皇女和宮を将軍徳川家茂に降嫁させたことが幕府の権威失墜を招いた

公武合体と尊皇攘夷

孝明天皇が一度却下した和宮降嫁

 桜田門外の変のあと、三月十八日(1860/4/8)には「安政」という年号が改まって「万延」元年となった。

老中・安藤信正(Wikipediaより)

 井伊直弼の次に幕府の実権を握ったのは老中・安藤信正だが、この人物は直弼の剛直な武断政治を改めようとした。井伊大老が将軍継嗣問題にからんで一橋派の松平慶永(越前藩主)・徳川慶恕(尾張藩主)らに課していた謹慎処分などを解除し京都で志士の逮捕に辣腕を振るった京都町奉行・小笠原長常を大目付に移すなどしている。

徳川家茂像 (徳川記念財団蔵)

 安藤信正が任期中に最も力を注いだのは、公武合体の成果を国内に示すために推進された和宮降嫁(こうか)策であろう。皇女和宮を14代将軍・徳川家茂へ降嫁させる話は直弼の時代に何度か打診されながらも話が進まなかったのだが、信正は四月十二日に老中連署で九条関白に正式に奏請している。

和宮 (Wikipediaより)

 和宮は百二十代仁孝天皇の第八皇女で、百二十一代孝明天皇の異母妹にあたるのだが、和宮が六歳の時に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約を済ませていた。それにもかかわらず、幕府が和宮の将軍家降嫁を正式に奏請したのは、この話を進めることで朝幕の関係が改善することを強く欲していたということに他ならない。幕府はそのために家茂と伏見宮貞教親王の御妹倫宮との間に進められていた縁談を中止しているのであるが、それほど幕府は、この縁談に賭けていたのである。

孝明天皇

 かくて五月一日に九条関白は天皇に和宮御降嫁の事を孝明天皇に奏上した。維新史料編纂会編『概観維新史』には、孝明天皇の聖断について次のように解説されている。

 天皇は尚忠(九条関白)の奏上を聞召されて議奏・伝奏に諮詢し給い、五月四日聖断を尚忠に下して、和宮は已に有栖川宮に内約あれば今さら違約に及ぶも如何であろうか。かつ先帝の皇女にて御義理も在わし。未だ宮も幼年にて、当時江戸は蛮夷が来集すると聞き、心中恐怖の状もあれば、この縁談は見合わすべし

 但し一昨年来幕府にては外国一件の行違いから、何か朝廷に異心があるよう考え、しばしば公武合体を申し立てているから、その思惑も如何であろうが、朕においては関東に対して、何等隔心はない事である。

 しかし外国一件は全然不同意である。この旨を穏便に幕府に諭すようにと仰出された。その後忠義(酒井忠義:京都所司代)は、しばしば前請を重ね、かつ幕府も決して外国貿易を好むものではない旨を述べて懇願するところがあったが、天皇は遂に許し給わなかった。

維新史料編纂会 編『概観維新史』昭和17年刊 p.326~327
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幕府はいかにして孝明天皇の勅許を得たか

 このように和宮との縁談は天皇から直々に却下されてしまったのだが、それでも五月十一日に酒井忠義は九条関白に再考を願い出、五月二十六日には幕府は再び和宮降嫁を奏請している。その間に和宮の生母・観行院と伯父の橋本実麗、さらに勝光院(観行院の叔母で大奥上臈年寄)を通じての説得工作があったとされている。

 一方、朝廷の中には幕府が朝廷の権威にすがろうとしていることを好機と捉えた者がいた。代表的な人物が岩倉具視である。

岩倉具視

 井野辺茂雄 著『幕末史概説』には、岩倉具視の意見について次のように解説している。

 今や幕府の勢力漸く衰え、朝威を戴いて天下に臨まんとするのは、まことに好機会であるから、宜しくその請を許して聖思を施すとともに、国家の大事件は必ず奏聞の上執行すべき旨の御沙汰を賜い、関東への委任の政権を、隠然朝廷へ回収するのが今日の急務であるとの奏上に及んでいる。具視は主上の寵妃右衛門典侍堀川紀子の兄、(千種)有文は同少将内侍今城重子の兄たる関係上、御親任また厚かりしかば、二人の奏聞は叡慮を動かし奉るに力在りしものの如く、蛮夷を拒絶するか、然らずばせめて嘉永初年の有様に復するを得なば、再考してみようと仰せられたので、幕府即ち、今日は未だ干戈を動かすべき時期にはあらざるも、今後七八ヶ年乃至十ヶ年のうちには武備を充実し、条約を引き戻すかまたは征討するか、その一を選びて叡慮を安んじ奉るべしと奉答したのである。

(井野辺茂雄 著『幕末史概説』中文館書店 昭和5年刊 p.261)
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 孝明天皇は、幕府側から十年以内に鎖国体制に復帰するとの回答を得たことから和宮を説得しようとしたが、八月七日に和宮はこの縁組を固く辞退した。しかし孝明天皇は、再びは和宮に降嫁の承諾を強く迫り、天皇の強い決意を感じた和宮は、ついに明春の下向を承諾するに至る。

 そして万延元年(1860年)十月十八日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許したのである。

和宮降嫁が延期された経緯

 幕府は宿願であった和宮降嫁を実現するために攘夷の期限まで公約してしまったのだが、このことは簡単に実行できるはずのないことであった。和宮降嫁の勅許が出て一ヵ月も経たないうちに、孝明天皇が激怒する事案が発生している。『維新史. 第2巻』にはこう記されている。

 その後に至り、幕府より海外諸国との通商の儀を重ねて奏請し来るに及んで、またまた波乱を惹起することとなった。すなわち十一月十日幕府はプロイセン、スイス、ベルギー三国と新たに条約を締結せんとして、所司代酒井忠義をもってこれを奏請せしめ、二十八日忠義は幕府よりの書に副書を添えて関白に差し出し、条約調印の止むを得ざる理由を強弁して、今や和宮の御降嫁により、公武一和の基が定まろうとするに、プロイセン等の要請を斥けて戦端を開くに至れば、清国の覆轍を踏むは明かであるから、暫くその要請を許し、武備の充実を待って一時に通使用を拒絶することにしたいと言うた。

 天皇におかせられては、十二月一日尚忠(九条関白)の奏上を聞召されたが、五ヶ国条約も七八ヶ年乃至十ヶ年には拒絶すべしと誓約したので、和宮の降嫁のことに勅許を与えたのであるが、今に及んで意外の奏請に及ぶとは、朕を欺くも甚だしいとてすこぶる逆鱗あらせられ、この上は和宮の降嫁を破断にせよと仰せられた。関白以下、議奏・武家伝奏はいずれも恐惶(きょうこう:恐れ畏まる)色を失った…。

(『維新史. 第2巻』維新史料編纂事務局 昭和15年刊 p.784~785)
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 朝議は和宮関東下向を三年延期することを決し酒井忠義に伝えようとしたのだが、忠義は病と称して面会を避けて、九条関白に平穏に納めて欲しいと泣きついている。酒井忠義はこの難局をいかに乗り切ったのであろうか。同書にはこう記されている。

 忠義は書を…送って、プロイセン、スイス、ベルギー三国条約締結不可のことを武家伝奏より公然幕府に交渉ありては、内聞を表沙汰にせしめる怖れがあれば、この事を内交渉に願いたいと懇請するに至った。

 天皇はやむなくご譲歩あらせられて、一切を関白に委ね給い、九日…去る二日の御沙汰書並びに往復書簡を回収して、条約締結に関する朝幕間の紛議はわずかに事なきをえた。

 而して文久元年正月、忠義は尚忠を経て、今後七八ヶ年乃至十ヶ年を期して攘夷を決行するの大本には少しも違反はないが、その間時勢に応じ、計策により、多少の差異あるは免れない。但し七八ヶ年乃至十ヶ年の後に至っても猶拒絶すること能わざるにおいては、幕府は甘んじて厳責を蒙るべしと奏して一時を糊塗した

(同上書 p.787)
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 ところが、通商条約締結に基づき列国の公使が駐在し外国貿易が開始されようになると国内の不安が高まり、それに伴い尊攘志士の活動も活発化して、特に江戸付近の物情は不穏であったという。文久元年(1861年)三月の和宮の下向が近づくと、世上では「和宮の御降嫁は、幕府が賄賂を以て、関白以下廷臣を誘って要請したもの」との噂がたち、尊攘派の志士達が激昂し東下の途上で和宮を輿中に奪って京都に還し申さんと計画する者ありとの風説が流布されるに至ったという。

 幕府は治安の回復に動き、江戸付近の浪士の取締が一段落して、七月以降朝幕の交渉が行われ、和宮の輿が京都を出発する日程が決定した。

和宮降嫁

 翌文久元年(1861年)十月二十日に和宮一行は桂御所を出立し中山道を通って江戸に向かい、十一月十五日に江戸清水邸に入ったという。宮の御輿を警護に関わった藩が十二藩、沿道の警護にあたった藩が前後二十九藩に及び、行列は警固や人足を含め総勢三万人に上ったと伝えられている。

「公武合体」を強引に推進した幕府の失敗

 菊池寛 著『維新戦争物語』に、和宮の歌が二首紹介されている。

 京都を発せられるにのぞみ、宮は

  おしからず君と氏との為ならば 

     身は武蔵野の露と消ゆとも

 と詠ませられました。これは、岩倉具視あたりの説得の文句が、そのまま織り込まれている感じであります。

 しかし、それと同時に、元の御許嫁者(いいなずけ)たる、有栖川熾仁親王に下しおかれました御歌、

  この度はえこそ帰らじ行く水の

     きよき心はくみて知りてよ

 を拝誦して、御心中を察し奉れば、何人も、勃然として義憤の熱血の、胸にこみあげてくるのを、感じないわけにはゆきますまい。これに対して、無関心でおられたら、それは日本人ではないのです。それは、策略や利害を超越した、純粋の感情であります。

菊池寛 著『維新戦争物語』新日本社 昭和12年刊 p.52~53

 この「純粋の感情」が多くの人々の心をつき動かすことになるのである。

 菊池寛は、この時代の空気を次のように書いている。

 御降嫁について、幕府のとったやり方は、いかにも低卑陋劣、陰険悪辣で、公明正大を欠いたものでありました。

 公家一同へ、一萬五千両の袖の下を使ったり、朝廷へとてつもない献品をしたり、裏口から閨縁をたどったり、条約破棄といえば条約破棄、夷狄掃攘(いてきそうじょう)と言えば夷狄掃攘、できないことはわかりきっている癖に、口から出まかせの安請け合いをし、最後には、当の和宮を恫喝し奉って、やみこみ関東に強奪拉致もうしあげた形であります。

 心あるものは、憤慨するのが当然で、果たして間もなく、

『幕府は、御降嫁の美名にかくれて、皇妹を人質にとり奉り、勅命を封じて、外夷に国を売らんとするものである』

 という議論が、猛然と起こってきました

 …

 時も時、信正は、幕府の御用金三万両を投げ出して、高輪の御殿山に、各国公使館を大々的に造営し始めたのであります。高輪といえば、諸国浪人や各藩藩士のよく集まる品川と目と鼻の間ですから、目ざわりになるのはあたりまえで、

安藤はけしからぬ。朝廷に御約束もうしあげて、早晩撃ち払うべき外夷に、宏壮な公使館を建ててやるとは、何事であるか。しかも、江戸の咽喉(のど)元ともいうべき高輪の、要害の地形をそなえた御殿山に、である。思うに安藤は、条約を破棄して、外夷を撃攘するかわりに、勅諚を無視して、毛唐人に国を売るつもりであろう。売国奴!生かしておけぬ!』

 と、痛憤するものも出てきます。

 …外桜田の毛利本邸内の有備館をあずかっている桂小五郎、例の木戸孝允なども、勤皇討幕の大望を深く蔵しながら、

『水戸浪士が、井伊大老を斃したような芝居の、もう二幕や三幕は、已むを得んだろう。幕府改革にしろ、また討幕にしろ、血を見ずに目的を達することは、所詮むずかしかろう。

穏便にすすめて十年かかるものを、勇ましい芝居を打って、ぐるくるっと廻り舞台をまわせば二年か三年で片が付くというなら、国家多事の際、それもまたよかろうではないか。』

 と嘯いて、絶えず浪士を煽動します。

(同上書 p.54~56)
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 このように安藤信正らは朝廷の威を借りて幕府の権威を高めようとしたのだが、目的のために朝廷に対する迎合を繰り返したために、かえって幕府の権威が低下し朝廷権力が拡大する結果となった。また、交渉の過程で実行不可能な攘夷を約したことにより、以後列強との折衝にも窮することとなったほか、朝廷や和宮に対する誠意を基本的に欠いていたことから世上の強い反感を招き、討幕思想の発達を促す結果ともなった。

 その後、老中安藤信正は井伊大老と同様、水戸浪士に命を狙われることになるのだが、その点については次回の「歴史ノート」に記すことにしたい。



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 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
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