禁教の時代を乗り越えて信仰を繋いできた最後のキリシタン~~隠れキリシタンの里3

隠れキリシタン(茨木)

徳川幕府の禁教令が明治維新後も引き継がれた

前々回及び前回の記事で、大正八年(1919年)に茨木市大字千提寺の東家の「開かずの櫃(ひつ)」から発見された聖フランシスコ・ザビエル像(国重要文化財)のことを書いた。

江戸幕府がキリスト教禁教令を全国に広げた慶長十八年(1613年)頃に、より安全な場所を求めて山奥の敬虔な信者の家にザビエル像が持ち込まれたようなのだが、幕府のキリスト教徒に対する厳しい取締りは幕末の開国後も続き、明治維新後の政府もキリスト教を禁止する姿勢は変わらなかった。五箇条の御誓文の発布翌日にあたる慶応四年三月十五日に明治政府が出した五榜の掲示の第三札には切支丹・邪宗門の禁止が明記されている

一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事(切支丹邪宗門の儀は堅く御制禁たり。御褒美下さるべき事。)

この第三札を普通に読めば、明治政府がキリスト教を邪悪な宗教と認定したと理解せざるを得ないのだが、この第三札の内容がキリスト教を国教とする欧米各国から激しく非難されることとなる。

五榜の掲示 第三札

困った明治政府は、同年の閏四月四日に第三札を次のように書き改めたという。

一 切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事

一 邪宗門之儀ハ固ク禁止候事

明治政府は前回の掲示でキリスト教を邪教という意味で書いたわけではなく、「切支丹」または「邪宗門」という趣旨であったと苦しい言い訳をし、誤解されないように「切支丹」と「邪宗門」とを書き分け、さらに密告を奨励する部分はカットして各国の非難からうまく切り抜けたのだが、国家としてキリスト教を禁止するスタンスは変えなかったのである。

長崎市浦上の隠れキリシタン

通史などには書かれていないが、現在の長崎市で隠れキリシタンとして信仰を守り続けてきた浦上村の村民たちが、幕末の慶応三年(1867年)に江戸幕府の指令により大量捕縛され、明治維新後の慶応四年(1868年)閏四月十七日に新政府により流罪に処せられている(浦上四番崩れ)。

そのことは再び諸外国から激しい抗議を受けることとなり、政府は明治六年(1873年)にキリシタン禁制の高札を撤去し、浦上のキリシタンを釈放し帰還させている。

そうすることで明治政府は海外を納得させたのだが、この時に政府はキリスト教を解禁したとは明言しなかった。そのため密かにキリスト教の信仰を繋いできた多くの信者にとっては、禁制の高札が撤去されたことをもって、安心してキリスト教の信仰を続けることが出来るようになったとは考えなかったようなのである。

茨木市千提寺の隠れキリシタン

茨木市の千提寺地区にも隠れてキリスト教を信奉していた人々が残っていた。江戸幕末期には近隣の十軒くらいが持ち回りで信仰を守っていたそうだが、聖ザビエル像などが発見された大正八年(1919年)には、四軒だけが信仰を繋いでいたという。

郷土史家東實文男氏の著書には、こう記されている。文中のイマさんは、郷土史家の藤波大超氏に『開かずの櫃』を見せようとした東藤次郎の母親である。

「明治六年二月二四日には新政権の明治政府は『太政官布告』で『キリシタン禁制』を廃止するが、彼女たちにおいては弾圧政策に対する恐怖心は続いていた。その端的な例を挙げると、大正時代に入って藤波大超氏が『開かずの櫃』から『ザビエル像』等を発見した時のことである。この時イマさんは八〇歳を超えているが健在であり、櫃の中身を見せようとした息子(藤次郎氏)に『見せてくれるな、見せたらお縄にかかるから!』と言ったのだそうだ。

当時まだ子供であったユタ(東藤嗣氏の母)さんは、それを見ていて初めて『開けずの櫃』のことを知った。『開けずの櫃』はずっと世継だけに伝えられていて、他の子どもたちには存在すら知らされていなかったのである。」(『「茨木」と「竹田」』p.69-70)

このように明治六年(1873年)にキリシタン禁制の高札が撤去されてからは四十六年も経過しても、千提寺でキリスト教の信仰を繋いできたイマさんは、自分がキリスト教を奉じていることが表に出たら弾圧されると、本気で恐怖心を抱いていたのである。

千提寺地区は、山深い場所だから隠れて信仰を繋ぐことができたのであろうが、イマさんは仏教徒として振る舞いながら、この千提寺地区で密かにキリスト教の信仰を繋いできた最後の隠れキリシタンの一人であった。

では彼女たちは、長かった禁教の時代に、どのようにして信仰を繋いできたのであろうか

東實文男氏の前掲書によると、今は焼失してしまったが、東家から北側の山道を奥に進んで百数十メートル入ったところに「元屋敷」があり、その場所で、隠れて信仰が行われていたという。ザビエル像などが収められていた「開かずの櫃」は、その「元屋敷」の竈の上方の棟木にくくりつけてあっそうのだが、ある日「元屋敷」で火災が発生し、その時に「開かずの櫃」を運び出して今の東家の蔵に移されたのだそうだ。その火災で「元屋敷」は焼け落ちてしまい、その後地滑りが起こって跡地も流されてしまったという。

最後の隠れキリシタンを訪れたローマ教皇庁使節

大正十四年(1925)には東イマさんは天寿を全うし、同じくキリシタンであった中谷ミワさんも亡くなった。そのため、江戸幕府の禁教以来キリスト教の信仰を繋いできたのは、中谷イトさん一人になってしまっていた。

大正15年(1926年)4月のこと、そのイトさんと会うために、ヴァチカンのローマ教皇庁のマリオ・ジアルジニ大司教、ヨハネ・バプティスト・カスタニエ神父と千提寺協会の神父二名ほかが中谷家を訪ねて来たのである。

その時イトさんは一行に「アヴェ・マリアのオラショ(祈り)」を披露したという。

禁教のために、証拠となるものを残さないように口から口へと伝えられてきたものだそうだ。

前掲書に祈りの言葉の原文と訳文が出ている。

「オラショ(祈り)の原文

からさみちたんもにまるや様 御礼をなした奉る。

 おんなるす様 御身と共に女人の中に於てまし御果報よみしきりなり。

 またおんたんねんの尊さ御身にてまします。

 でうす様の御母様たまりを様

 今も我等が最後に我悪人のためにでうす様をたのみ給へ、

 あんみんじんままり様」

「オラショ(祈り)の訳文

 ガラサ充満ち給ふマリヤの御身に御礼をなし奉る。

 御主は御身と共にまします。

 女人の中に於て分けて御果報いみじきなり。

 又御胎内の御身にて在ますデウスも尊く在ます。

 デウスのお母サンタマル様、

 今も我らが最後にも、我ら悪人の為に頼み給へ。

 アンメイ デウス」(同上書 p.70-71)

イトさんの証言によると、日曜日に「茶日」等と称して集まりを持ち、ツバメが飛来した時から断食を始めていたという。

高雲寺のキリシタン墓碑

最後の「隠れキリシタン」であったイトさんも同年の夏にはこの世を去り、今では千提寺にキリスト教の信徒は一人もいなくなってしまった。現在子孫の多くは下音羽にある高雲寺(茨木市下音羽490−1)の檀家であるという。

高雲寺

高雲寺のある下音羽は千提寺から2キロほど北にある集落だが、この地域からも「マリア十五玄義図」や「象牙のキリスト磔像」などが発見された地域である。

高雲寺の本堂の右隅に、小さなカマボコ型のキリシタン墓碑が2つ並んでいる

高雲寺のキリシタン墓碑

風化して分かりにくいが、表面上部に十字が彫られている。左が慶長十五年(1610年)、右が慶長十八年(1613年)のものだそうだが、江戸幕府が直轄地に禁教令を出したのが慶長十七年(1612年)、それを全国に広げたのが慶長十八年(1613年)だ。昔からこのような場所に2つ並んで置かれていたとは考えにくい。

境内を探すと、この墓碑の由来が書かれている案内板が立てかけられていた。それによると、左側の石は高雲寺の手水鉢の台石に使われていて、右側の石は同寺の靴脱ぎ石に使われていたのが発見されたとある。

どういう経緯で手水鉢の台石や靴脱ぎ石に使われることになったかは記録がないのでよくわからない。私の推測ではあるが、禁教時代のこの寺の住職は、檀家の中に隠れキリシタンが何軒かいることは分かっておられたのではないか。そして、その秘密を守ることで檀家との信頼関係を築いておられたのではないだろうか。そう考えなければ、千提寺地区の元隠れキリシタンの子孫の多くが高雲寺の檀家であることを理解し難いのだ。

またキリシタン墓碑を靴脱ぎ石のような使い方にしたのは、万が一この寺が、隠れキリシタンに協力しているとの疑いがかけられても、墓碑をそのような使い方をすることで幕府役人の追及を逃れることができると考えたのではないだろうか。

この寺は禁教令が出た以降である元和元年(1615年)に創建されたと伝わっており、以前は教会堂であったとの説もあるようだ。また、この寺の親寺は大阪市東淀川区にある崇禅寺であり、崇禅寺にはキリシタンであった細川ガラシャの墓があることで知られている。

確かな史料がないので確実なことは言えないが、崇禅寺の末寺である高雲寺もキリシタンと密接な関係があった可能性が高く、千提寺や下音羽地区のキリシタンの隠れ寺のような存在であったと考えている。

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