伏見稲荷大社の末社・藤尾社
前回記事で伏見稲荷大社の記事を書いたが、Wikipediaに興味深いことが書かれている。
永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承が藤森神社に伝わっている。これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年(759年)から藤尾社という舎人親王、その父の天武天皇を祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した、現在の藤森にあった真幡寸神社を藤森から西に移した(現在の城南宮)、という。つまりそれまで稲荷社は稲荷山山中(現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。
枕草子の第百五十三段に、清少納言が二月の午の日に稲荷社(現在の伏見稲荷大社)に参拝した記述があり、「中の御社のほどの、わりなう苦しきを念じ登るに、いささか苦しげもなく、後れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし」と記されている。清少納言は明け方に早々と家を出たのだが、稲荷山を半分ほどを登ったところでもう巳の刻(十時ごろ)になって、疲れ切っていた。「中の御社」というのは稲荷山の二ノ峰にある中之社を意味するが、清少納言は稲荷社を参拝するのに稲荷山を登っていたことが明らかである。
伏見稲荷大社は今も二月の初午の日に「初午(はつうま)大祭」が行われている。同社のHPにはこの祭りについてこう説明している。
稲荷大神が稲荷山の三ヶ峰に初めてご鎮座になった和銅4年2月の初午の日をしのび、大神の広大無辺なるご神威を仰ぎ奉るお祭で、2日前の辰の日に稲荷山の杉と椎の枝で作った“青山飾り”をご本殿以下摂末社に飾りこの日を迎える習わしがあります。
初午詣は、福詣とも呼ばれ、前日の巳の日から、ご社頭は参詣者で埋まり、京洛初春第一の祭事とされています。
「初午大祭」は、昔は稲荷山山上で行われていたために清少納言は稲荷山を登らざるを得なかったのであろう。その後、山の麓にあった藤尾社が、勅命により約2km南の藤森神社に遷座を余儀なくされ、山頂の社は山の麓の藤尾社のあった場所に移り、今の伏見稲荷大社の立派な社殿が建立されたというわけだが、このような話は、伏見稲荷大社のHPや案内板には一言も書かれておらず、藤森神社のHPの本殿東殿の解説に書かれていることが確認できる。
天平宝字3(759)年、深草の里藤尾の地に鎮座。藤尾は現在の伏見稲荷の地である。永享10(1438)年、後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を三麓の藤尾の地に移し、藤尾大神を藤森に遷座し、東殿に祀り、官幣の儀式が行われた。
伏見稲荷大社の大鳥居から楼門に続く参道の中間あたりを左に折れると、国の重要文化財に指定されている藤尾社という末社がある。「藤尾」というのは伏見稲荷大社の本殿などが建てられているあたりの地名なのだが、昔はこのあたり一帯が藤尾社という神社の境内であったのである。しかしながら、、前述の理由でこの神社は南に遷座されて藤森神社の東殿に祀られるようになり、伏見稲荷大社の境内に同社の末社として小さな「藤尾社」が残されているというわけだ。
そして毎年五月五日の藤森神社のお祭り(藤森祭)では、藤森神社の御輿が、伏見稲荷大社の参道の横にある藤尾社に宮入するのだという。
『雍州府志』による藤森神社の駈馬神事の記録
江戸時代の天和二年(1682年)から貞享三年(1686年)に記された『雍州府志』には、驚くべきことが書かれている。文中の舎人親王は天武天皇の皇子で『日本書紀』編集の最高責任者である。
今の藤の杜の祭の日、稲荷の馬場に於いて競馬の儀有り。是れ尤も藤の杜の地たるに依りてなり。舎人の親王は摂社にして是れ元、地主の神也。今、稲荷の社の馬場の北に天皇塚有り。是れ即ち舎人の親王を葬る所也。
(黒川道祐 著『雍州府志 近世京都案内 (上)』岩波文庫 p.174~175)
伏見稲荷大社の大鳥居から楼門に続く参道は、かつては藤尾社(藤森神社に合祀された神社)の境内であり、江戸時代前期頃は藤森神社の伝統行事である駈馬神事(かけうましんじ)がここで行われていたというのである。ただ参道の北にある天皇塚というものはどこを指すのかよくわからない。
清少納言の時代は、稲荷社の参拝者は稲荷山を登らざるを得なかったのだが、その後稲荷社の参拝客が大幅に増加し、まずは山に登れない人のために稲荷山の聖地を遥拝する奥社奉拝所が建てられ、その後山麓に社殿を建てる要望が出て、藤尾社の境内地が強く求められるようになっていったと思われる。藤尾社の境内地が稲荷社に譲られたのか、期限付きで貸されたのか、奪われたのか、事情はよくわからないが、境内地を巡って両社の間に早くから紛争が存在したことについては間違いないだろう。
今では駈馬神事は藤森神社の参道で行われているのだが、藤森神社の神輿がわざわざ伏見稲荷大社の大鳥居から参道に入り、伏見稲荷大社の末社として残された藤尾社の小さな社に宮入して供物を捧げる行事が今も続けられている。伏見稲荷大社では五月五日には祭りや行事は無く、この日は藤森神社の祭りのために参道を全面的に開放しているようなものである。
東福寺の塔頭寺院である勝林寺住職のブログにこんな記述がある。
藤森神社の祭りの日、氏子と共に神輿は何故か稲荷神社の境内に入り込み、楼門にて大声で「土地返せ!・土地返せ!」と叫ぶ!
すると稲荷神社から神主さんの代理人らしき者が現れ「今神様は不在なので!」又は「あと3年まってくれ!」と神輿に向かって大声で読みあげる・・・・すると神輿は「また来年も来るぞ!」と言って引き返すと言います。
また、平安時代、稲荷と藤森の両社が土地返せ問題で鋭く対立したという・この時、両社を仲裁したのが東寺、と言われるが、実際は、仲裁というより稲荷を藤森から助けたと云われています。
稲荷神社と東寺は友好関係となり稲荷の祭りの日、稲荷の神輿は「その節はありがとうございました」と数キロ離れた東寺に御礼に出かけます。
稲荷神社周辺は全て藤森神社の氏子で、稲荷の氏子は東寺周辺に集中しているというのも事実です。
藤森神社の祭りで「土地返せ」と叫ぶ話は昭和の初期まで続けられていたという証言もある。「伏見経済新聞」のサイトに、藤森神社の深草郷神輿保存会の井上雅晶さんが次のような発言をされている。
1932年(昭和7)年までは担ぎ手が『土地返せ』と言いながら伏見稲荷の境内に入っていったという話を、地域の古老の方から伝え聞いている。
藤森神社と駈馬神事
上の画像は『都名所図会』に描かれた藤森神社であるが、主要な社殿の配置は今もあまり変わっていない。
上の画像は藤森神社の江戸時代後期に建築された拝殿(京都市指定登録文化財)である。
本殿(京都市指定登録文化財)は宝暦五年(1755年)に建築され、御祭神は本殿中央に素戔嗚尊(スサノオノミコト)、別雷命(ワケイカズチノカミ)、日本武命(ヤマトタケルノミコト)、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱、本殿東殿に舎人親王、天武天皇の二柱、本殿西殿に早良親王、伊予親王、井上内親王の三柱である。
社伝によると、今から千八百年ほど前に三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び、纛旗(とうき:軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのがこの神社の発祥である。
その後、前述したとおり、永享十年(1438年)に、現在の伏見稲荷大社の境内にあった藤尾社が遷座されて東殿に祀られるようになり、さらに文明二年(1470年)には、東福寺近辺の塚本という地に創建された早良天皇らを祭神とする神社を遷座して西殿に祀られるようになった。
本殿の左後方には永享十年(1438年)に建立された大将軍社、右後方には同じ年に建築された八幡宮の社殿があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
また拝殿の手前右側に宝物殿があるが、鎧や刀、鉄砲などの武具や藤森祭の絵巻物や文書などの社宝が無料で展示されている。
藤森神社の藤森祭の駈馬神事と伏見稲荷大社末社の藤尾社への宮入
毎年五月五日に藤森祭が行われ、この神社の馬場で、先ほど述べた駈馬神事(京都市登録無形文化財)が行われる。
昨年の駈馬神事のsiratosirouさんの動画を紹介しておくが、馬上で逆立ちをしながら駆け抜けたり、馬にまたがらず片方に乗って敵に姿を隠しながら走るなどの技を見ることが出来る。江戸時代の中期ごろから、このような曲芸的な馬術が取り入れられるようになったと言われている。
この神事について、神社のHPにはこう記されている。
駈馬神事は、古来、早良親王が、天応元年(781年)に陸奥の反乱に対し、征討将軍の勅を受けて、藤森神社に祈誓出陣された際の擬勢を象ったもので、室町時代には、衛門府出仕武官により、江戸時代には、伏見奉行所の、衛士警護の武士や、各藩の馬術指南役、町衆らが、寿及左馬の一字書き、藤下がり、手綱潜り、横乗り、逆立ち、(杉立ち)、矢払い、逆乗り(地藏)等の他、数種の技を、競いあったものであります。
早良(さわら)親王は光仁天皇の皇子で桓武天皇の異母弟だが、延暦四年(785年)に起きた藤原種継暗殺事件に連座し処刑されている。早良親王に関する事蹟はほとんど記録に残されておらず、征討将軍の勅を受けて五月五日に出陣したことについて続日本紀で確認することができないのだが、藤森祭が行われる日は、早良親王が出陣日した日に定められたと理解するしかない。
ところが、早良親王は藤森神社の西殿の御祭神であり、藤森神社が早良親王を祀る神社を合祀したのは文明二年(1470年)のことなのである。藤森神社のHPではこの行事の歴史が千二百年と書かれているのだが、この記述が正しいとすると、この行事はもともと①藤森神社で行われていた②永享十年に合祀した藤尾社で行われていた③文明二年に合祀した神社で行われていたのいずれかという事になる。
御祭神から「武」のイメージであるのは①か③で、②藤尾社の御祭神の舎人親王は『日本書紀』編集に携わった人物なので、「文」のイメージである。
先ほど紹介した『雍州府志』を思い出してほしいのだが、今の伏見稲荷大社の参道でかつて藤森神社の駈馬神事が行われていたという記述は、②のケースでは祭りの実行日に疑問は残るが、これまでこの場所で行って来た伝統行事であり、もともとは自分の土地だからと主張できると考えるが、①あるいは③の場合は、もともと別の場所で行われていた神事を、稲荷社の境内にわざわざ行って自社の祭りの会場にするということであり、稲荷社側に相当な負い目がない以上は受け入れがたい話なのである。
今では駈馬神事は藤森神社で行われているものの、藤森祭の御輿が伏見稲荷大社の大鳥居から楼門の中間地点にある小さな藤尾社に立ち寄り伏見稲荷大社の神官が迎え入れてお祓いのあと祝詞を上げるのだそうだ。この日の伏見稲荷大社の参道の半分以上は藤森祭の御輿の見物客で埋め尽くされることとなるのだが、こういうことが行われるのは、過去に両社間によほど大きなトラブルがない限り、ありえないことだと思う。
両社間の境内を巡る交渉についての記録がもし存在するのなら、面白そうなので読んでみたいところである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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