前回の歴史ノートで、「リットン報告書」はその調査姿勢にそもそも問題があり、予想されていた通り報告書は支那に有利な内容となったのだが、世界の論調はこの報告書に批判的なものが少なくなかったことを紹介させていただいた。今回は、わが国と国連との間でそれまでどのようなやりとりがあり、わが国でどのような議論がなされ、いかに対応したかを中心に書くこととしたい。
国際連盟脱退はいつから検討されたのか
わが国で国際連盟脱退の検討が始まったのは意外と早く、満州事変が始まって日も浅い時点で議論がなされていた。
上の画像は、昭和六年九月二十九日の神戸新聞の記事だか、わが国は日支間で話し合うことを求めていたのだが、当時満州の最高責任者である張学良が北平(現在の北京)にいたため、否が応でもわが国は南京の国民政府との交渉をせざるを得なかった。しかし支那は国際連盟を巻き込もうとすでに連盟提訴の手続きを取るべく動いていたのである。文中の施肇基は国際連盟の支那全権代表で連盟の理事会理事であった人物である。
…我政府は刻々正確なる情報を芳沢大使に送附し、施肇基氏による提訴に対し同大使をして南京政府の声明と同様の声明をなさしめ、もって支那側の提訴を一蹴すべきが、日本としては同事件をあくまで日支両国間の係争事件たる地位におき連盟脱退を賭しても第三国の容喙を拒否する決心であると…
「神戸大学新聞記事文庫」外交-98-46
わが国は自衛のためであったとして国際連盟の介入を批判し、日支両国の直接交渉で解決すべきと主張し、国際連盟理事会も当初は日支両国で直接交渉を行うべきとのスタンスであったのだが、十月になって関東軍が、張学良の拠点である錦州を偵察中に張学良軍の対空砲火を受け空爆で反撃(錦州爆撃)したのち、十一月に関東軍は天津、チチハルを占領し、十二月末には錦州から張学良軍を撤退させ、翌年一月に錦州入城を果たしたことが問題となった。わか国は錦州攻撃についても自衛行為であり国際法上も適法だと主張したが、支那は満州事変はわが国の侵略行為であると世界に宣伝し、次第に対日国際世論が悪化していく。
支那の要請により十月十三日に連盟理事会が開催され、日本軍の鉄道付属地への撤兵に期限をつけた決議が提出されたが、日本の反対で否決されている。当時の国際連盟の議事は明文の規定がない限り、決議には全会一致が必要であり、わが国が反対することが分かっていて可決される見込みがないにもかかわらず決議がなされたのは、わが国にプレッシャーを与えること以外にはないだろう。
関東軍が撤退すれば満州の治安は保てない
以前このブログ記事で書いた通り、当時の満州は反日運動の嵐が吹き荒れ、満鉄の施設略奪や運行中の強盗事件などが毎週何度も起きていたのだが、支那官憲は取り締まろうともしなかった。関東軍が満州に派兵されていたのは一万五千程度で満鉄の守備と在留邦人を守ることが主たる目的であった。一方の張学良軍は三十万とも四十五万とも言われていて、そもそもこのような兵力差で侵略行為など不可能であり、この人数では広大な満州の治安を維持するのにも十分ではなかった。
昭和六年(1931年)二月の萬寳山事件では支那農民と入植した朝鮮人とトラブルで多くの死傷者が出て、六月には支那官憲の旅行許可を得て入満していた陸軍の中村大尉が支那兵に殺害され、その後も日本人が襲われる事件が続いていた。たまたま張学良が十一万の兵を引き連れて北平(現在の北京)にいた昭和六年九月十八日に柳条湖近辺で満鉄が爆破され、それに関東軍が逆襲した。張学良軍はさしたる抵抗もなく逃亡し、関東軍はわずか一日で南満州の主要都市を占領してしまった。
ところが張学良軍の敗残兵たちは、その後満州各地で掠奪行為を繰り返し、多くの日本人や朝鮮人が虐殺されるにいたる。十月に入り関東軍が敗残兵らの拠点であった錦州を偵察飛行中に対空砲火を受けたために爆撃し、それ以降両軍の戦闘が開始された。翌年の一月三日に関東軍が錦州の入城を果たし、二月にハルビンを平定してようやく満州の治安が安定するようになった。
戦前の日本人は満州事変については概ね上記のように理解していたと思われるのだが、それは決して偏った観方ではなく、当時満州で布教に従事していたカトリック教会は関東軍が匪賊を討伐してくれることに深く感謝していたことを知るべきである。以前このブログで紹介したGHQ焚書の『満州帝国とカトリック教』に出ているが、奉天にあるフランスのカトリック教満州伝道本部は、一九三一年(昭和六年)十月二十三日付で世界各地のカトリック教会に対して日本軍の駐在を要望する電信を発信している。
…馬賊に化しさった支那官兵は、支那良民に対して掠奪暴行をなし、これに応ぜざる者に対しては殺害または放火する等暴虐の限りを尽くし、自分等は目のあたり生き地獄を見せつけられている。これら良民にとってただ一つの頼みは、日本軍が馬賊討伐に来てくれることであって、人類愛に富む日本兵は支那良民の感謝の的となっている。もし日本軍が現駐地を撤退するならば、満州各地は混乱の巷と化し去るであろう。…
田口芳五郎 著『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部 昭和10年刊 p.28
カトリック教満州伝道本部は支那良民の訴えを実際に聴いて、全世界に日本軍がなければ満州の治安が保てないことを発信したものであるのだが、わが国がカトリック教会の情報発信に関与したわけではない。以前このブログで書いたが、このような情報発信がカトリックの総本山であるローマ教皇庁を動かし、上の画像のとおり、満州建国後の一九三四年(昭和九年)四月にローマ教皇庁が正式に満州国を承認した。竹下義朗氏の「帝国電網省」というサイトの「歴史再考」の記事に、満州国はドイツ、イタリア、スペインなどの二十三ヶ国が独立承認をしていたことがまとめられているが、戦後の歴史叙述からはこのような重要な事実が殆んど欠落してしまっている。
話を国際連盟で錦州爆撃が問題にされた頃に戻そう。昭和六年十二月に満州事変の調査のため調査団が派遣されることが決定し、七年三月にリットン調査団が派遣されたのだが、これまで何度もこのブログで書いてきた通り、調査団は満州で公平な立場に立って情報収集していたとは思えない。彼らが奉天でカトリック教会から情報を取っていれば、満州に関してもっとまともな報告書が書けたのではなかったか。
リットン報告書の出る前にわが国が満州国の独立を承認した理由
リットン調査団による満州の調査が終わり、張学良のいる北平(現在の北京)で報告書が起草されることが決まった。報告書が完成すれば、国際連盟の審議に付されることになるのだが、このままではわが国にとって不利な報告が提出されることが予想されていた。
満州国が独立したのは一九三二年三月一日で満州国からはわが国に対して満州国独立の承認を求められていたのだが、それまで承認を保留してきた理由は、リットン調査団の報告がわが国に有利なものである場合には列国とともに満州問題を解決することも出来るが、満州国承認を急ぐと調査団との関係や国際連盟並びに列国との関係を悪化させる可能性があるとの判断による。しかしながら、調査団は最終報告書で支那に満州の総主権を握らせようとしていることがほぼ分かって来たので、それならばわが国は調査団の報告書が出る前に満州国の独立承認を行い、さらに日満議定書を締結して連盟に圧力をかけるのが得策であるとの考えが急浮上してきたのである。
…満洲国を承認する以上該決議は何ら日満両国に対して実際的効果をおよぼし得ざることとなるからリットン報告の如きはわが対満既定方針の遂行により自然解消するほかなき結果に立ち至るであろうとし、連盟があくまで満洲の完全な独立を否認し、日本政府の満洲国承認を取消さしめようとするが如き決議をなすにおいては、前内閣以来の方針により日本代表部のジュネーヴ引揚げを決行するまでであるとしている。
「神戸大学新聞記事文庫」外交118-36
もちろん政府としては世論を無視するわけにはいかないのだが、議会の決議や政党の声明はこのような政府の方針を支持したのである。わが国が満州国の独立を承認したのは九月十五日だが、独立を承認するということは、わが国が満州国を併合する意思を持たず、満州国の領土を尊重することを表明することでもあるのだ。
わが国が提出した「リットン報告書」の意見書について
「リットン報告書」が連盟理事会に提出されたのは十月一日で、世界に公開されたのは十月二日のことだ。わが国では外務省が、報告書の内容の詳細を検討していたのだが、外務省で「意見書起草委員会」が立ち上げられ、のちに軍部も合流して「リットン報告書」に対する意見書を提出することになった。
そして、その意見書が決定し次のような原則に準拠して書かれることが報じられている。六点あるのだが、はじめの三点は以下の通りであった。
一、リットン報告書が各章にわたり支那側の材料に偏重し日本側の提供した材料を不問に附している点は甚だしく遺憾とする。日本政府は報告書の全面的不公平を指摘せざるを得ない。
「神戸大学新聞記事文庫」外交120-73
一、九月十八日の事変突発に関連し日本軍の自衛行動を批判するに当り、事変前の支那側の排日的行動の数々を想起せず、単に鉄道爆破事件のみを基礎として自衛行動の範囲を逸脱したとする節の如きは日本政府として断じて承認出来ない。
一、満洲国独立運動に関し三千万民衆の独立意思を否認し日本軍の援助によって満洲国が成立したとする如きは誤謬も甚だしい。かくの如き独断は徹底的に糾弾せざるを得ない。…
この方針に沿って書かれたわが国の意見書は、邦文で六十四枚、四万三千字に及ぶ長文でとても紹介できないが、十一月十八日に松岡代表から連盟事務局に提出されている。その内容を外務省が公表したのが同月の二十一日である。
上の画像は十一月二十一日の時事新報だが、その記事にわが国の意見書が第三省の途中まで紹介されている。全文は「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている。ありがたいことに、第五章の冒頭に第四章までの要約がなされている。
叙上日本政府の述べ来たれるところは之を要約すれば左の諸点に帰着す。
第一、支那が一九一一年の革命以来今日に至るまで無政府に近き混乱状態にあること、しかして同国はかかる事態が持続する限りは国家的崩壊の状態にありと見るの外なきこと。少なくとも現下の事態に於いては、支那が鞏固にして永続性ある中央政府を有するに至る時期の到来は、仮に究極に於いて可能なりとするも、その何時たるやは到底予断するの不可能なること。
第二、右状態の結果として支那は外国人の生命財産に対し十分なる保護を与え得ざること。殊に近年に於いて内争の深刻化及び国民党の外国に対する所謂「革命」外交政策実施の結果、前記の状況は益々著しくなること。
第三、したがって諸外国は支那に於いて治外法権、租界、駐屯軍の維持、内外における軍艦の常駐というが如き今日世界の他の部分に於いてはその類を見ざる例外的権力及び特権の行使を継続し居ること。
第四、支那に利益を有する諸外国は支那の無政府状態及び排外政策により均しく被害を受けたるも、最大の被害者は日本なりしこと。
第五、日本は満州と歴史的及び地理的に最も緊密の関係にあること。同地方に於いて莫大なる経済的利益に加えるに重要なる条約上の権利を有し、かつ多数の居留民を有すること。加之(しかのみならず)国家安全の見地より政治上及び戦略上満州に対し重大なる関心を有すること。要之(ようするに)日本の満州における地位は世界の他の部分に比類なき例外的かつ特殊のものなること。
第六、近年旧満州官憲が右特殊地位を覆滅せんとする意図を以て各種の策動を為し、殊に張学良の国民政府との接近後に於いては日本の権益に対する右侵迫は益々頻繁かつ熾烈となり来たり、形勢緩和に対する日本側百方の努力にもかかわらず警戒を要すべき緊張状態を招来せること。
第七、九月十八日の事件(柳条湖事件)は右の如き緊迫せる空気の裡(うち)に起これること。該事件の当時またはその後に於いて日本軍の執りたる措置はいずれも自衛権の範囲を逸脱せるものに非ざりしこと。公平に見て日本と同一の状況に置かるるに於いては他のいかなる国といえども同一の行動に出でたるべきこと。
第八、満州が支那本部に対し常に地理的及び歴史的に別個の地位にありたること。その住民が張家の暴政を憎悪し同地方を支那本部の政争の渦中に投ずるの政策に反対せること。右地理的歴史的事情及び住民の張家に対する反対は相俟っていわゆる「保境安民」運動となりたること。満州国の創設は右運動及び清朝復辟運動を主導力としたる満州住民の自発的行為にもとづくものなること。満州国は穏健なる政策の下に着実なる進歩を為し、その将来は極めて有望なること。最後に満州国の建設に対し日本の執りたる態度及びこれを正式承認するに至れるは何ら国際約定に反せざること。
外務省編『国際聯盟支那調査会報告書に対する帝国政府意見書 (国際聯盟協会叢書 ; 第117輯)』国際聯盟協会 昭和7年 p.66~68
日本の意見書が出る前に支那はどう動いたか
わが国が報告書を準備している間に国際連盟では、満州事件以降の日支紛争について十一月十四日に理事会、さらに十二月には総会の議案になることが決定した。すると、総会で「日本の満州国承認の即時取消を要請する」決議を通過させようと多数派工作を仕掛ける国が出てきたのである。
…小国側の策動が支那側の陰謀によって動かされていることは極めて明瞭であるため、這般の情勢を十分知悉している大国側は官辺はもちろん民間輿論にいたるまで、容易に支那側の術中に陥らぬ形勢を示しているものの、国際連盟の如く一切を多数決制により決定するところにあっては勢いのおもむくところ如何なる情勢を展開するやもはかられず多大の警戒を要するとされている。
「神戸大学新聞記事文庫」外交120-97
記事には「小国」とあるが、小国が単独でこのような策動を行うことはあり得ない。証拠が手元にあるわけではないが、記事に書いてあるとおり仕掛けたのはおそらく支那であろう。国際連盟の総会決議となると、大国でも小国でも同じ一票となり、総会で可決されるとなると厄介なことになることは誰でもわかる。
支那が国連総会で有利な決議を導くために動いていたとしても、欧米資本の一部が支那を裏で支援していた可能性もまた否定できない。当時においては、日支の紛争が長引くことで日本企業が長年開拓してきた支那市場は壊滅的となり、欧米の資本家たちがその市場の奪取を狙っていた可能性はかなり高いと私は考えている。彼らの一部が国連と支那を使ってわが国に圧力をかけ、日支の紛争を長引くように仕掛けた可能性を考えるのだが、外交の公式記録に残らない動きについては当時の新聞には出ているものの、戦後のわが国の歴史叙述では語られることは皆無である。
次回は、わが国が国連で何を主張したかについて書くことにしたい。
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