月ケ瀬梅林
そろそろ梅の花が見ごろを迎えたので、二月二十八日に月ケ瀬梅林から柳生の里を散策し、その後柳生街道沿いの寺社を訪ねてきた。
月ケ瀬梅林は奈良県の北東の端にあり、京都府や三重県の県境に近い場所なのだが、平成十七年(2005年)の町村合併により奈良市に編入されている。奈良市内とはいっても、奈良市の中心部からはかなり遠くて公共交通機関で行くことは難しく、殆んどの観光客がマイカーか旅行会社の企画した観光ツァーでバスで訪れる場所である。
旧村役場であった月ケ瀬行政センターに車を駐めて、一目八景、帆浦梅林、梅の品種園を往復する一般的なコースを歩いてきたが、月ケ瀬梅林はほかにも天神梅林、鶯谷梅林、こけいし梅林、一目万本など多くの梅林がある。芭蕉句碑が一目万本にあるようだが、昭和32年に刊行された名勝月ケ瀬学術調査団 編『名勝月ケ瀬』によると、芭蕉の時代は月ケ瀬の梅は有名ではなく、芭蕉が月ケ瀬を訪れた記録もなく、「春もやけしきととのふ月と梅」が芭蕉が月ケ瀬の梅を観て作った句であることに否定的である。
とはいえ、この梅林の景観が素晴らしいことが次第に伝わっていき、江戸時代後半以降に多くの著名な文人墨客が月ケ瀬を訪れて作品を残し、その景観が全国的に知られるようになっていった。とくにこの梅林を有名にしたのは津藩の儒学者であった斎藤拙堂が文政十三年(1830年)に漢文で著した『月瀬記勝』(つきがせきしょう)で、明治大正期に至るまで月ケ瀬のガイドブックとして広く読まれていたという。
月ケ瀬を流れる名張川が刻んだ雄大なV字谷の両岸に数多くの梅の木が植えられており、満開の時期は多くの観光客でにぎわう。下の画像は「一目八景」と呼ばれる場所の景観だが、観梅でこんな雄大な景色が楽しめる場所は珍しい。
江戸の文化文政期には紅花染めに用いる烏梅(うばい)がこの地で盛んに生産され、最盛期には十万本近くの梅の木が栽培されていたのだそうが、明治時代になって合成染料が伝来すると烏梅の価格が暴落したために、多くの梅の木が伐採されてしまったという。しかしながら、風光明媚な梅林を訪れる観光客はむしろ増加していき、その後月ケ瀬の景観を守るために「月瀬保勝会」が発足して、多くの人々の努力により大正十一年(1922年)に月瀬梅林が、奈良公園、兼六園とともに国名勝に指定されることとなる。
梅林の保護は軌道に乗るようになったものの、昭和十二年(1937年)からはじまる戦時統制の時代には、食糧増産のために多くの梅の木が伐採されてしまい、戦前は二万本と言われていた梅の木は戦後には半分以下になったという。また、昭和二十八年(1953年)には下流に高山ダムが建設される計画が発表され、計画が実行されると月ケ瀬梅渓が水没することとなる。月ケ瀬村では村を挙げての反対運動が行われ約十年間の交渉の結果、梅林の復元と新生月ケ瀬の再建を条件にダムの建設工事が開始された。水没予定地には約三千八百本の梅の木があったのだが、移植可能な古木が現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移されたそうだ。
ダム建設によって月ケ瀬の渓谷は失われてしまったが、その後も各所に梅が植えられて、新生月ヶ瀬梅林は今も観梅の名所として、観光客の目を楽しませてくれている。
美しい景観を守るために多くの人が努力して来た歴史のある観光地は他にもあるが、特に月ケ瀬は何度も観光価値が台無しになるような危機が訪れたなかで、地元の方々が良くそれを乗り越えてこられたことに感謝したい。
渓谷のあった辺りはダム湖となり月ケ瀬湖と名付けられたが、ダム湖を通して観る今の眺望もなかなか風情がある。
月ケ瀬桃香野(ももがの)に国指定重要文化財の菊谷家住宅(奈良市月ヶ瀬桃香野4907)があるので立ち寄ってみた。茅葺屋根の入母屋造で十八世紀初頭に建てられたものと考えられているという。残念ながら普段は公開していないようで、中に入ることは出来なかった。
柳生の里
月ケ瀬で食事を済ませて次の目的地である柳生(やぎゅう)の里に向かう。大和柳生藩はわずか一万石の小さな藩であったのだが、藩主の柳生家は江戸将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなしたことはよく知られている。
上の画像は柳生の北西の丘に立つ十兵衛杉。初代藩主・柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の子の柳生十兵衛が寛永三年(1626年)にこの杉を植えたと伝わるのだが、落雷のために枯れてしまっている。それからあとの柳生観光は、それぞれの観光スポットに駐車場がほとんどなく道幅が極めて狭いので、市営の駐車場に車を駐めて徒歩で巡ることになる。観光マップは柳生観光協会のサイトなどにアクセスして事前に印刷して用意しておいた方が良い。
上の画像は、江戸時代の後期に柳生藩家老として藩の財政を立て直した小山田主鈴(おやまだ しゅれい)の旧屋敷(旧柳生藩家老屋敷:奈良県指定文化財)である。昭和三十一年(1956年)以降空き家になっていたのだが、昭和三十九年(1964年)に作家の山岡荘八が屋敷を買い入れて修復し、NHKの大河ドラマ『春の坂道』はこの屋敷で構想を練ったと言われている。昭和五十五年(1980年)に遺族から奈良市に寄贈され、翌年から一般に公開されている。
主屋は嘉永元年(1848年)に築造された当時の姿を今に伝えるもので、奈良県では数少ない武家屋敷の遺構である。内部には小山田主鈴や旧柳生藩関連資料、山岡荘八の遺品などが展示されているのだが、次のような山岡の原稿が目に留まった。
「政治の心は仁慈でなければならない。権力がよこしまになったとき、民は不幸になる。…」今のわが政府の悪政ぶりを指摘しているような文章に思わず納得してしまった。
次に芳徳寺に向かう。この寺は初代藩主・柳生宗矩が亡父宗厳(むねよし)の菩提を弔うために、沢庵禅師を開山として寛永十五年(1638年)に開いた寺で、柳生家代々の菩提寺となっている。
現本堂は正徳四年(1714年)に建てられたもので、禅宗寺院の少ない奈良県で唯一の方丈建築として、奈良市指定文化財となっている。本堂裏手には柳生家の墓所がある。
芳徳寺から少し下ったところに正木坂剣禅道場がある。かつて柳生十兵衛が約一万人の弟子を鍛えたと伝わる正木坂道場にちなんで昭和三十八年(1963年)に建てられたもので、県下の剣道大会などで今も用いられているそうだ。この建物は、奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一条院の建物を移築したもので、正面入り口は京都所司代の玄関から移されたものだという。
正木坂剣禅道場から山道を歩いて天乃石立神社(あめのいわたてじんじゃ)に向かう。社殿がなく、御神体の花崗岩の巨岩の東側に質素な拝殿があるだけの神社だが、延喜式神名帳にその名が記載されている式内社である。
この谷の至る所に巨石が見られ、原始的な自然崇拝が行われていたことをうかがわせる空間が続く。柳生藩主も代々この神社を篤く信仰して来たという。
天石立神社の拝殿を過ぎて木の根道を百メートルほど進むと、中央で真っ二つに割れた巨石が目に入る。あたかも一刀のもとに切り裂いたかのようなので、一刀石と呼ばれている。柳生新陰流の始祖である柳生宗厳が天狗を相手に剣の修業をしていて、天狗と思って切ったのがこの岩だったと伝えられている。
山道を下って旧柳生藩陣屋跡に向かう。陣屋は初代藩主の柳生宗矩が寛永十九年に建築したのだが、延享四年(1747年)の火災で全焼してしまい、仮建築のまま明治維新を迎え、廃藩置県によって建物は売却されてしまった。その後小学校の用地として使われたこともあるようだが、今では昭和五十二年に行われた発掘調査に基づき、元の建物のあった場所に盛り土を施して石垣を築いている。
市営駐車場に戻り、車で夜支布山口神社(やぎゅうやまぐちじんじゃ:奈良市大柳生町3089)に向かう。
神社はこんもりとした森の中にあり、この神社も「延喜式」式内社である。鳥居の奥に見えるのが拝殿で、その奥に本殿がある。
上の画像は夜支布山口神社の本殿で、下の画像がその右奥にある摂社立磐神社(たていわじんじゃ)の本殿。
摂社である立磐神社本殿は江戸時代の中期に春日大社の第四殿を移したもので国の重要文化財になっている。案内板によると「当社地は立岩に神霊が宿る霊地として巨石信仰の古代から崇拝され、立岩の前には早い時期から社殿が建てられていた。後世に山口神社が当社地へ移され、立磐の神が摂社となった神社である」とあり、立磐神社の本殿の背後には巨石があって、夜支布山口神社よりも古い時代から巨石を祀る神社として存在していたというのは興味深い。
夜支布山口神社には、一年交代で集落の長老の家に神様の分霊を迎える「回り明神」という行事が伝わっていて、毎年八月十七日には七百年もの伝統を持つ太鼓踊り(奈良県無形民俗文化財)が奉納されてきたのだが、平成二十四年以降は地域に若者が少ないことから奉納は休止されているという。
最後に訪れたのは円成寺(えんじょうじ:奈良市忍辱山町1273)。上の画像は応仁二年(1468年)に再建された楼門で国指定重要文化財である。
この寺は万寿三年(1026年)に命禅(みょうぜん)上人によって開山されたと伝えられる寺で、兵火で主要伽藍が焼かれたが再興され、江戸時代には大寺として繁栄したが、明治維新後寺領を失い今の境内と建物のみが残された。上の画像は国指定重要文化財の本堂で文正元年(1466年)に再建されたものである。本尊の阿弥陀如来(国指定重要文化財)は平安時代に制作されたもので、この御本尊を守護すべく須弥壇上の四隅に、鎌倉時代に制作された持国天・増長天・広目天・多聞天の木造四天王立像(国指定重要文化財)が立っている。これらの仏像は寺のHPにも画像が出ているが、本堂に入ればじっくり鑑賞することが出来る。
本堂から出て斜め右には平成二年(1990年)に再建された多宝塔が立っている。多宝塔の本尊は運慶作の木造大日如来坐像で国宝に指定されている。多宝塔にはレプリカが安置されているが、本物は『相應殿』に安置されて、じっくりと鑑賞することが出来る。
境内は神仏習合の時代と変わらずに境内に鎮守社が残されている。春日堂・白山堂は安貞二年(1228年)の春日社御造営の折りに春日社神主藤原時貞卿が旧社殿を拝領し円成寺の鎮守社としたとされ、春日造社殿の現存最古の事例ということでいずれも国宝に指定されている。
なぜ円成寺は明治維新期の神仏分離を免れて鎮守社を境内に残すことが出来たのか、誰でも疑問に思うところだが、維新期までは春日大明神、白山大権現と呼ばれていたのを、仏堂を意味する春日堂、白山堂に呼称を変えて神仏分離を免れたという説がある。記録があれば確実なのだが、多分当たっていると思う。
とは言いながら、東隣りには「宇賀神本殿」があり、奈良県最古級の社殿として国指定重要文化財になっているが、この建物は神仏分離をどうやって乗り切ったのだろうか。
寛政三年(1791年)に刊行された『大和名所図会』に円成寺の境内が描かれているが、現在宇賀神本殿のある場所には「弁天」と記されている。宇賀神は財をもたらす福神として信仰された神であるが、仏教の神である弁財天と習合したと考えられていたので、「弁天」と呼ばれていたのは納得できる。明治維新期に円成寺は宇賀神本殿を「弁天堂」と呼ぶことで、神仏分離による破壊を免れたのではないだろうか。
円成寺の境内は今も神仏分離前とほとんど変わらない状態で多くの文化財が残されているのだが、こういう寺は珍しい。
円成寺には他にも多くの文化財があり庭園もまた国名勝に指定されているのだが、平日とはいえ観光客は他には誰もいなかった。確かに奈良の中心部からはかなり離れていて不便な場所にあるのだが、拝観すれば多くの文化財を楽しむことが出来て満足していただけるのではないかと思う。柳生の里方面に行かれる予定の方は、柳生街道沿いにある円成寺を旅程に入れることをお勧めしたい。
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