黄河決壊事件
一九三七年(昭和十二年)盧溝橋事件から支那事変がはじまり、南京陥落後日本軍は中国中心部に軍を進め、翌年六月には河南省の中心地である開封を占領。次いで鄭州に向かうのだが、このままだと国民党政府にとって重要な都市である武漢や西安が危うくなる。そこで蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、黄河の堤防の爆破を命令している。
Wikipediaによると、「氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる五万四千平方㎞の領域に及んだ。水没範囲は十一都市と四千村に及び、三省の農地が農作物ごと破壊され、直接的な溺死者は少なくとも数万、被害者は六百万人と言われるが被害の程度については諸説ある。」と解説されている。
この事件は「黄河決壊事件」と呼ばれているが、事件当時は「黄河決潰事件」と表記されていた。

五万四千平方kmが氾濫したといっても広すぎてなかなかピンとこないのだが、近畿地方の面積が三万三千百十七平方km、四国地方が一万八千八百五平方kmだから、近畿と四国を合わせたよりも広い面積に被害が出たことになる。上の画像は「徐州会戦経過要図」だが、青い部分が氾濫地域である。
この事件で黄河の流れが南側に変わり黄海に注ぐことになったが、事件から十年後に堤防が再建されることにより、以降は一九三八年以前の流域に戻されているという。
黄河決壊事件のことは当時のわが国の新聞などにもちろん報道されたのだが、ネットで見つけた新聞の画像では、記事の本文が殆んど読めない。

この事件の四ヶ月後に出版された仲小路彰著『世界戦争論』(GHQ焚書)に黄河決壊事件の詳細が記されている。
六月中旬、暴虐なる支那敗残軍は、わが進撃を極度に恐れ、自らの良民の休戚を顧みずか、開封西北鬧市口、蒲灘間、十数か所および鄭州北方許家堤付近数ヶ所に黄河の堤防破壊を決行せり。
折からの雨期に増水せる大黄河の滔々たる濁流は、奔然、白波を立てて氾濫。
開封一帯の、徐州二十万殲戦以来硝煙罩る新戦場——河南の大沃野は一瞬にして泥海と化せり。
…
決潰口は口百五十メートル」余に拡大、水勢は秒速一米余、中牟(ちゅうぼう)付近には水深二メートルに達し、その一丈五尺[4.5メートル]の大城壁も刻々濁水の中に沈みつつあり。…支那側は今や頻りに黄河堤防決潰を日本軍の所為なりと宣伝に努む。
しかもその地点と称さるる京水鎮(けいすいちん)には未だ日本軍は進出せず、支那軍は日本の空爆によりて破壊せりと言えど、幅三百米もある堤防を如何にして爆弾にて破壊し得ん。
…
十四日まで中牟付近を中心とし、被害面積四百五十平方支里[シナの尺度による里]は水底に没す。大小一千余の部落は濁水に姿を消し数十万の住民は逃げ惑い、阿鼻叫喚の巷と化せり。
開封駐屯の日本軍は、早くも筏船、自動車隊を出動せしめ、勇敢に決死の救助作業に従事、僅かに水面に残れる中洲や丘陵に恐れ戦ける瀕死の避難民を救助しつつあり。しかも修復作業隊は、幾度か敵の暴戻なる攻撃を物ともせず、敢然、轟々たる濁流に抗して、応急の行為に出ずるなり。
没落の直前にある蒋介石は、わが新占領地を一大湖水化せしめ、漢口進攻を阻止せんとす。かくて更に国民政府は、この決潰と同時に『潼關より曲沃に至る山西南部一帯は既に奪回されたり』と、デマ放送をしつつあり。
なおも修理を為さんととする良民に対し、支那兵は悪鬼の如く機関銃を猛射せるなり。
仲小路彰 著『世界戦争論 日本世界主義体系 第7卷』日本問題研究所 昭和13年 p.213-215

この様に国民党軍は自分で黄河の堤防を破壊して黄河の水を溢れさせ、百万人もの水死者を出しておきながら、「日本軍の仕業だ」とのデマを流した。そればかりではなく、決死の救助作業に従事し多くの避難民を助け修復作業に従事していた日本軍や被害者の良民に対して、国民党軍は機銃掃射を浴びせてきたというのである。
世界は黄河決壊事件をどう報じたか
この話は多くの日本人には信じられないかもしれないが、真実なのである。
仲小路は同上書で、スペインのサンセバスチアンで発行されているディアリオ・パスコ紙の六月十九日付けの「支那人の戦法」という記事において、英米仏が国民党軍のこの非人道的な行為に対し抗議もせずに沈黙を続けていることを痛撃している部分を紹介している。
…然るに、英、米、仏いずれよりもこの世界に前例なき人類一大鏖殺[皆殺し]に対し、一言たりとも抗議する声を聴かない。この奇異なる態度こそボルシェヴイズムおよび民主主義者流の特質とする虚言および事実を歪曲する支那人でもなければ了解することはできない。彼らは平和を語りながら戦争を徴発し、条約履行を心に要求するときは条約尊重を宣言し、自己が債権者なる時は債務の神聖を主張し、反対の場合にはその神聖を没却し、かくて到るところに革命精神を伝播しつつ、人命の尊重を要求している。…中略…
支那人が数百万人の平和なる住民を溺死せしむべき大洪水を起こしても、ひたすら沈黙を守っているのは、これ彼等の心事を以てしなければ理解できない。吾人はかかるご都合主義的虚偽を人類の尊厳を汚辱するものとして世界各国が絶対に排撃しない限り、いわゆる文明に対し不信を感ぜざるを得ぬ。
同上書 p.217-218
Wikipediaによると、アメリカにおける報道は被害の規模を伝えるのみにとどまり、『ブルックリン・デーリー・イーグル』紙が六月十六日に「日本軍が必死の救助活動をしている」と報じた程度という。
英国では事件が日本軍の砲撃で引き起こされたとする中国側の説明に無理があることを示しながら双方の主張を伝え、フランスでは六月九日上海発アヴアス電は漢口からの報告として中国軍は黄河の堤防破壊による洪水で日本軍の進撃を阻止したとの内容であったが、六月十五日夕方駐仏中国大使館は、黄河決壊に関するコミュニケを各通信社・新聞社に送り、その中では事件を起したのは日本であるとしていたが十六日の各紙朝刊は全くこのことを掲載しなかったそうだ。また六月十七日のフランス急進社会党機関紙「共和報」は、黄河決壊事件は中国軍による自作自演であると書いたという。
このように英米仏三国は、中国軍の嘘の発表は見抜いていたのだが、非人道的な支那軍の行為に対しては、沈黙していたのである。
郭沫若や蒋介石は黄河決壊事件についてどう記しているか
中国政府の要職を務めた文学者・歴史学者・政治家の郭沫若の自伝の中にもこの事件の記述があり、日本軍の責任と言っていたが実は蒋介石の命令によって実行したこと明確に述べている。
敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線(北平―漢口間)南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、六月十一日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。
『郭沫若自伝 6 (東洋文庫 ; 224)』平凡社 1973年刊 p.85

また、蒋介石の生前の記述や中華民国の政府公文書、外交文書、中国国民党の公式記録に基づいてまとめ上げられた『蒋介石秘録』には、「黄河決壊事件」について次のような言い訳がなされている。
かりに堤防決壊をためらったならば、日本軍の機械化部隊が鄭州から一気に武漢を衝いたであろう。無法な侵略の手から国土を守るためには、犠牲覚悟の非常手段も必要な場合があるのである。
事実この洪水によって、日本の武漢進出を半年間食いとめることができた。また冠水地帯以西の地は、このあと六年間にわたって、日本の侵略から守られたのである。
『蒋介石秘録 12 (日中全面戦争)』サンケイ出版 1976年刊 p.146
蒋介石という人物は、自国の数百万人の国民を塗炭の苦しみに陥れたことについて何の謝罪もせず、「日本侵略から守った」などと書いているのだが、許しがたい男だと思う。
避難民を救出し、堤防を修復した日本兵

黄河堤防の爆破は最初に六月七日に行われたがこれは失敗し、九日の爆破で黄河は決壊したのだが、大量の水が流れ出したのは三ヶ所の堤防が爆破された十一日以降のようだ。
幸い日本軍の被害は少なく、洪水自体による犠牲者はたったの三名だけだったというが、堤防修復作業の際に中国軍からの攻撃を受けて、さらに何人かの犠牲者が出たようだ。
『支那事変戦跡の栞 中』(GHQ焚書)には、日本兵達がズブ濡れになって避難民救助を続け、支那人とともに修復工事を行ったことなどが書かれている。
なお開封特務部宣撫班、治安維持会では連日開封市民を督励、苦力一千名、麻袋三千五百袋を集め開封付近一帯の堤防構築を行ったので、たとえ今後雨季に入り黄河が増水しようとも、開封一帯は絶対安全とされるに至り、市民は斉しく皇軍の努力に感謝した。我が方よりはさらに専門の技師を派遣し、航空隊も協力して、遂に敵の暴策を阻止した。
陸軍画報社 編『支那事変戦跡の栞 中』陸軍恤兵部 昭和13年刊 p.315

また『支那事変聖戦写真史 第三篇』の解説文を読むと、国民党軍が河川を決壊させたのは黄河だけではなかったようだ。
皇軍の急追を逃れたい一念から黄河決潰の非人道的行為を敢えてした支那軍は、性懲りもなくその後も度々河川決潰戦術を試み、無辜の自国民を塗炭の苦しみに陥れた。即ち六月二十七日江蘇省中央部高郵南方昭関覇付近で大運河の堤防を決潰。淮南の平野を水浸しにして逃走を試み、また揚子江方面では七月二日安慶上流望江の西南復興鎮付近で堤防を決潰し、折柄雨季の増水で満々たる水をたたえた揚子江の濁流は決潰個所より北方へ流出、皖南平野は将に水浸しにならん観を呈した。
『支那事変聖戦写真史 第三篇』忠勇社 昭和13年刊
黄河堤防決壊後に起きた大飢饉
黄河堤防決壊事件によって黄河の流れが変わり、濁流が流れ去った後は辺り一面が乾燥地帯になり、堤防破壊の後遺症として一九四二年に河南省で干ばつが起こった際には大飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたという記録もあるようだ。
Wikipediaには、河南省の人々が中国軍に叛旗を翻し、日本軍に協力する支那の人々が少なくなかったことが記されている。
劉震雲の小説『温故一九四二』によれば一九四二年から一九四三年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、三百万人あまりが餓死したという。…中略…
劉の小説によれば、この状態が続けば河南省は全滅していたが、一九四三年の冬から一九四四年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救ったという。この結果河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だったとされている。
一九四四年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約六万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約五万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。三週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果三十万の中国軍は全滅したとされている。ただし、当時の日本側資料でこのような事実報告をしているものは、今のところ見つかっていない。
このような内容が中国河南省出身の劉震雲氏が祖母や叔父らをインタビューして著した『温故一九四二』という本に書かれているようだ。邦訳もされており、アマゾンに詳しいレビューが紹介されている。
一九四二年の大飢饉で河南省の農民を救ったのは日本軍であったという内容は、戦後のわが国で拡散されてきた歴史叙述からは考えられないような内容なのだが、Wikipediaには、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのかが分からないということには注意すべきであると書かれている。
河南省で大飢饉が起きたことは、中国で発刊された学術書にも書かれているので疑いようがないのだが、日本軍が河南省の飢餓に対してどのような行動を取ったかついて述べている本は、探すことが出来なかった。
蒋介石時代については多くの確実な資料がある。蒋介石が革命を裏切りファシスト独裁政治を打ち立て、勤労大衆に対して圧迫と搾取を深めていくに従い、黄河の天災は歴史上いまだかってなかったほどひどくなったのである。……
一九四二年、河南、河北、安徽三省一円が大干ばつにあい。黄河流域を離れて長江、淮河の地方にのがれ乞食になったものは数え切れず、河南省だけでも餓死したもの三百万人に及んだのである。しかもこのような時期に、河南駐在の国民党軍事頭目、湯恩伯は官兵に命じて火災を起こし打ちこわす、というような無謀なことをやったのである、河南の人々は”水、旱、蝗、湯”*の四つを四大災害と呼んだ。
*”水、旱、蝗、湯”:洪水と日照りによる干ばつとイナゴと湯恩伯
郭超人 著 佐々木四郎, 頼民基 共訳『中国馴水記』1983年刊 p.112
黄河決壊事件等の真実が広く知られては「自虐史観」は成り立たない
黄河決壊事件のような重要な事件が戦後の日本人にほとんど知られていないのは、わが国の歴史教科書に書かれてこなかったことが大きいのだが、ではなぜこの重大事件が教科書に載せられなかったのか。
このブログで何度も書いている事なのだが、戦後の長きにわたりわが国の教科書は『戦勝国にとって都合の良い歴史』で描かれており、『戦勝国にとって都合の悪い史実』はほとんど伏せられて来た。言い方を換えると、今日のわが国の教科書及びマスコミは「わが国は侵略国であり、第二次世界大戦の戦争責任がある」とするスタンスを崩さない範囲で歴史を編集していて、日本人の多数が外国人に虐殺された話や、戦勝国が植民地などで酷いことをしたような話、逆に日本人が他国で良い事をした話などが戦後の日本人にはほとんど伝えられていないのである。
この黄河決壊事件は、南京陥落の半年後に起きているのだが、もしわが国の教科書に「通州事件」や「第二次上海事件」や「黄河決壊事件」につながる史実が記されていたら、今日広まっているような「南京大虐殺」の記述にほとんどの日本人が疑問を持つことになるだろう。
世界情勢がきな臭くなってきた昨今であるが、少しでも多くの日本人がこのような歴史の真実を知り、『自虐史観』のおかしさに気付いてほしいものである。



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