パークスが宿泊した知恩院
鳥羽伏見の戦いのあとで外国人襲撃事件が相次いだことをこのブログで書いてきたが、もし新政府がいずれかの対応を誤っていたら新政府は短命に終わり、その後のわが国の歴史が大きく変わっていてもおかしくなかったと思う。
イギリスのパークス公使の襲撃事件は、学生時代に何度か歩いた場所で起きていることに興味を覚え、たまには京都の散策がしたくなって、パークスが宿泊した知恩院や襲撃事件が起きた場所などを訪ねてきた。
上の画像は安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会 巻之三』の「知恩教院(知恩院)」の図だが、知恩院の主要な伽藍は今もほぼ同じである。
国宝の御影堂は寛永十六年の建築で奥行35m・間口45mの大建築である。
パークス公使一行が泊まったのはおそらく大方丈(国重文)か小方丈(国重文)であったと思うのだが、江戸時代初期に作庭された方丈庭園(京都市指定名勝)が公使一行の目を楽しませたのではないだろうか。外交官のA.B.ミットフォードはこの寺に満足して、著書にこう記している。
東山の麓の木立に囲まれた知恩院という立派な寺に泊まることになった。我々が快適に過ごせるように、あらゆる手段を講じてあり、寺の警備には阿波と兵庫と尾張の各藩が当たっていた。部屋は全く壮麗そのもので、念入りな作法によって、数多くの珍味が供応されたが、それは日本のルクルス(大富豪で、ぜいたくな生活を送ったことで知られるローマの将軍)ともいうべき偉大な足利義政公でさえも満足させたであろう。
(『英国外交官の見た幕末維新』講談社学術文庫 p.156~157)
この寺の大鐘楼も梵鐘も国の重要文化財だが、この鐘についてもミットフォードは「その大きく立派な鐘は、町中はるか遠くまで重々しい音楽的な響きを伝えていた」(p.157)と書いており、よほど知恩院で過ごした日が気に入ったのであろう。
上の画像は国宝の三門で元和七年(1621年)の建築で、わが国最大級の二重門である。普段は非公開なのだが、たまたま楼上内部が特別公開されていたので鑑賞することが出来たのはラッキーだった。楼上の内部は仏堂となっていて、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像が安置されており、いずれも国の重要文化財に指定されている。天井や柱、壁には天女や龍が極彩色で描かれており今も色鮮やかで一見の価値があるのだが、写真撮影は楼上の内部も、楼上からの京都の眺めも禁じられていたのは残念だった。令和二年の公開は九月二十七日で終わってしまったが、毎年季節の良い時期に特別公開がされているという。
バークス一行の進んだ道
「歴史ノート」でパークス一行が襲撃された事件についてミットフォードの記録を紹介したのだが、今回は外交官アーネスト・サトウの記録を紹介しよう。
3月23日(慶応四年二月三十日)の午後1時に、われわれは知恩院を発して一路皇居へ向かった。騎馬護衛兵が行列を先導し、警視のピーコックと中井(弘蔵)がその先頭に立った。そのあとからハリー卿(パークス公使)と後藤(象二郎)、私とブラッドショー中尉、それから第九連隊第二大隊の分遣隊、そのあとからウィリス、J.J.エンスリー、駕籠に乗ったミットフォード(馬に乗れないので)、一行について上京した海軍士官五名、という順序だった。
(『一外交官の見た明治維新(下)』岩浪文庫 p.183)
上の画像は知恩院の新門だが、新門の奥に見えている門が国宝の三門である。新門から三門をつなぐ一本道は距離にして350メートルほどあり、今は知恩院道と名付けられているが、かつては「桜の馬場」と呼んでいたという。ミットフォードの記録によると、イギリス人の後にはさらに千五百人程の日本の兵士が護衛として従っていたとあるので、かなり長い行列であったのだが、これだけの人々が列を整えて出発準備をするには、騎馬隊も含まれているので長くて平坦な場所が必要となる。おそらくパークス一行は桜の馬場で隊列を整えてから出発したのではないだろうか。
サトウの記述からすると、パークス公使は騎馬護衛隊のすぐ後ろにいたことになる。パークスは騎馬護衛隊の数を十一名と書いており中井弘蔵を入れて十二名。騎馬隊が二列縦隊で進んだとして、パークスは先頭より五十メートル程度後ろにいたと思われる。
上が知恩院三門からパークスの行列が歩いた経路の地図になる。彼らは知恩院から新橋通りをまっすぐ西に進んでいる。
上の画像は辰巳大明神で右が新橋通り、左が白川筋である。このあたりは昔から居酒屋や芸者置屋などが多かったところで、今もその風情を残している場所である。
新橋通りをまっすぐ進むと縄手通りとぶつかり、そこから一行は右に曲がるのだが、サトウが右に曲がろうとした時に二人の男が現れた。サトウの記録では「縄手という往来」は「知恩院の正面に向かっている」と書いているが、新橋通りの誤りであろう。
知恩院の正面に向かっている縄手という往来をその端まで行き、ちょうど騎馬護衛隊の最後の者が角を右に曲がろうとした途端、往来の向こう側から二人の男がおどり出し、抜刀を振りかぶりながら人馬目がけて襲いかかった。そして、列にそって走りながら、狂気のように斬りまくった。
(同上書 p.183)
凶漢のうちの一人は中井と後藤が奮戦して首を斬り落としたが、もう一人の男はパークス公使の方向に向かって来たのである。
…ハリー卿と私はまだ角を曲がり切っていなかったのだが、凶漢が往来をこちらへ走って来たので、はじめて何事が起ったのかに気づき、心が全く顚倒してしまった。そして、凶漢がそばを走りすぎたとき、ようやく私の頭に浮かんだ唯一の防御策は、急に馬首をめぐらして、相手の一撃を避けることであった。あとで思うと、全く危機一髪というところであった。なぜなら、私の馬は鼻に軽い傷を受け、私の膝先にあたる馬の肩が1、2インチばかり切られていたからである。
平静を取り戻すと、すぐに行列の先頭へ向かって馬を駆けさせた。私は特命全権大使の燦然たる正装をしたハリー・パークス卿が、馬上の警視ピーコックをそばに従えながら、馬上悠々十字路のまん中にいるのを見た。
(同上書 p.183~184)
この男は第九連隊第二大隊の一人の頭部を斬りつけたが、ある兵士がこの男の小股をすくい、倒れたところを他の者が銃剣で突き刺した。そして庭に逃げ込んだところをミットフォードが拳銃を撃ち、あごに当たって倒れ、捕縛されたとある。このあたりは、ミットフォードの記述とは多少異なる。
上の画像は新橋通りから右折して縄手通りに入ったあたりだが、サトウの記録を素直に読めば、このあたりが襲撃地点に近いことになる。襲撃地点を示す案内板のようなものは存在しないので、記録から推定するしかない。
武士として死ぬことが許されなかった三枝蓊
捕らえられた犯人の名を三枝蓊(さいぐさ しげる)という。Wikipediaにこの人物のことが詳しく書かれているが、彼は大和国椎木村(現在の奈良県大和郡山市椎木町)の浄蓮寺に生まれ、藤本鉄石に絵画を、供林光平に国学・和歌を学びつつ尊皇攘夷を目指したとある。
文久三年(1863年)には天誅組の変に参加し、高取城攻略に失敗すると天誅組を離れて逃亡し、因幡・伯耆・但馬を転々としたのち、慶応四年(1868年)一月の鳥羽伏見の戦い時には、紀州・大和方面の諸藩を牽制して大坂の旧幕府軍の連携を絶つ目的で結成された高野山義軍に参加し、京都に帰還後は朝廷の御親兵となった。しかしながら、神戸事件のあと新政府が攘夷を棄てて外国との交際を行うことを決定したことに失望し、さらに堺事件が発生して新政府がフランス公使の抗議を受けて土佐藩士を切腹させたことを知って大いに憤激し、独自に攘夷の断行を決意したという。
徳川幕府が開国に舵を取ったことに反対して、多くの武士が「尊皇攘夷」を唱え幕府打倒に力を貸した。しかしながら討幕派が政権をとると、急に「開国和親」に方針を変更してしまった。このことに義憤を覚えた武士は三枝のほかにも多数いたと思われる。
この人物はなかなかの才人で、ネットで探すと三枝蓊の書いた書や絵を見つけることが出来る。『三茎莫送図』は、三枝が慶応三年 (1867年) に鳥取で描いた作品だというが、こういう作品が書ける人物であったのだ。
新政府は神戸事件、堺事件と同様に、武士身分である三枝を切腹させようとしたのだが、それをパークスは許さなかった。外国人殺害を企てた者に名誉の死を与えては、いつまでもこのような事件は無くならないとパークスは考え、出来るだけ恥辱的な死刑を課すべきことを強く要求したという。
そのため新政府は三枝の士族の籍を抹消し、重罪犯罪人として斬首することを決定し、パークスもそれを了解した。三枝は三月四日に斬首され、共犯者の朱雀操の首と共に三日間晒されて、この事件は一件落着となったのである。
霊山墓地と三枝蓊の墓など
三枝は尊王攘夷の志士としての経歴を持ちながら、明治十七年に宮内庁が『殉難録稿』に収録した約二千四百八十余人の中に名前がないし、靖国神社にも祀られなかった。
しかしながら霊山(りょうぜん)墓地に三枝の墓があるというので、立ち寄ることにした。
墓地に行く前に霊山歴史舘に向かう。ここには、坂本龍馬を斬った刀や、土方歳三、近藤勇の愛刀、新選組や徳川幕府に関する資料などが展示されているので、明治維新に興味のある方は訪れるとよいだろう。
霊山歴史舘から道路を隔てて京都霊山護国神社がある。この神社は、慶応四年(1868年)五月に明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たちの御霊を奉祀するために京都東山に社を創建せよとの御沙汰があり、それに感激した人々によって建立された招魂社で、靖国神社よりも歴史が古い。創建時の社号は霊山官祭招魂社という名称であったが、昭和十四年(1939年)に現在の神社名に改称されたそうだ。ところが太平洋戦争の敗戦後にGHQによって京都神社と改称を強制され、独立回復後は元に戻されたという歴史がある。GHQは、わが国の国民が武の英雄を讃えることを、好ましくないと考えていたのである。
京都霊山護国神社のご祭神には、天誅組の首将中山忠光卿はじめ、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、高杉晋作、木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、平野国臣、宮部鼎蔵ら明治維新に尽力した志士たちの名前がある。その後、明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの英霊が合祀されて今日に至っている。
神社の拝殿の右手から霊山墓地に行く入口があるので進むと、坂本龍馬・中岡慎太郎の墓が隣同士に並んでいた。龍馬の墓にしては小さいとの印象を誰でも持つと思うのだが、高杉晋作など他の墓石も同様な大きさのものが大半であった。
しかしながら三枝蓊の墓は、共犯者の朱雀操の墓とともに、他の墓よりもなぜか大きく立派な石で作られ、しかもこのふたつの墓だけが「神霊」と彫られている。明治政府は尊王攘夷を唱えた多くの志士達を早々に裏切って「開国和親」に舵を切ったのだが、三枝の武士の身分まで剥奪して斬首刑に処したことで空気が変わり、その後の外国人襲撃事件は止まったのであった。明治政府にとっては、三枝という男が神のような存在に感じたのかも知れない。
霊山墓地を下りる途中にパール博士の顕彰碑がある。その壁面に、私の大好きな言葉が彫られている。
時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきは、その時こそ、正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。
このブログで、いつの時代もどこの国でも勝者は勝者にとって都合の良い歴史を広めようとしてきたことを書いてきた。敗戦後わが国は、わが国だけが悪かったとする歴史を押し付けられ、その歴史観が世界に広められたのだが、近年欧米中心に旧ソ連・コミンテルンの暗号文書の研究が進み、第二次世界大戦はソ連・コミンテルンが世界各国に工作員を送り込んで、それぞれの国のマスコミや対外政策に大きな影響を与えてきたことが解明されている。
日米戦争を惹き起こしたのも、先進国同士を戦わせて共産主義革命に導こうとする旧ソ連・コミンテルンの工作によるものであることが実証的に明らかにされてきているのだが、そのような観点からの歴史が世界に広く知られるようになると、国内外の反日勢力が強く主張してきた歴史観はいずれ崩壊し、全面的に書き換えられることにならざるを得ないのである。今日の米中対立により、戦勝国にとって都合の良い歴史が二つに割れ、日本や英米等が歴史を共有する日が来る可能性があるのだが、そうなっては困る世界の左派勢力が今後とも「歴史修正主義は許さない」との抵抗活動を続けることであろう。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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