安乗岬と安乗人形芝居

関宿から伊勢志摩の安乗岬(三重県志摩市阿児町安乗)に向かう。安乗岬は的矢湾入口にある岬で、高さ20mの断崖か波に削られた結果出来た岬の先に安乗埼灯台が建っている。周囲は暗礁が多く、安乗崎、大王崎、鎧崎をもって志摩三崎と称し、海の難所として知られている。

安乗岬灯台はイギリス人R.H.ブラントンの指導により明治六年(1873年)に設置されたのだが、その後、海食により地盤が崩れてきたため、岬の突端から後退させたものの、更に地盤が崩れてきたので再度後退させて昭和二十三年(1948年)に現在の四角形型鉄筋コンクリート造に建替えられたようだ。当時において安乗岬の灯台は木造で現存する最古の灯台であったことから、古い灯台は東京都港区の浜離宮に移築され、その後横浜の第三管区海上保安本部に移され、昭和四十八年(1973年)に品川区の「船の科学館」の構内に移築されている。Wikipediaには「船の科学館」にある初代の安乗埼灯台の写真が紹介されている。
安乗崎灯台の内部は見学ができるのだが、受付は午後四時(土日は四時半)までとなっており、残念ながら中に入ることは出来なかった。全国で登れる灯台は十六あり、その内の二つが三重県に存在しており、安乗崎灯台のほかに大王崎灯台が登れる灯台なのだそうだ。岬には安乗岬灯台資料館もあったのだが、ここの受付時間も午後四時(土日も同じ)なので注意が必要だ。
安乗には四百年の歴史のある「安乗の人形芝居」が重要無形民俗文化財に指定されている。Wikipediaによると、「朝鮮出兵の折に八幡神社(現・安乗神社)を参拝した九鬼嘉隆を村人がもてなすために披露した手踊りに起源が求められるという。その後、風待ちに安乗村に来港した大坂・阿波国・淡路国の人々の影響を受けて芝居の技術が向上した」という。淡路島や徳島の人形劇は観劇したことがあるのだが、安乗の人形芝居もなかなかレベルが高そうだ。毎年九月の安乗神社の祭礼の際に境内の舞台で上演されることになっており、地元の志摩市立安乗中学校には「安乗文楽人形クラブ」があって、この祭礼で日ごろの練習の成果を披露し、中学生のみで1つの演目を演じるのだそうだが、地域や家族のつながりで地方の伝統文化が守られていることを知ると目頭が熱くなってしまった。
地震津波遺戒の碑
安乗岬に近い志摩市阿児町甲賀の旅館で宿泊したのだが、Googlemapで「地震津波遺戒の碑」という碑が旅館の近くにあることが分かっていたので早朝に探しにでかけた。

地震津波遺戒の碑の住所はGooglemapに「志摩市阿児町甲賀二二六六」と出ていたのだが、この住所は妙音寺という寺の住所と同じなので先に寺を訪れたのだが境内には碑はなく、寺の裏側の周囲の道を歩いてすぐに見つけることが出来た。思っていたよりも小さい石碑で、上の方には「地震津波遺戒」と彫られていた。碑の左側に碑の内容について解説する看板があり、次のように記されていた。
安政元年十一月四日(現暦一八五四年十二月二十三日)朝大地震が発生し大津波により当時の甲賀村が壊滅状態となりました。
この大地震、津波の惨状を後世に伝えるために先人が地震、津波の遺戒としてこの石碑を明治二十四年(一八九一年)十一月に建立されました。
大地震で当時の人々は、逃げまどい井戸水も枯れて海潮は、はるか沖まで退き十数メートルの高波が計四回も押し寄せて家屋、田畑は、一瞬の間に流失しました。流失した家屋は、実に百四十一戸、建物四百十一、船舶五十一、堤防の決壊四ヶ所、溺死十一人の大被害でした。その他、貨財、食料など一つも残ることなく、当時の甲賀村の人々の生活は、山野に寝起きし、飢えと寒さに苦しみ言葉に言い現せないような状態でした。
「地震が発生したら、必ず火を消して速やかに老人、子供を携え高い所に避難するように」とこの石碑に教訓として書いてあります。
この石碑をさらに後世に伝え、地区の人々に理解していただくためにもここに石碑の説明看板を設置します。
平成二十四年十二月 甲賀自治会
地震津波遺戒の碑の全文は、『安政東海地震と津波の遺訓』という本にでているが、この看板に書かれていない重要なことを伝えている。この地域はそれまでも何度か津波の被害に遭っており、安全な丘の上に居を移せとの言い伝えがあったのだが、いつしかそのことを忘れてしまっていた。そして安政元年を迎え、六月十四日に大きな地震が起きたのだが、その時は幸いに大きな被害はなかった。しかし十一月四日の朝に起きた激震は四回の津波ですべての物を失ってしまったという。いつの時代も「震災は忘れた頃にやってくる」のである。

参考までに、同書に出ている碑文の全文のページ画像を貼付させていただく。調べるとこの地方で津波を伴った大地震は、慶長九年(1605年)、宝永四年(1707年)にあったようだが、安政元年(1854年)の後も昭和十九年(1944年)、昭和二十一年(1946年)に発生している。この地域は九十年から百五十年に一度は大きな津波災害を受けていることがわかる。但し太平洋戦争終戦の前年と翌年の地震被害については戦中およびGHQ管理下で情報が規制されて被害状況の詳細も公表されなかったようで、詳しい情報は見つからなかった。
横山展望台
次ぎ英虞湾の絶景を求めて横山展望台(志摩市阿児町産形875-20)に向かう。

横山展望台は標高百四十メートルの高さがあり、英虞湾に浮かぶ六十小島やいくつもの半島を一望する景観は素晴らしく、伊勢志摩に来られた方は必見である。二十年ほど前に初めてここを訪れた頃はそれほど有名ではなく、駐車場も狭くて観光客はわずかだったと記憶しているのだが、今では駐車場も広くなり、複数の展望デッキが設置され、それらを繋ぐ遊歩道が整備されており、八年前にオープンしたカフェテラスも賑わっていた。
松阪公園と周辺散策
横山展望台から松坂城跡のある松阪公園(松阪市殿町)に向かう。松坂城は蒲生氏郷が天正十六年(1588年)に築城したが、氏郷は二年後に陸奥黒川(現在の会津若松市)に移封となり、その後は短期間に城主が相次いで交代している。元和五年(1619年)には南伊勢が紀州藩領となり当地を統括する城として城代が置かれたのだが、慶長二十年(1615年)に出された一国一城令により、正保元年(1644年)の台風で天守が倒壊した際の改築は認められず、以後は天守台のみが残された。寛政六年に二の丸に紀州藩陣屋(徳川陣屋)が建てられ、紀州藩領として明治維新を迎え、明治四年の廃藩置県で廃城となった。明治十年には二の丸御殿を焼失し、その後、城の施設の大半が取り壊されたようだ。

現存する建物は残されていないが、豪壮な石垣が残されている。また松坂城跡は平成十八年に日本百名城に選定され、平成二十三年には国史跡に指定されている。

二の丸跡の南に『古事記伝』四十四巻等を著わした本居宣長の旧宅(国特別史跡)がある。もとは市内魚町にあったのだが明治四十二年(1909年)に此処に移築されたという。本居宣長記念館とセットで見学できる。

本居宣長は十二歳の時から七十二歳で亡くなるまでこの家に住んでいて、本業は医者で、日中は薬箱を持って患者宅をまわり、夕方は日本や中国の古典を門人に講釈し、門人が帰った後は研究や執筆に没頭するという日々を送っていたという。
宣長が五十三歳の時に屋根裏を改築し二階に四畳半の狭い書斎を設け、その部屋で『古事記伝』等を完成させたのだそうだ。二階の柱に鈴を掛けて、疲れたら鈴を鳴らしてリフレッシュしたといわれている。この二階の書斎を「鈴屋」と呼ぶのだそうだが、残念ながら二階の書斎は公開されていない。

本居宣長記念館には宣長の実子春庭の子孫の家に伝わった資料が全部と、養子大平の子孫の家に伝わった一部資料ほか一万六千点が収蔵されており、その内『古事記伝』自筆稿本や、『日記』、『遺言書』、自画像など四百六十七種千九百四十九点が国重要文化財に、また二十種三十一点が県の有形文化財に指定されている。
展示内容は年に数回入れ替えられ、令和八年の六月七日までは春の企画展「宣長の視線」、六月九日からは夏の企画展「和歌に学ぶ」で展示内容が大幅に変わるものと思われる。また「宣長十講」という講演会が年十回行われているほか、短歌大会などのイベント等が行われておれ、年間の展示スケジュールや行事予定については、本居宣長記念館のHPで確認されたい。

松坂城跡の南に旧松坂御城番長屋(松阪市殿町1387)がある。この東西二棟の長屋は、松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士二十人とその家族が住む組屋敷として文久三年(1863年)に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。

この長屋は、かつて「松坂御城番」であった人々によって明治期に設立された合資会社苗秀社によって維持管理されており、今なお子孫を含む人々が居住しておられる。ただ西棟の一戸分だけ松阪市が苗秀社から借用し、復元整備されて観光施設として一般公開されている。

蒲生氏郷は松坂城の周囲に武士が住む「殿町」を置き、その東側に伊勢街道を引き入れて商人や職人を住まわせた。「殿町」の住所には多くの武家屋敷がいくつか残されている。
御城番屋敷の近くに原田二郎旧宅(松坂市殿町1290)がある。原田は松坂町奉行所に勤める同心(下級役人)の家に生まれ、京都や東京で遊学の後二十七歳で大蔵省に就職し、三十一歳の若さで第七十四国立銀行(横浜銀行の前身)の頭取に就任し、その後総武鉄道株式会社の設立に関与したのち大阪の鴻池銀行の再建に尽力し、鴻池財閥の発展に貢献したという。

財界で活躍してきた原田二郎は「天下の富は一家の私すべきものではない」との信念から、社会福祉に貢献すべく自己の全財産を投入して大正九年(1920年)に財団法人原田積善会を設立。この法人は直接、自身が事業を
行うのではなく事業を行う団体に資金的な援助を行う組織で、全国の社会公益事業に対し様々な助成活動が今も続けられている。
原田二郎の旧宅は平成二十一年(2001年)に原田積善会から松阪市に寄付され、松阪市はその後有形文化財に指定して復元整備を行い、平成二十四年(2012年)から一般公開されている。
松坂商人の旧宅など
先ほど蒲生氏郷が旧松坂城跡の東側の旧伊勢街道の近辺に商人や職人を住まわせたことを書いたが、伊勢の国を発祥とする伊勢商人は数多く、大坂商人、近江商人と並んで、三大商人と呼ばれていて、その多くが松坂出身で、三井家・長谷川家・小津家など多くの豪商を輩出している。

上の画像は歌川広重作『東都大伝馬町繁栄之図』だが、両側に「はせ川」と描かれた店は木綿問屋として栄えた松坂商人の長谷川治郎兵衛商店である。東京都中央区日本橋大伝馬町は、江戸時代に木綿問屋街として発展した町で、長谷川家はこの木綿問屋街に本店をはじめとした複数の店舗をかまえていた。この広重の絵には、長谷川の四店舗のほか、長井、小津など松坂出身の伊勢商人の江戸店が描かれている。旧長谷川治郎兵衛家のパネルによると、宝永二年(1705年)の資料に、町内七十余りの木綿問屋の内伊勢国出身者がおよそ六割を占め、その中でも松坂出身の商人が圧倒的に多いのだそうだ。
なぜ松坂の木綿問屋が強かったのかと誰でも疑問に思うところだが、「松坂木綿」は原料である綿の質が良く紡織技術にも優れていただけでなく、天然藍の先染め糸を使って織りなす縞柄に特徴があり、「松坂嶋」と呼んで江戸で大流行したそうだ。「松阪市観光プロモーションサイト」によると、「江戸の人口が100万人といわれた当時、年間50数万反を出荷したという」とあり、江戸のおおよそ二人に一人が松坂木綿を求めていた計算になる。

上の画像は旧長谷川治郎兵衛家(松阪市魚町1653)である。長谷川家の主人は出店の経営は現地の従業員に任せて家族と共に松坂に住み、重要なことは手紙で出店に経営方針を指示していたという。また人事権を持ち、松坂周辺で優れた従業員を雇い入れて、江戸店に送り込んでいたそうだ。主人は紀州藩役所の仕事をしながら、茶道や和歌・俳句を嗜み、茶道の千宗室や国学者の本居宣長を支援したという。

長谷川家は江戸で稼いだ金で松坂の本宅の敷地を拡げ、増築・新築を繰り返しながら大きな屋敷となり、主屋と五棟の蔵は国の重要文化財に指定されている。

蔵の裏手には十九世紀末期に築造された池を中心とする日本庭園があり、四季折々の風情を楽しむことが出来る。

旧長谷川治郎兵衛家のすぐ近くに本居宣長宅跡(松阪市魚町1645)がある。先ほど本居宣長の旧宅をレポートしたが、明治四十二年に松坂城跡に移転される前はここに建てられていた。この場所も国指定特別史跡で、石碑がある。

上の画像は旧小津清左衛門家(松阪市本町2195)で、小津家は江戸の大伝馬町で小津屋紙店を創業し、その後、その隣に伊勢屋木綿店、向かい側に大橋屋紙店を開業した。紙店では地元産の深野紙をはじめ全国各地の紙名産地から仕入れることにより、小津屋と大橋屋は江戸で一番と言われる紙問屋になったという。現在東証スタンダード市場に上場している小津産業株式会社のルーツである。

現在の敷地は全盛期の約五分の三でなのだそうだが、それでもかなりの広さがある。中庭にある二つの石灯籠のうち奥にあるものは南北朝時代の観応二年(1351年)の日付が刻まれており、四角型の石灯籠としては春日大社に現存するものについで二番目に古いものだという。

松阪市は六億五千万円を投じて土地を購入して復元整備を行い、松阪市ゆかりの文化財として公開している。現在建物は三重県有形文化財、敷地は松阪市史跡に指定されている。暖簾印の「三角形に久」は現在の小津産業株式会社の社章に引き継がれている。

旧小津清左衛門家から伊勢街道沿いを南に歩いて百メートルほどのところに、三井家発祥の地がある。この地は、のちに豪商から三井財閥、そして現代の三井グループへと発展を遂げた三井創業の祖・三井高利が生まれた場所で、敷地内には高利の産湯に使ったという伝承のある井戸や記念碑があるという。残念ながら内部は公開されていない。
延宝元年(1673年)、三井高利が五十二歳の時本町一丁目(現・東京都中央区日本橋本石町)に「三井越後屋呉服店」(越後屋、のちの三越) を開業し、同時に京都にも仕入れ店を置き、高利は松坂から長男・高平たちに指示を出して店を切り盛りさせたという。当時の呉服店は得意先に見本を持って行き注文を取る「見世物商い」か、商品を得意先で見てもらう「屋敷売り」が一般的で、得意先は、大名・武家・大きな商家などで、支払いは六月、十二月の二節季払い、または十二月のみの極月払いという掛け売りだったのだが、高利はそうした商法をとらず、町人・大衆向けに呉服を売り出し、店の前にずらりと反物を並べて広告を出し、現金掛値なしの販売方法を考案し、やがて高利は江戸で一、二を争う大商人となっていった。しかしながら、呉服店を開業しても高利は松坂で金融業を営んでおり、呉服店のことは長男・高平たちに指示を出して店を運営させていたという。
貞享三年(1686年)、高利は六十五歳になって居所を京都に移し、元禄七年(1694年)に七十三歳で死去し、遺言により京都の真如堂に葬られている。

三井家発祥の地から伊勢街道を三十メートルほど南に行くと、ライオン像がある。どこかで見たような像である気がしたので、像の由来が書かれた案内板を読むと、三井家の始祖・三井高利が松坂で生まれ、全国に名を知られる大商人になった縁で、三井家と松阪市の歴史と未来を繋ぐ象徴として、三越のシンボルであるライオン像を株式会社三越伊勢丹ホールディングスより譲り受け、「来遠像」と名づけて「豪商のまち松阪」の玄関口にあたるこの場所に置かれることになったという。ライオン像には、「誰にも見られずに背にまたがると願いがかなう」という必勝祈願の言い伝えがあるのだそうだ。
私自身大阪の北浜や東京の日本橋で勤務した経験があり、三越のライオン像はこれまで何度見てきたかわからない。ライオン像は全国の三越の店舗の玄関に置かれており、閉店した店舗に設置されていた像は日本橋本店の地下に保管され、一部の像は依頼のあった場所に移されることがあるようだ。
三越が最初にライオン像を設置したのは、大正三年(1914年)の日本橋三越本店開業の時で、ロンドンのトラファルガー広場のネルソン記念塔の下にある四頭の獅子像をモデルとしてイギリスで製作されたのだそうだが、三越全店に設置されたのは三越の前身である越後屋の創業三百年となった昭和四十七年(1972年)のことだという。
三井高利とライオンは直接にはつながらないのだが、豪商の町松阪を象徴する人物が三井高利であり、高利が創業した越後屋はのちに三越となり、そのシンボルがライオン像なのである。このライオン像が松阪を訪れる多くの人々によって知られるようになり、人々の願い事を叶える像として広められ、豪商の町松阪のシンボル的存在となることを祈ってやまない。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓


【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。
前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。
全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。


コメント