廃藩置県と徴兵制
教科書などでは、明治四年(1871年)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したものだが、このような大変革が諸藩から大きな抵抗も受けずに実現したのは戊辰戦争で諸藩の財政が窮乏したことによるなどと解説されている。
しかしながら廃藩置県は、特定の領主がその所領を支配するという体制を根本的に変革する大改革であり、藩の政治組織、軍事組織の解体を伴うものであるから、何の抵抗もなく行われたわけではなく、徴兵制の実施や士族の反乱もあわせて論じるべきだと思う。

菊池寛の『明治文明綺談』(昭和18年刊)には廃藩置県について次のように解説されている。
明治四年七月の廃藩置県の断行は、徴兵制施行にむかって時勢を一躍進せしめた。封建割拠の勢いでは、如何に非凡な才腕のある大村益次郎といえども、徴兵令を実行することは出来なかったのであろう。そこに時勢に恵まれた山縣の幸運があった。しかも三藩の御親兵が厳として中央に頑張っている限り、どんな諸侯でも、廃藩の英断に対して、反抗することは許されないのである。西郷の出馬と御親兵の設置という中軸を中心にして、時代はここにぐるりと一回転することになったが、そこで次に舞台にせり上がってくるのは、どうしても、国民皆兵の徴兵制度の実現であった。
つまり廃藩置県の結果、各藩の常備兵は自然に消滅することになる。そのため、全国一途の兵制が建てられることになり、東京、大阪、鎮西、東北の四ヶ所に鎮台が置かれ、各地に分営が置かれることになる。この鎮台兵をどこから採用するかということになると、各藩の藩兵が消滅したのであるから、広く国民一般から募集せざるを得なくなるわけだ。徴兵制によらなければ、鎮台に必要なる兵員を満たすわけにはゆかぬのである。
しかし徴兵制は、直ちに要路者の全部の賛成を得るまでには至らなかった。
百姓町人から徴兵せずとも、士族だけからでも必要な人数は得られるではないか、というのが薩摩出身の政治家たちの世論であった。嘗て大久保利通が、大村益次郎の所説に反対したのは、全く士族徴募論を採ったからである。西郷隆盛は公然とは反対しなかったが、徴兵に就いて不満を持っていたことは察しられよう。戦争は侍がやるものとは、彼の終生易らぬ信念だったからである。だから、後の西南戦争でも、『百姓出身の兵隊を殺すでないぞ。民兵が降参してきたら、許してやれ』と言って、あくまでも軍人は武士であるという信念はかえなかった。
菊池寛『明治文明綺談』六興商会出版部 昭和18年刊 p.192~193
軍制改革をすれば武士は特権を失うことになるので彼らは黙ってはいないだろう。既に兵部大輔・大村益次郎や参議・広沢真臣のような政府の顕官の暗殺が各地の騒擾が続いており、士族の反乱を鎮撫する目的で長土三藩から兵を集め西郷隆盛を中心として御親兵を発足し、封建的な地方勢力を押さえこんで廃藩置県を断行し、知藩事(旧藩主)を失職させて東京移住を強行した。しかしながら、わが国の徴兵制度を国民皆兵とするかどうか、その場合士族の扱いをどうするかについてはまだ意見がまとまっていなかったのである。
徴兵制に反対した人々

西洋諸国と同様に、わが国においても国民皆兵の徴兵制が必要であることを早くから唱えていたのは大村益次郎や山縣有朋であったのだが、もし徴兵制が実施されると士族は本来の職能である軍役から離れて存在意義を失うことになるは言うまでもない。
この動きに最も不満を懐いたのは、薩長土三藩出身の近衛兵であり、桐野利秋であったという。菊池寛の前掲書に谷干城の隈山詒謀録の次の一節が引用されている。文中の「桐野」は桐野利秋、「山縣大輔」は山縣有朋(当時兵部省の大輔)を指している。
初め三藩の獻兵は皆、維新戦功の兵にして、此を以て朝廷の基礎を固め、廃藩を断じ、此の兵は長く徳川の旗本八萬旗の如きものとなり、頗る優待さるるものの如く考えし者多かりしが、飛鳥尽きて良弓収まるの譬えの如く、少々厄介視せらるるの姿となり、且つ近衛兵の年限も定り、一般徴兵の制に依る事に決したれば、長州の外は藩士共不快の念を抱ける如し。
殊に桐野は徴兵主義に不満なりし。西郷は寡黙の人なり。故に明言はせざるも、矢張り壮兵主義なりしが如し。……この時、桐野が不平は殆んど絶頂に達せり。余に対し、山縣大輔を罵りて曰く、彼れ土百姓を衆めて人形を作る、果たして何の益あらんや。
同上書 p.194
このようにかなり険悪なムードが漂っていたようなのだが、維新の軍功があった桐野らの主張が遠ざけられるに至った理由はどのあたりにあったのだろうか。
近衛将校である桐野利秋の家などには、兵隊たちが集って昔の同輩のつもりで酒を酌み、喧噪することは、鹿児島におけるのと変わらなかった。その気概はとにかく、これでは新時代の陸軍の軍紀は維持できない。藩の強兵も、遂には驕兵のそしりを免れなかった。
さすがの西郷も、この三藩の駕禦には閉口し、『これらの兵は誠に王家の柱石』ではあるが、自分としては之を指導するのは、『破裂弾中に昼寝いたし居る』気持がすると、当時外遊中の大久保利通への手紙に書いている。こうした士族世襲兵の驕慢にして制馭しがたかったことは、同時に徴兵論者の主張をいよいよ有力なるものとした。また終身兵制が夥しい費用のかかることも、指揮者はみな認めていた。曾我祐準将軍が『国軍は縦に養うて横に使うようにせねば国庫は堪え能わぬ』と言ったのは、常備兵を少なくして、予備兵を多くするという意味で、その間の消息をよく物語っていると思う。
要するに全国画一、四民平等の徴兵制度によって、国民皆兵主義を実行するにあらざれば、これからは諸外国との紛争に於て、国防を全うすることは出来ぬという確信は、軍部責任者の等しく堅持するところであった。それは明治四年十二月、兵部大輔山縣有朋、兵部少輔河村純義、兵部少輔西郷従道三人連署して奉った建議の中で力説されていることであった。
同上書 p.195~196
全国徴兵の詔

明治五年二月に兵部省は陸軍、海軍の二省に分かれ山縣は陸軍大輔となり、さらに熱心に徴兵制採用の急務を説いている。そして明治五年(1872年) 十一月に「全国徴兵の詔」が発せられ、同日に太政官は「徴兵に関する告諭」を発している。
古代からわが国においては国民皆兵が行われていたのだが、兵農分離が進んだのち武士階級が生まれて実権を掌握するようになっていった。この告諭では「後世の雙刀を帯び武士と称し、抗頭坐食し、甚だしきに至ては人を殺し、官其罪を問わざる者の如きに非ず」と、武士階級に批判的に述べたあと、「世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得しめんとす。是れ上下を平均し、人権を斎一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり」と四民平等の明治維新の理想を表明し、最後にこう結んでいる。 …人々心力を尽くし、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち人々其役に就かざるを得ず。是に由て之を観れば民兵の法たる固より天然の理にして、偶然作為の法に非ず。…西洋諸国、数百年来研究実践を以て兵制を定む。故を以て其法極めて精密なり。然れども政体地理の異なる、悉く之を用うべからず。故に今、その長ずる所を取り、古昔の軍制を補い、海陸二軍を備え、全国四民、男児二十歳に至る者は、悉く兵籍に編入し、以て緩急の用に備うべし。郷長、里正厚くこの趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知らしむべき也。
同上書 p.198~199
軍人の徴募制度には、国民に軍務を服する義務を課す徴兵制と、当人の自由意思に任せる志願制度とに分かれるが、前者の場合は、肉体的にも精神的にも思想的にも、兵役に従事させることが難しい人物も国家権力によって軍隊に召集されることになり、そのようにして集められた軍隊で危険な戦場で戦えるのかという問題が残る。また後者の場合は、応募する者が固定化して昔の武士のように特権階級化し、老後の生活保障まで考えると莫大な費用が掛かるばかりか、応募が少なければ国防のために必要な人数が集まらない懸念もある。
英米など多くの国は志願制度をとっているのだが、山縣らは、兵役は全国民が一様に負担する義勇奉公の制度があるべき姿であると考えたのである。
各地で徴兵に対する抵抗運動がなされた経緯
先に紹介した「徴兵に関する告諭」に、徴兵制度を国民に納得させるために、次のような文章を織り込んだのだが、そのことが大問題となっている。
凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充つ。然らば則ち人たるもの、固より心力を尽し、国に報ぜざるべからず。西人之を称して血税とす。其生血を以て国に報ずるの謂なり。且つ国家に災害あれば人々其災害の一分を受けざるを得ず。
同上書 p.198
「血税」という言葉は、兵役でもって国に報いるという意味で用いていることは言うまでもないのだが、多くの日本人がこの文章を誤読してしまったという。

菊池寛の解説を続ける。
太政官告諭分の中に「西人之を称して血税とす。其生血を以て国に報ずるの謂なり」の文をそのままに読んでしまって、血税とは、軍隊に入って生血をとられることだと誤解してしまったのである。また中には『血税とは血を搾り取ることで、東京や横浜には外国人が沢山来ていて、日本の若い者の血を絞って、葡萄酒をつくっているそうだ』などと真面目になって言いふらすものがあり、大いに一般の恐慌を引き起こしたものである。
同上書 p.201~202

この話は実際にあった話であり、『新聞集成明治編年史 第二卷』で当時の報道記事を確認することが出来る。「北條県」というのは現在の岡山県東北部に存在した県で、この記事によると三千人ばかりが竹槍や小銃を携えて蜂起し、吉原村、神戸村の家屋が焼かれたようだ。
亘理章三郎 著の『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』(昭和7年刊)には、山縣有朋が監修した『陸軍省沿革史』の一節が引用されている。
徴兵令の発布せらるるや因襲の久しき慣習其性を成し、四民兵役の義務を弁知せず、特に徴兵令中に載せたる血税の文字は偶々俗心に不快の文字を与え、為に或る地方に於ては争乱を惹起するあるに至れり。故に徴兵令実施後数年間は、兵役を忌避する者多く、兵数往々欠員を生ずることありしが、当局百方苦心の結果漸次其弊なきに至れり。
亘理章三郎 著『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』中文館書店 昭和7年刊 p.49
このように、陸軍省の正史において『血税騒動』で兵役忌避者が出たことの記述があることは注目に値する。
兵役を忌避する人々
では、明治六年(1873年)一月に徴兵令が交付されて以降どの程度の兵士が集まったのであろうか。
菊池寛の前掲書によると「山縣が当時理想とした兵員数は十二師団、三十万であった」のだが、「明治八年の調査によれば、歩兵二万六千人、騎兵二百四十人、砲兵二千百六十人、工兵千八十人、輜重兵三百六十人というから微々たるものである」とある。

普通に考えて、士族ではない一般の男性の多くは、軍隊に喜んで入隊するとは思えない。徴兵制について農民や商人たちがどのようにして抵抗したのか少し気になるところである。
亘理章三郎著の前掲書に、兵役忌避に関する明治十年二月一日の太政官達第十七号が引用されている。これを読めば、軍隊に行きたくない人々がどのようにして兵役を逃れようとしたかが垣間見える。
兵役は国の大事。人民必ず服せざるべからざるの義務に候処、人民未だ全く之に通暁せず。徴募の際動もすれば遽かに他人の養子となり、又は廃家の苗跡を冒し、甚だしきは自ら其肢体を折傷する等を以て規避する者往々有之。是れがため遂に定員の不足を生ずるに至り、不都合少なからず候條。猶一層精密に注意し管下人民へも丁寧説諭し勤めて是等の規避を防ぎ候様致すべく相達候事。
亘理章三郎 著『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』中文館書店 昭和7年刊 p.56
他人の養子となったり、廃家の跡目を継いだり、自分で腕や脚を折ったり傷つけてたり、他の資料では、目に毒を入れたり、犯罪をおかして囚人となったりして徴兵を逃れようとした人々が少なくなかったと書かれている。明治十二年には徴兵を逃れるノウハウ本も出版されという。
「血税騒動」については、菊池寛は「一般の教育程度が低いところから起こる誤解やデマであって、やがて一掃され」と記しているが、一年十ヶ月近く騒動が続いたことの説明としてはあまり説得力がない。もしかすると民衆は、「血税」という言葉を誤読していることを知りながら、徴兵されることを逃れようとした可能性も考えられる。

当時徴兵忌避者が如何に多かったかは、亘理章三郎著の前掲書に出ている内外兵事新聞の統計データを見ればわかる。兵役を免れた割合が八割~九割が忌避していたという数字には驚いてしまった。
しかしながら、その後各地で士族が反乱を起こし、山縣有朋がこだわった徴兵制によって集まった軍隊が成果を挙げる時が訪れた。菊池寛は次のように解説している。

その成果は、久しからずして、国民の前に現れることになった。則ち『百姓町人』の兵隊は、佐賀の乱に、台湾征討に、神風連の乱に、さては西南戦争に、当局の期待に背かぬ働きを示したのである。百姓町人の出身でも、これに正しい精神教育を施し、新しい武器を与えて訓練すれば、立派な近代的軍隊をつくることが出来るという、大村や山縣の確信を事実によって裏書きしたのであった。
『明治文明綺談』 p.203
わが国の徴兵制の採用は軍事上の大革新であったのだが、これを実現させ軌道に乗せることは山縣有朋の信念と頑張りがなければ難しかったと思われる。明治政府にとってこのハードルはかなり高かったのだが、この大改革を成し遂げることにより多くの成果を挙げることが出来たことを知るべきである。
日露戦争の動員兵力は百万人を超えていたのだが、これだけの兵士を動員するためには徴兵制を採用していなければ不可能であったことは確実で、またこれだけの兵士を動員できたからこそ、大国ロシアに勝利することが出来たのだと思う。
教科書などには徴兵制を実施したために職を失った士族の乱については書かれているのだが、徴兵制を軌道に乗せるまでに大村益次郎や山縣有朋らが苦労したことについて書かないのはバランスを欠いていると思うのは私ばかりではないだろう。こういうことも教科書には詳しく記述して欲しいものである。
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