伊和都比売神社ときらきら坂
赤穂旅行の二日目の早朝に旅館のすぐ近くの伊和都比売神社(赤穂市御崎1)を訪ねる。
この神社は平安時代の延喜式神名帳で赤穂郡三座の筆頭に記されている古社で、御祭神は伊和都比売大神である。長らく海上の岩礁である畳岩の上にあったとされ、赤穂藩初代藩主・浅野長直が現境内地に社殿の建設に着手し、三代藩主浅野内匠頭長矩の治世である天和三年(1683年)に完成し、御遷座されたという。
拝殿の彫刻はかなり美術的に価値のあるものだと思うのだが、製作者の名前などはネットではわからなかった。赤穂の神社の柱には格調高い装飾彫刻が施されていることが多く、このことは赤穂が塩の製造で栄えたことと無関係ではないのだろう。
明治になって日露戦争開戦前に東郷平八郎元帥がこの神社に勝利祈願したことから、この神社は帝国海軍関係者の信仰を集めるようになったという。戦前までは歴代の連合艦隊司令長官が艦隊を率いてこの神社を参拝し、現在でも航海安全と大量祈願で多くの参拝者が訪れている。
また、上の画像の左を進むと「きらきら坂」と名付けられている有名な坂道がある。
「きらきら坂」はそれほど長い坂ではないのだが、石畳が敷かれていて独特な雰囲気がある。伊和都比売神社は航海安全と大量祈願だけでなく縁結びの神様でもあり、この坂にはおしゃれな店がいくつかあって、動画やブログなどでよくこの坂が紹介されているのだが、朝早かったのでまだ店舗は開いていない。
キラキラ坂を降りると畳岩が見えて来る。訪れた時は干潮時で陸続きであったが、満潮時には岩には渡れなくなるのだそうだ。かつてはこの岩に社殿があったと伝えられているのだがどこに柱を立てたのであろうか。
花岳寺
次の目的地は花岳寺(赤穂市加里屋1992)。正保二年(1645年)に赤穂初代藩主・浅野長直公が建立し、その後歴代赤穂藩主の菩提寺となった曹洞宗の寺である
上の画像は花岳寺の山門だが、赤穂城の西惣門を明治六年に購入し移築したものだという。
境内には浅野家、森家の墓碑、赤穂四十七義士の墓碑、義士宝物館、義士木造堂などがある。義士宝物館には赤穂藩や義士関連資料が展示されている。
上の画像の建物は浅野家霊廟で、画像左の句碑には大高源吾が大津市の義仲寺にある松尾芭蕉の墓前で詠んだ句が刻まれている。「こぼるるを許させ給へ萩の露」と読む。
本堂の内部は非公開だが、法橋義信が描いた天井絵『竹に虎』は鑑賞することが出来る。この絵は、もともとは五月節句の幟として描かれたものだそうだ。
赤穂八幡宮
次の目的地は赤穂八幡宮(赤穂市尾崎2163-1)。室町時代に鳥撫村銭戸島(現在の赤穂市鷏和地区)に祀られていた応神天皇(八幡大神)がこの地に遷座されたという。
江戸時代以降歴代赤穂藩主の信仰も篤く、尾崎地区の塩田開発が進む中で現在のような社殿が整えられた。
浅野内匠頭の刃傷事件によって赤穂城が明け渡された後で、大石内蔵助がこの神社で残務処理にあたったという。
明治の神仏分離により赤穂八幡神社と改称されたのだが、昭和二十七年に赤穂八幡宮という昔の名前に戻されている。
この神社の社殿の柱にも立派な彫刻が施されており、古い絵馬が多数掛けられている。
毎年十月十五日の秋祭りで行われる頭人行列・獅子舞は江戸時代の寛文元年(1661年)に赤穂城築造を祝って始まったと伝えられており、頭人行列は赤穂市無形文化財、獅子舞は兵庫県無形文化財に指定されている。
『播磨国風土記』には多くの渡来人の記述があり、赤穂にも多くの渡来人が住み着いたことが推定されているのだが、この神社の秋祭りの動画を見ていると神功皇后の三韓征伐の伝承が出て来るのに驚いた。わが国の歴史書には渡来人の事はわずかしか書かれていないのだが、渡来人はわが国に外国の文化を伝えただけでなく、古代の政治や経済に大きく関わっていたはずである。
普門寺の十一面観世音菩薩像
赤穂八幡宮の駐車場に車を駐めたまま、神社境内の右奥から始まる道路を進み、途中で右折してしばらく歩くと普門寺(赤穂市尾崎203)がある。
この寺は聖徳太子によって開かれた寺と伝わっているのだが、なぜこんなところに聖徳太子の名前が出て来るのかと思う人は少なくないと思う。しかしながら、近いところでは揖保郡太子町の斑鳩寺、加古川市の鶴林寺も聖徳太子開創の寺と言われている。また聖徳太子を補佐し国造りに貢献したと言われている帰化人の秦河勝を祀る神社や墓が赤穂市坂越に存在しているのだ。この点については後述する。
普門寺本堂に安置されている木造千手観音坐像は平安時代初期の作とされ、欅の一木造で国の重要文化財に指定されている。十一面の千手観音は兵庫県内ではこの仏像だけなのだそうだ。許可を頂いたので貴重な仏像をカメラに収めることが出来た。
坂越の町並み
前回は赤穂の製塩のことを書いたが、塩田の多い地域は遠浅のために船を近づけることが出来なかった。そこで赤穂の塩を坂越まで運び、坂越港から塩廻船に積まれて全国各地に運ばれて行った。坂越は塩の取引で栄えた港町である。
坂越の古い町並みを残すために駐車場のある施設は少なく、車は第一観光駐車場(赤穂市坂越1324-7)を利用して徒歩で観光するのが良い。
上の画像は旧坂越浦会所(赤穂市坂越1334)。赤穂藩の支所であった建物だという。二階に藩主専用の部屋である観海楼があり、坂越の海を眺めることが出来る。
上の画像は坂越の大道で、奥藤酒造など古い白壁の建物が続いていてなかなかいい雰囲気である。この景観を維持することで地元の人々は随分苦労してこられたのだと思う。
かつてはこの大道に酒や塩を港に運ぶ大八車が忙しく行き来していたと思うのだが、今は人通りも少なくなってしまっている。
坂越まち並み館(赤穂市坂越1446-2)は大正末期に奥藤銀行坂越支店として開設され、その後もいろいろな銀行として使用されてきたが、今では坂越の観光案内所となっている。坂越の観光マップが入手できるだけでなく、館の方から坂越の歴史やビューポイントを教えていただける。
渡来人・秦河勝を祀る大避神社
次の訪問地は大避神社(赤穂市坂越1299)。今回の旅行で最も訪ねたかった神社である。祭神は大避大神で秦河勝なのだが、聖徳太子を補佐した渡来人が祀られている神社が赤穂にあることに興味があった。
上の画像は大避神社の随神門だが、門の正面の左右の守護神像だけでなく、背面の左右に仁王像が安置されているのには驚いた。
神仏習合の時代にはこのような神社は珍しくなかったのかもしれないが、私が神社で仁王像を見たのはここが初めてである。
『日本書紀』には、応神天皇十四年に弓月君が百済を経由して百二十県の民を率いて日本に渡来させようとしたが新羅が妨害していることを奏上したことが記されている。応神天皇はそれに応え、軍を派遣して新羅を牽制し、数年がかりで弓月の民の渡来が完了した。ちなみに、応神天皇は身重の神功皇后が三韓征伐に向かう際に筑紫で生まれたことで有名だが、このことは応神天皇が多くの渡来人を受け入れたことと関係があるのではないだろうか。
その後わが国に渡来した弓月の民が養蚕や機織りの技術を伝えたことから、後に弓月君は波多(秦)姓を賜ったことが記録に残っている。
平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』には、弓月君は「融通王」の名で記録され、さらに「秦の帝室の後裔」だと記されている。この文章が真実であれば、秦河勝は秦の始皇帝の後裔だということになるのだが、そのあたりの判断は読者の皆様に委ねることとしたい。
では、弓月君と弓月の民は何人であったのか。朝鮮半島の百済を経由して日本に渡来したので、漢人や朝鮮人であった可能性はゼロではないのだが、当時はローマ帝国から追放されたユダヤ人が安住の地を求めて十二支族に分かれて世界各地を彷徨っていた。そして現在のウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国という国が実際に存在していて、当時は多くのユダヤ人がそこに居住していたことが分かっている。そのことから、弓月君も弓月民もユダヤ人であったことは十分あり得る話なのである。
弓月王は他民族と戦って新しい領土を得る考えではなく、彼等の独自の技術や文化を伝えて彼らが受け入れてもらえる国を探していた。応神天皇の頃にわが国に渡来した「百二十県の民」の人数は、万を超えていたとしてもおかしくないだろう。そんなに大規模な渡来人全員が同じ地域に住むことは不可能だろう。
彼らは大和国(現在の奈良県)だけでなく山背国(現在の京都府)、河内国(現在の大阪府寝屋川市)、針間国(現在の兵庫県)、阿波国(現在の徳島県)、伊予国(現在の愛媛県)などに分かれて土着し、各地で養蚕や機織りだけでなく、土木技術や、砂鉄や銅などの精錬技術を伝え、わが国の経済や文化に多大な影響を与えた可能性はかなり高いと思う。
秦河勝は飛鳥時代の前半に聖徳太子に仕え国造りに大きく貢献したとされており、当時の秦氏の族長的な人物であった。彼は豊かな商人でもあり、朝廷の財政にも関わっていたとされ、聖徳太子が622年に没すると太子の供養の為に山背国の太秦に広隆寺を建設したと言われている。
628年に推古天皇が崩御されて以降、蘇我蝦夷・入鹿父子の専横が強まっていき、643年には聖徳太子の子である山背大兄王が襲撃され自害する事件が起きている。秦河勝が蘇我入鹿とどのような関係にあったかは詳しくはわからないが、赤穂の伝承では644年9月12日に入鹿の乱を避けて秦河勝が坂越に漂着したとされている。十五世紀初めに世阿弥が著した『風姿花伝』には秦河勝は、摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着した後、大避大明神(大荒大明神)となったと記されており、この出来事はかなり古くから人々に知られていたことが窺える。
秦河勝はこの地で千種川の開拓を進めたのち大化三年(647年)に坂越の地で没したと言われており、坂越港から二百メートル程離れている生島には、秦河勝の墳墓と伝えられる古墳が残されているそうだ。
現地の案内板によると、「旧赤穂郡(現赤穂市、相生市、上郡町)には大避神を祀る神社がかつて28以上あり、古代から中世にかけて旧赤穂郡と秦氏との密接な関係が古文献等からも判明しています」とあり、この神社の祭礼である坂越の船祭は、大阪天満宮の天神祭、安芸厳島神社の管絃祭とともに瀬戸内海三大船祭の一つであり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
毎年十月の第二日曜日に坂越の船祭が行われるのだが、この伝統の祭りが、今では坂越に住んでいる人だけでは続けることは不可能になっているという。坂越に育った人達がこの祭りのために戻って来て続けられているのだそうだが、もっと坂越に若い人が住んで、地域経済ならびに地域共同体を活性化させる取り組みを期待したい。
境内には坂越の船祭で用いられた屋形船が展示されている。祭礼では船が十二隻出されるのだが、屋形船は一隻だけだという。境内には船倉があり、その中に船祭で用いられる漕船二隻、楽船、御座船、警護船、歌船各一隻が保管されているのだが、船倉や船は兵庫県の重要有形民俗文化財に指定されているそうだ。
文化元年(1804年)に刊行された『播州名所巡覧図絵』にこの神社が紹介されている。この本にはこの神社の名前や坂越の地名について、「思うに、大避は、入鹿の難を御避の義なるか、坂越も避来の義なるか」と書いているが、なるほどと思わせる一文である。
妙見寺観音堂
大避神社から宝珠山の山道を登っていくと妙見寺(赤穂市坂越1307)という真言宗の寺がある。この寺の観音堂はかつては奥の院として宝珠山の山頂近くにあったのだそうだが、台風で大破したために享保七年(1722年)にこの地に再建されたものである。現在この建物は赤穂市有形文化財に指定されている。
観音堂の参拝をすませてから、瀬戸内海方向を見る。心地よい海風を受けながらここからの坂越湾や生島の景色は素晴らしい。
上の画像は観音堂からの眺めだが、島の東側の海岸近くに大避神社の御旅所が建てられていて、坂越の船祭には坂越港から御旅所まで十二隻の船の渡御が行われる。生島は禁足の地で島の樹木を斬ることを許されていないため、国の天然記念物でもある原始林がうっそうと茂っている。
また生島のおかげで風を除けることが出来、坂越港は瀬戸内海航路の中継地としてだけでなく、風避け港としても栄えてきた歴史がある。
夏の暑い季節は観光客が少ないのかもしれないが、坂越湾はおいしい牡蠣が取れることで有名であり、牡蠣シーズンになると多くの観光客が訪れるという。牡蠣は大好物なので、赤穂御崎の温泉と牡蠣を求めてまた予定を立てて訪れたいものである。
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コメント
赤穂旅行の記事、大変懐かしく読ませていただいています。
播州赤穂は母親の実家があった(今でもいとこが居ます)ので、母が里帰りするので小学校低学年の頃は夏休みはずっと赤穂にいました。
小学生ですから赤穂城跡や大石神社などにはまったく興味がなく、御崎の海水浴場と広大な塩田ぐらいしかその頃の記憶にありません。いまの私が赤穂に行ったら全然違う町に見えると思います。
最近は色々と楽しそうは施設ができているようですが、いとこ曰く赤穂は大阪・神戸からアウトドア・レジャーに来る所になっているそうです。
赤穂から快速電車に乗って大阪に帰るとき最初の駅が坂越でした。当時からほぼ無人駅に近い駅で何もなく、小学生からすれば坂越って何があるの?とずっと思っていましたが、今回、坂越の歴史を知ってすごく面白かったです。
ちびたさん、コメントいただきありがとうございます。とても励みになります。
かつての忠臣蔵のブームも今は衰え、赤穂御崎の灯台に向かうと、かつて営業していた旅館のいくつかが廃墟になっていました。
坂越はもっと歴史好きの観光客が来てもよさそうな場所なのですが、渡来人の話はなぜか大手マスコミでは伝えてくれませんね。
秦河勝は何人なのかについて坂越まち並み館と話していましたが、その方もユダヤ人ではないかと言っていました。古代史が大幅に書き換えられる日が来るかもしれませんね。
坂越には土産物屋などは見当たらず、食事のできる場所が数か所あるだけですが、のんびりとマイペースな旅行好きの私には存分に楽しむことが出来て良い旅行になりました。
いつも勉強させていただいております。
梅原猛著「翁と河勝」では、梅原猛氏が実際に訪問しています。翁や能楽と渡来人との関係についても考察しており興味深い書です。
弓月国からの移民を受け入れて以後、日本の技術、文化が大幅な進歩を遂げたのは間違いないようですね。
ネコ太郎さん、コメントありがとうございます。
梅原猛さんが秦河勝の事を書いているのは知りませんでした。情報に感謝します。
ブログには書きませんでしたが、秦河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされているようです。世阿弥が著した『風姿花伝』第四には、聖徳太子が河勝に紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりと書かれているとのことですが、技術だけでなく芸能も伝えたことは興味深いです。
普通に考えて、大量の渡来民が到来して、何のメリットもなければ移民を受け入れることはあり得ないでしょう。余程のメリットを感じたからこそ、受け容れたのだと思います。ただ食糧には限界がありますから、各地に分散して住まわせたのでしょう。
奈良に行かれたのですね。数年前のことですが、新宿から夜行バスで奈良まで。今も活動されているようですが、ボランティアの奈良案内の方に法隆寺の案内をしていただきました。 五重塔の中の阿修羅像(塑像)が見たく、大満足でした。
やなちゃんさん、コメントありがとうございます。
東京から法隆寺に行くのは大変ですね。移動時間が長いと、いくつもの寺を巡ることは難しいですね。
法隆寺五重塔の塑像はあまりじっくりとは観なかったのですが、釈迦涅槃の様子を刻んだ北面だけ妙に印象が残りました。その中に阿修羅像があったのですね。
斑鳩の寺は今まで法隆寺しか行ったことがなかったので、今回いろんな寺や神社を巡ってきました。今続編を書いています。