元のフビライは早々と日本再征を決断し使者を送り込んだ
『高麗史』によると、文永の役における元・高麗連合軍の人的損害は一万三千五百余人で、多くの戦艦や武具などを失ったとあるが、この戦いで軍隊だけでなく戦艦・兵糧などの準備を命じられた高麗は国力をかなり消耗した。
文永の役から3ヶ月後の1275年正月に、高麗の忠烈王が元朝皇帝フビライへ送った上表文が岩波文庫『高麗史日本伝(上)』p.108~109に出ているが、訳文が三池純正著『モンゴル襲来と神国日本』に出ている。
高麗では今度の日本遠征に対して大多数の国民は戦艦づくりに駆り出され、働き盛りの男は工夫として前線に赴き、残った老人・婦女子・子供たちが田畑を工作したものの・干ばつや水害などに見舞われ、木の実や草などを食べて飢えをしのいでいる状態である。国民は疲弊し、兵士としてせっかく帰って来た男たちも怪我をしているばかりか、暴風雨に遭って溺れて死んでしまった者も多い。…もし、再び日本を攻めるとしたら、もう高麗国は戦艦のことも食糧のことも支えることは出来ません。
(『モンゴル襲来と神国日本』p.109)
高麗はこのように上表して、元の再度の日本遠征を思いとどまるように訴えたのだが、皇帝フビライは元兵たちからの報告を聞くことにより、すぐに日本再征を決断したのである。
フビライは1275年2月に杜世忠らを日本に向かわせているが、彼らは日本の国情視察を命じられていたことは言うまでもない。使者一行は四月十日に日本の長門の室の津(山口県下関市豊浦町)に到着したのだが、長門の役人からの元の使者が来日した報告を受けた幕府は、周防・安芸・備後の御家人たちに長門の防衛を命じている。
使者たちはその後鎌倉に送られて九月七日に到着するや、幕府は彼らを龍ノ口の刑場に連れて行き、斬首の刑に処した上にさらし首にしている。
一方元のフビライは、日本に向かわせた杜世忠らがいつまで経っても戻ってこないので、第二の使いとして南宋の旧臣である周福らを日本に送っている。彼らは弘安二年(1279年)六月二十五日に日本に到着したのだが、GHQ焚書処分を受けた『国難と北条時宗』には、この時の鎌倉幕府の対応についてこう記されている。
笵文虎が、その部下周福等に持参させたという書状は、宋の旧臣から出した形になっている。
「一日も早く、元とよしみを通ずることが得策だ。万一来年の四月までに、その返事がないと、元主はまたも直ぐと兵を進めて来るだろう」
という極めて脅迫的なものであったので、これを受け取った時宗は、
「直ぐとその使いを斬捨ててしまえ」
と命じたので、これ等は何れも博多の露と消えてしまった。
(『国難と北条時宗』p.100~101)
このように、北条時宗は第二の使者も斬首に処したのである。
時宗が使者たちを斬首した理由について、前掲書にはこう記されている。
時宗の腹としては、敵国の要求を日本国として容れる事の出来ない以上は、敵は必ず兵力を以て迫って来るに相違ない。その場合国内の様子を敵国に知られるということはもっとも避けるべきことである。このまま使者を返しても回答を渡さぬということになれば、国内の事情が知られた上に結局は兵禍を蒙らなければならない。むしろその使いを斬って、外には日本国の決心のある所を示し、内には国民の精神を緊張させることの有利であることを察して、わざと龍の口の刑場に引き出して、公然と斬首の刑に処したのではあるまいか。
(『国難と北条時宗』p.104)
特に二度目の使者については、後述する博多湾の石塁など日本側の準備状況を確認していたことは間違いがない。そのような使者を生還させてしまっては、上陸場所を変えて来ることも考えられる。そうなればこれまで実施して来た対策が無駄になってしまう。敵軍に、日本側の対策を伝えさせないためには、使者を斬る以外の選択肢はなかったのだろう。
次の元寇に対する備え
北条時宗は、再び元が襲来することを想定して、国防を強化するために様々な対策を実施している。GHQ焚書処分を受けた『北条時宗』にはこう記されている。
幕府は、文永の役の十一月に下知をして、鎮西中国の要地を固めさせたが、あくる建治元年(1275年)の五月になると、備後・安芸・周防の守護地頭に命じて、長門の国の戦の費用をうけもたせ、そのあたりの要害をかわるがわる守らせた。
また、同年十一月、時宗は越後守實時の三男である前上総介實政に命じて、博多に下らしめ、筑紫探題として鎮西の兵を監督させた。これが九州探題のはじまりである。實政はわずか十七歳の若年をもってこの大任を負うたのである。…
翌二年の正月には、時宗の弟、相模七郎宗頼が長門探題を命ぜられた。かれもまた二十そこそこの若者である。…
こうして、東国・四国の兵は肥前・筑前・薩摩に、山陽山陰の兵は長門に、北陸・東山道の兵は越前敦賀にそれぞれ配置されて、必勝の国の守りについた。時宗は、そのほか幕府のむだな費用をはぶいて国防にあて、山陰地方など十三ヶ国のおさめる年貢米を免除して、戦時の食糧の用意にたくわえさせるなどのことをした。
とくに、その頃築かれた博多の防塁のあとは、いまもなお今津村(福岡県糸島郡)の北岸にところどころ残っていて、そぞろ元寇のむかしを忍ばせるものがある。
防塁は、だいたい二丈五尺(8.25m)の高さに石を積み上げた石築地で、九州に領地をもつ五十八家がその工事につとめ、探題北条實政が指揮して建治二年八月に出来上がった。これが西は今津村の長浜から、東は香椎潟にいたるまで、博多湾の岸にそってえんえん二十五里のあいだ続き、弘安の役の蒙古兵どもをてこずらせるのに、大いに役立ったのであった。
(伊藤佐喜雄 著『北条時宗』p.179~181昭和18年刊)
また、北条時宗は高麗へ侵攻して逆襲することも考えていたという。建治元年(1275年)十二月には異国征伐令が出され、少弐経資が中心となって鎮西諸国などに動員令を掛けて博多に軍勢や船舶を集結させたのだが、突然この計画は中止になっている。中止にした理由について詳細は不明だが、次回の元の日本侵攻が前回よりもはるかに大仕掛けであることを知り、外征計画よりも国防の準備が優先されることになったと考えられている。
文永の役では敵軍に易々と上陸されてしまったために味方は非常な苦戦に陥ってしまったのだが、こんどは敵兵を上陸させないために、建治二年(1276年)三月に時宗は、博多を中心に石塁を築くことを命令している。また河口などで石垣を造ることが出来ない所には、たくさんの乱杭を立てて敵の船が近寄ることのできないようにしたという。
『蒙古襲来絵詞』後巻にこの元寇防塁が描かれているが、この防塁が築かれたことから、弘安の役で元・高麗軍は博多湾岸からの上陸を断念するしかなかったのである。その後もこの防塁はながらく維持・修理が行われて来たのだが、江戸時代の福岡城築城の際に石垣の石として防塁の大半が失われてしまったと考えられている。一部は今も現存していて国史跡に指定されている。
元の第二次日本侵攻準備
元の第二次日本侵攻計画は1275年より開始されたのだが、そのころ元は南宋の攻略を断行していたので、フビライは南宋との戦いを優先した。南宋は1276年に元に降伏し、その後も抵抗運動が続いたのだが1279年には落ち着き、元はその頃から日本への出兵準備を本格化したという。
元の第二次日本侵攻計画は、前回の文永の役よりもはるかに大規模なものであった。前掲書には、元の出兵準備についてこの様に記されている。
まず、征東行省という日本征伐の総司令部のようなものまでつくり、…忽敦(クドゥン)を又もや征東元帥に任じて、北軍(東路軍)を統率させ、右丞相の洪茶丘が副将。この兵力はおよそ四万――主として蒙古・漢人である。
江南軍は、阿刺罕(アラカン)というものが大将で、左丞相の笵文虎が副将。この兵力はおよそ十万――主として南宋の兵士で、西域やらトルコやらいろいろまじっている。かくて戦闘兵力の合計は十四萬人に達した。
ほかに大工や船頭や輸卒など北軍一万七千、江南軍六万というから、人員総計は実に二十一万を超え、これに高麗の兵士・梢工(しょうこう:船乗り)・水主(かこ:舵取り)を加えると三十万にならんとする大軍であった。艦船は北軍九百艘、江南軍三千五百艘、また高麗軍は九百艘で五千三百艘という大艦隊を編成している。
なお糧食としては、全軍あわせて米七十万石(漢石)を積み込む等、文永の役とは比べものにならぬ、ばかばかしいほど大仕掛けなものであった。
(『北条時宗』p.201~202昭和18年刊)
しかしながら、今回の遠征軍は数の上では大軍であるが、中身は、旧南宋、高麗、モンゴル三国の混成軍である。文永の役においても、元軍と高麗軍との間に深い対立が存在したのだが、旧南宋軍も加わって、彼らが心を一つにして日本軍と戦うことが出来るのであろうか。フビライはその点に不安があったことを隠さなかった。
フビライは1281年の正月に、日本侵攻に先立って首都・大都に日本侵攻軍の司令官である阿刺罕(アラカン)、范文虎、忻都、洪茶丘ら諸将を召集し、以下のように演説したことが「元史」に記されている。
そもそもの始め、あちらの国の使者が来たのをきっかけとして、こちらの朝廷からも先方に使者を派遣したのだ。ところがあちらでは我が国の使者を引き留めて帰らせなかった。さればこそ、そなたたちにこのたびの挙をなさしめることとなったのである。朕は漢族が、
『よその国を奪うのは、人民と土地を手に入れたいからだ』
と言ったと聞いておる。
もし、かの国の人民を皆殺しにしてしまったならば、ただ土地だけ奪い取っても、なんの用に立つだろう。
加えて、まことに気がかりなことがもうひとつある。それは、そなたらが仲良く協力しあわないのではないか、ということだ。かりにもし日本国の者がそなたらと協議をしにくるようなことがあったならば、そなたらは心をあわせ、意見にくいちがいがないようにして、ことばがひとつの口から出るように応対せよ。
(講談社学術文庫『倭国伝』p.332~333)
フビライは、日本を侵攻する目的は百姓と土地とを奪い取る為であり、むやみに百姓を殺してしまってはいけないと言った。そして、今回は絶対に勝利して日本を占領し、そこに移民するために、鋤や鍬まで持ち込む準備をしていたのである。
蒙古調伏の祈り
また幕府は、もし敵軍が上陸した場合に皇室を守る対策についても考えていた。前出の『北条時宗』にはこう記されている。
万一、夷狄らがみやこに迫るような事態に及んだら、後宇多天皇、後深草・亀山二上皇をはじめ奉り皇族の車駕を鎌倉へお迎えすべく、幕府はひそかにそのことをお願い申し上げてさえいたのであった。…
されば皇族・諸臣も憂色ふかく、それぞれ昼夜をわかたず灯を点じて、祈祷につとめることがあつた。さらに時宗が元使を斬ったのを難じた公卿たちも、いまはもはや同心一体、誓って玉体をまもり奉らんことを期したのである。
(『北条時宗』p.208~209)
皇族や貴族たちが蒙古襲来から国を守るために実行したことは、ひたすら祈る事であったことは言うまでもない。
弘安四年の頃の朝廷や京都の雰囲気を『増鏡』が記録している。『国難と北条時宗』に該当部分が引用されているので紹介したい。
夏のころ蒙古おこるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色々さまざまにおそろしう聞ゆれば、本いん(後深草)新いん(亀山)はあづまへ御下あるべし。うち(後宇多)とう宮(伏見)は、京にわたらせ給て、あづまの武士ども、上りて候べしなど沙汰あり、山々寺々御祈り数しらず。伊勢の勅使に経任の大納言参る。新院(亀山)は八幡へ御幸なりて、西大寺の長老を召されて、真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、我御代にしも、かかるみだれいできて、まこと此日本のそこなわるべくは、御いのちをめすべきよし、御てつからかかせ給へるを、大宮院(姞子)いと有まじき御ことなりと諫めきこえさせ給ふぞ、ことはりとあはれなる
『国難と北条時宗』 p.115
文中の「八幡」は石清水八幡宮、「大神宮」は伊勢神宮のことであるが、亀山上皇は伊勢大神宮に、御身を以て国難に代わらせらるべしと祈願されようとされたのである。この祈願は大宮院の御諫言により取りやめとなったようだが、国を守るための祈りは真剣そのもので、皇室だけでなく多くの寺社で、何度も何度も祈願が行われていたのである。
では二度目の元寇である弘安の役はどのような戦いとなったのか。この点については次回に記すこととしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
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