)で、文保二年(1318年)に建立されたものである。かつては鐘楼門として鐘が吊るされていたのだそうだが、明治初年の神仏分離令により鐘は取り外されて売却されたのだそうだ。

楼門をくぐると、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を移したとされる拝殿(国宝)がある。その後ろに大きな本殿が立っているが、石上神宮には大正二年に建てられるまでは本殿はなく、拝殿後方の禁足地を御本地と呼び、神聖な地として拝殿が本殿と同等の扱いを受けて来たという。
明治七年に禁足地の発掘調査が行われ、その後本殿の建築の際にも勾玉や銅鏡や白銅製の鏃など数多くの遺物が出土し、神宮のホームページにこれまで禁足地で発掘された遺物の写真が出ているが、これらは国の重要文化財に指定されている。また神宮の神庫にはほかにも多くの社宝が収められており、古代から当神宮に伝わる七支刀(国宝)、鉄盾(国重文)などがあるという。七支刀は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から贈られた「七枝刀」に当たると考えられており、製作年については剣身両面に刻まれている金象嵌の銘から西暦の三六九年にあたると考えられている。

楼門前の丘の上には、摂社の出雲建雄神社がありその拝殿が国宝に指定されている。この拝殿は正安二年(1300年)に建立されたものだが、もともとは神宮の南に存在した内山永久寺の鎮守社である住吉社のものであった。内山永久寺は大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受けていて、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれていた大寺院であったのだが、明治時代初期の廃仏毀釈ですっかり荒廃してしまい、大正三年に移築されたこの建物が内山永久寺の数少ない遺構である。
内山永久寺跡

石上神宮境内の鬱蒼とした森の中に山の辺の道があり、この道を南に八百メートルほど進むと内山永久寺の跡地に着くことが出来る。

上の画像は江戸時代の享和年中から文化年中(1801-1818)に制作された『和州内山永久寺図』で、中央に描かれている池が大亀池で、境内には多数の堂宇が存在していたことがわかるのだが、明治初期に境内のすべての建物が破壊されてしまい、今は大池だけが残されて周囲は果樹園になっている。

大池のほとりに松尾芭蕉の句碑がある。「うち山やとざましらずの花ざかり」と刻まれているが、この作品は芭蕉がまだ出生地の伊賀上野に住んでいて「宗房」と号していた頃のもので、寛文十年の『大和巡礼』に収録されていることから、芭蕉が二十三、四歳の頃までに詠んだものと考えられている。
若き日の芭蕉がたまたま内山永久寺を訪れると桜の花が満開であった。近くに住んでいるのではないのでこの寺の桜がこんなに美しいものであることは知るよしもなかった、という意味であろう。

内山永久寺は平安時代後期に鳥羽天皇の勅願により創建された真言宗の寺で、後醍醐天皇もこの寺に立ち寄られた記録が残っていて、その建物跡には「萱の御所」と刻まれた石碑が建てられている。

大池の東側に半島の様に突き出たところがあり、そこに内山永久寺記念碑が建っている。
江戸時代には九百七十一石の朱印地を与えられていて、大和国では興福寺、東大寺、法隆寺に次ぐ大寺院で、境内は五丁四方の広大な地域を占め、四十坊以上の伽藍があったという。しかしながらすべてが破壊されてしまい寺宝は散逸し、跡地に残されているのは三つの石碑と、歴代住職の供養塔のみである。
内山永久寺の廃仏毀釈
大池の東南の高台に内山永久寺の廃仏毀釈について書かれた天理市・天理市観光協会の案内板があり、そこには「廃仏毀釈の嵐に呑み込まれた幻の大寺」とあり、「明治の神仏分離令・廃仏毀釈により、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外に散逸した。」と書かれている。この解説では誰が何時破壊し、どのような文化財が散逸したかという肝心なことが伏せられているのだが、実際は、文化財を強奪して売却して財を成した権力者がいたのである。わが国の歴史叙述では権力者にとって都合の悪い話は伏せられることが多く、廃仏毀釈を論ずるときは大抵の場合は主語を省略してあいまいな文章で叙述されることがほとんどなのだが、こんな文章では問題の本質を理解することは不可能だ。
『天理市史 上巻』に、明治維新政府が慶応四年三月二十八日に神仏分離令を出してからの内山永久寺のことが記されているので引用させていただく。
永久寺及び竜福寺*の僧は、慶応四年八月に復飾**して、石上神宮寺としての立場を廃止され、僧侶たちは石上神宮の新神司(あるいは宮人)となり、神勤に転向した(鷲尾隆慶編『明治維新神仏分離資料』)。
*竜福寺:石上神宮の東、天理市滝本町にあった寺。明治初期に廃寺となる。
**復飾:戒律を堅持する僧侶であることを捨てて俗人になること。もともと永久寺も竜福寺も石上神宮の別当神宮寺で、維新前は輪番で勤務していた。そこへ永久寺上乗院主の内山亮珍が神官の「社務」(社務担当者の意か)となった。…中略… 社務担当者と言っても、古来の神式のしきたりに疎いし、寺禄(これを社禄に代えたとも称しているが)もまだ残されていた。もっとも、永久寺の場合九七一石余が、明治元年四一二石余、同二年には三一七石余、同三年には二八〇石余と漸次減らされている。竜福寺も同様であった。なお石上神宮にはこの両寺とは別に、氏子郷中の村々にそれぞれ神宮寺があった。これらは石上神宮の神宮寺(本殿の東にあり、十羅刹女を祀った)と関係をもち、中筋諸山といった。この中筋寺も加わって、永久寺・竜福寺・中筋諸山と三者一年交代に勤務していたものである。これを社僧といった。この社僧とは別に、往古から神宮に神勤めをしていた社人がおり、かれらは仏式行事には関与せず、雨乞行事などは両者が役職を分けて合同で行っていたものである。
しかし「明治五年七月神社御改革につき被免」と永久寺関係書類にあるところを見ると、一部の旧社僧は禰宜***・権禰宜となって留まり、多くはこの時離職をしたものであろう。まだ寺は存在し、年貢は…中略…逓減禄米で二五〇石未満となったらしく、それ以後三年間賜ったらしい。
***禰宜:宮司を補佐する神職。権禰宜の上位。明治七年三月に廃寺となり、堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われ、九年には“大和の日光”といわれた名刹も姿を変えた。約七町歩の境内地のうち、宅地は旧僧侶の居住地として半額払下げ、私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地・池は官有、藪・山林・荒地は入札で処分された。旧僧侶たちも二十年ごろまでには、いずれも立ち去って、旧境内地一円は田畑に帰した。
天理市史編さん委員会 編『改訂天理市史(上巻)』昭和51年刊 p.347~349
慶応四年(1868年)に神仏分離令が出されて内山永久寺の僧侶たちは全員僧籍を捨てて、石上神宮の神職となったのだが、神社にとっては所詮は余剰人員であり、明治五年の「神社御改革」で多くが離職したと考えられている。
明治七年に廃寺となり、堂塔伽藍などは売却され取り払われていったと書かれているので、その頃までは寺の建物や仏像・仏画などの多くは残されていたと思われる。
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦(1862~1940)の講話などを抄録した『十三松堂閑話録』に内山永久寺の廃仏毀釈の話が出ている。
大和の一の宮布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しようということになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまする。その証拠はこの通りと言いながら、薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割ってしもうた。遉に廃仏毀釈の人々も、この坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。その迹は村人が寺に闖入して衣料調度から畳建具まで取外し米塩醤豉までも奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。
役所から町の庄屋中山平八郎を呼び出してお前は是を預かれと言う厳命、中山は迷惑の由を申し出て辞退をしたけれども許されず、ついに預賃年十五円を貰い預かることとなった。その後時勢が推し移り何時の間にやら預かった仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家に所有する藤原時代の仏像仏画の多くはこの中山の蔵から運んだものである。
こんな有様であるから総べて古物は仏画でも何でも二束三文となった。金泥で書いた経文等も焼いた灰から、金を取るというような商売のおこったのも無理からぬことであった。
正木直彦著『十三松堂閑話録』相模書房 昭和12年刊 p.115~116
この話が明治何年のことなのかが明記されていないのだが、内山永久寺の僧侶は全員復飾したのだから、神仏分離令が出されてからまだ日が浅い時期のことだと思われる。

内山永久寺の仏像や仏画は庄屋の中山平八郎が預かったというのだが、これらの寺宝の一部はのちに藤田財閥の創立者である藤田伝三郎と長男平太郎、次男徳次郎に渡っている。大阪市の藤田美術館に所蔵されている『両部大経感得図』(国宝)は、かつて内山永久寺が保有していたものである。また海を渡ってボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝だと言われている。
他にも東大寺ミュージアム所蔵の木造持国天立像(国重文:平安時代)、木造多聞天立像(国重文:平安時代)、木造聖観音菩薩立像(国重文:鎌倉時代)や東京国立博物館所蔵の愛染明王坐像(国重文:鎌倉時代)など、内山永久寺旧蔵の貴重な仏像仏画が各地に伝わっている。東大寺に渡った仏像は大和西大寺住職の佐伯泓澄の斡旋により内山永久寺から東大二月堂に早い時期に移されたようだが、多くは奈良県が堺県に統合された後に売却されたものと考えられる。この売却に関わったのは、奈良県統合後の堺県の県令・知事を務めた税所篤である。

税所篤は薩摩藩出身で、旧幕時代は王事に奔走し、西郷隆盛や大久保利通と共に薩南の三傑と並び称された人物であり、明治維新後は大久保の推薦を受ける形で明治二年に河内県知事、兵庫県権知事を務めたのち明治三年七月から明治十四年十一月まで堺県知事(明治四年以降は堺県令)を務めている。そして明治九年四月に第二次府県統合で奈良県が堺県に統合されている。その後堺県は大阪府に統合されて税所は元老院議官となるが、その後明治二十年十一月に奈良県が再設置されると、税所は初代奈良県知事の任命を受け、二年間知事職を務めている。
アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」が収蔵されているのだが、この副葬品が発掘された経緯については、最近の研究では明治五年に税所篤が意図的に発掘し盗掘したという説が現在では有力説なのだそうだ。もっと知りたい方は、「埃まみれの書棚から 第百四十六回」に詳しくレポートされている。
そして奈良県が堺県に統合されると、知事の税所が内山永久寺の文化財に触手を伸ばしたことについて、森本和男著『文化財の社会史』には次のように記されている。
この寺(内山永久寺)は、石上神社の神宮寺であったが、廃仏毀釈によって僧侶がすべて復飾し、堂塔はなくなり、仏像などは散逸してしまった。役人が検分にきて、寺の仏像、仏画、仏具を庄屋の中山平八郎に、年十五両の預り料で無理やり押し付け、その後、如何とも処分勝手たるべしと言い渡した。目ぼしい物は中山に預けられたのだが、そのうち両界曼荼羅、真言八祖、小野小町、弘法大使などの絵画、彫刻類の名品が、当時堺県知事であった税所篤の手に渡った。現在藤田美術館にある旧永久寺宝物の一部は、この税所篤を通して、藤田伝三郎のものになった。永久寺の廃寺とともに権勢家であった税所篤が、寺宝を収奪したのであった。
後に九鬼隆一らが1888年(明治二十一年)に行った宝物調査の際、税所は、信貴釈迦像、雪舟の維摩、夏珪の山水、李迪(りてき)の牧童、住吉慶恩作と伝える地蔵堂縁起、兆殿司の観音、又平の人物、顔輝の予譲、兆殿司の日本武尊、詫麿栄賀の不動、周文の観音、恵心僧都の二五菩薩、狩野元信の三仙、土佐光信の狐草紙など、他の寺院や収蔵家たちを寄せ付けないほど、多数の絵画の名品を所蔵していた。
森本和男著『文化財の社会史』彩流社 2010年刊 p.34

九鬼隆一らがこの年に実施した宝物調査で、寺社所蔵品のほか個人コレクションの目録が作成されたのだが、奈良県の個人コレクターのリストが同上書のp.293に紹介されている。ランキングの第一位が税所篤で二位以下を大きく引き離しているのは異常としか言いようがない。明治初期の県令・知事は昔の大名と同様の権力があり、司法権も警察権も有していたので何をやっても捕まることがなかったことを知るべきである。
この人物については、先ほど紹介させていただいた「埃まみれの書棚から 第百四十五回」にも詳しく書かれているので、興味のある方は一読されることをお薦めしたい。
税所篤は大久保利通と子供の頃から仲が良かったらしく、Wikipediaで「大久保利通」の項目を読むと、何度か税所の名前が出てくる。ちょっと気になるのが、大久保利通が明治八年(1875年)から一年かけて麹町三年町に建てた白い木造洋館を建てた建築費用は「恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる」と書かれている。税所がいくら大久保に貸したかは不明だが、普通に考えれば、知事である税所の給与が参議であった大久保よりも多かったとは考えにくい。この時期は奈良県が堺県に統合される前のことであり、たとえば仁徳天皇の副葬品など知事の力で手に入れた文化財を売却したり、開発利権などで蓄財した金を大久保に融通したのではないだろうか。
神仏分離令が出された頃に廃仏毀釈で文化財破壊が行われた事例が存在することは確かだが、多くの寺院で仏像や仏画などは破壊されずに残された。しかしながらその後の明治政府の宗教政策や西洋文化を偏重する政策により寺の収入が激減し、そのために廃寺となったり、止むを得ず寺宝を売却する寺が続出した。これらの文化財を購入した日本人コレクターも存在したが、我が国文化の混乱期であった時代に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出して多くの文化財を欧米に伝えた。アメリカやヨーロッパの美術館に国宝級の日本美術品が多数存在する理由はそのあたりにあるのだが、そのことをしっかりと書いている本はほとんど存在しない。
内山永久寺の「廃仏毀釈」については「堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり」という表現は正しいとは思えないのだが、このことは明治期の他の寺院の「廃仏毀釈」についても同様で、多くの文化財が海外に流出した原因は明治政府の政策にある。
ところが今のわが政府の経済政策も問題で、地方では高齢化が進み人口が減るばかりで経済的にも衰退しつつあるところが多く、寺院や神社が無住となっているケースが少なくない。今日のような政策が続けば、今後もっと地方の衰退が進むことになるだろう。令和の時代に多くの文化財が流出するようなことが起こらないことを祈るばかりである。
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