「ええじゃないか」騒動が起こるまで
学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述がいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明に納得がいかなかった記憶がある。
Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
日本の江戸時代末期の慶応三年(1867年)八月から十二月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼し、集団で町を練り歩きながら熱狂的に踊った。
簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860年)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺(桜田門外の変)された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚(坂下門外の変)してしまう。
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭四ヶ国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866年)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという流れだ。
「ええじゃないか」騒動で空から降りて来たもの

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867年)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に三十ヶ国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われている。調べると、仏像が降ったという記録が静岡県の三島宿や愛知県の吉田宿に残されているようだが、生首のような極端なものについては第一次資料では確認できないが、柳田国男は『故郷七十年』で、裸の娘が降ったという話を「馬鹿げた捏造」と書いており、そのような噂が飛んでいたことは確かなようだ。
誰が何のために騒動を仕掛けたか
このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どんな勢力が、何のためにやったのだろうか。
『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。
例えば「今年は世直りええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい」(阿波)といった世直しの訴えのほか、「御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか」(淡路)という性の解放、「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか」(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。
この『ええじゃないか』が広まって言った背景については諸説があり、教科書などでは、世直しを訴える民衆運動であったなどと解説されているが、誰かが仕掛けなければ各地で同様の事が起こるはずがない。討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦・撹乱工作であったという説や、幕府側または親幕府派が世直し一揆や打ちこわしに発展しそうな民衆の不満を発散させる『ガス抜き』対策のために仕掛けたという説もある。
土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、当時のことを書いている場面がある。

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。当時は「お札踊り」という名で呼ばれていたようだ。
この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。
『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候。さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候。大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候。切支丹にて御座あるべく存ぜられ候。過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候。何がふり候やら知れ申さず候。ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』
これは、お札踊の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。
田中光顕 著『維新風雲回顧録』大日本雄弁会講談社 昭和3年 p.364~365
さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派の田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
「ええじゃないかええじゃないか」とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
「また、やってるな」
「大変な人出じゃないか」
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。
同上書 p.385
鷲尾卿というのは公家の鷲尾隆聚で、『国史大辞典』で「鷲尾隊」の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。
『国史大辞典』「鷲尾隊」高木俊輔
幕末期において討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然のことである。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにしても場所を移動するにしても、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、志士たちの行動を隠蔽する煙幕のような役割を果たして、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは確実だ。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。
「ええじゃないか」騒動を討幕派が仕掛けたと睨んだ幕臣
『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたと断言することにはできないが、討幕派の仕業ではないかと睨んでいた人物が少なからずいたようだ。

幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎は『懐往事談』に、公用で慶応三年十一月二十九日にの暮れ早籠で兵庫から徹夜で大阪に向かおうとすると西宮で「ええじゃないか」と躍る廻る民衆の為に先に進むことが出来ず、西宮で一泊して翌日朝に大阪に向かうことにしたというのだが、この騒動は幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。。福地は次のように記している。
現に我らが大阪に着したる時もこの御札降りエジャナイカ踊りの大流行の最中にてありき。或いは言う、この御札降りは京都方の人々が人心を騒擾しむせる為に施したる計略なりと。それ果たして然るや否やを知されども、騒擾を極めたるには辟易したりき。
福地桜痴 著『懐往事談』民友社 明治38年刊 p.162
福地の言う『京都の人々』というのは討幕派であり、幕臣にはこの騒動は討幕派が仕掛けたものだと考えていた者がかなりいたということだろう。確かな証拠があるわけではないが、少なくともこの騒動を積極的に利用して隠密活動を続けたのは討幕派であった。
この騒動が激しかった時期に何があったか
「ええじゃないか」騒動が最初に記録されているのは慶応三年七月十四日の三河国渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市牟呂大西町)の牟呂八幡宮周辺で、伊勢神宮外宮のお札が降ったというものだが、その後東海道沿いで本格化し、八月頃に名古屋周辺、九月から十月に京都から大阪に伝播し、最も激しかった時期は十月から十二月であった。この時期に何があったというと、十月十四日に大政奉還が行われ、同日に岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得たのち、国元から大軍を呼び寄せようとして密使が京都を出立したのが十七日。そして十二月九日に王政復古の大号令が出されている。
「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての正式な手続きを経ておらず、文書の形式も異なる文書であり、偽勅であった可能性が高いからだ。

岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』には、極めて興味深いことが書かれている。原文は漢字カタカナ交じり文だが読みやすく書き換えている。
具視が中山忠能、正親町三條實愛、中御門経之、西郷吉之助、大久保一蔵、中岡慎太郎、坂本龍馬らと王政復古の大挙を圖議する時に於いて相互に往来すること頻繁にして、かつ諸有志の士が具視本邸の門に出入りする者また頗る多し。
而して幕府及び会・桑二藩の偵吏が絶えて之を知らざりしは、努めてその踪跡を韜晦したるのみにあらず、そもそも他に天助ありしに由る。
恰もこの時に当たり京師に一大怪事あり。空中より神符翩々と飛び降り、処々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇を設けてこれを祭り、酒肴を壇前に陳らぬ。知ると知らざるとを問わず、その人家に至る者の酔飽に任す。これを祝して吉祥となす。
都下の士女は老少の別なく綺羅を衣て、男は女装し女は男装す。群を成し隊を作す。悉く俚歌を唱い、太鼓を撾地、以て節奏をなす。その歌辞は「よいじゃないか。えいじゃないか。くさいものには紙をはれ。やぶれたら。またはれ。えいじゃないか。えいじゃーないか」という。衆皆狂奔酔舞し、一群去れば一隊また来たる。街道織るが如し。夜に入れば各その頭上に燈を戴き、綵花を飾る。八月下旬に始まり、十二月王政復古発令の時に至りて止む。蓋し具視が挙動もこの喧閙のために蔽われて自然と人目に触るることを免れたるなり。
岩倉公実記中巻 (明治百年史叢書)p.102~103
岩倉具視は、和宮降嫁に賛成しさらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされていて、朝廷内でも親幕派と疑われて文久二年(1862年)に蟄居処分を受け、洛中の霊源寺や西芳寺に住んだのち十月に洛北の岩倉村に移り住んで蟄居生活を送っていた。彼が佐幕派と見做されていたことから、当初は幕府や京都守護職・所司代の偵吏の警戒は厳しくなかったようだが、討幕派の志士たちの岩倉邸への出入りが激しくなると、当然警戒は厳しくなっていく。そして王政復古を成し遂げる最も重要な時期に「ええじゃないか」騒動が起きたことについて、岩倉具視が「天助アリシニ由ル」と述べている。群衆が狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜も踊りつづけたお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることがなかったのである。そして不思議なことに、この騒動が十二月九日の「王政復古発令の時に至りて止む」と書いていることは極めて重要である。
討幕軍が無事に京都に移動できた事情
大政奉還の直後に「討幕の密勅」が岩倉具視から薩摩藩、長州藩に届けられ、その後のクーデターのために、薩摩・長州・芸州(広島藩)三藩が京都に向かって討幕軍を派遣したのが十一月後半から十二月初旬。その時期に、兵の動きを隠すかのように「ええじゃないか」騒動が盛り上がっているのである。
『広島県史 近代1』には、「ええじゃないか」騒動が、十一月二十九日に尾道で起こったのが最初で、以降広島県の山陽道沿いの各地で起こったと記されているが、注目すべきは討幕軍の動きである。
そして十二月になると広島藩兵と長州藩兵とが尾道に駐屯し、市内の要所に侍・足軽を配して固めたため、「旁々おとり停止相成候得とも裏小路ハおどり候事、御札も毎日御ふり之事」、「凡町中五六百軒もふり候事」といった事態が続いている。…中略…
広島・竹原・忠海・三原・尾道・井原・笠岡・倉敷と山陽道・瀬戸内の町々で、多少前後の別はありながら慶応三年十一月のなかごろより翌年正月ごろまで続いたのである。…中略…
最後に「ええじゃないか」の発生地が、この期の討幕軍の行動地域とほぼ重なっていることはすでに早くから指摘されている。そして尾道の「ええじゃないか」が「エジャナヒカ、エジャナヒカ、エジャナヒカ、長州サンノ御登リ、エジャナヒカ、長ト薩ト、エジャナヒカ」と叫んで踊り狂った如く(堀真五郎『伝家録』)、民衆の意向が討幕軍に好意的な状況にあり、そのような状況下に軍を進めえたことは事実である。
広島県編『広島県史 近代 1』p.21~23
山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、『尾道市史 新修 第2巻』に「尾道一宮社文書」が紹介されており、そこに十一月二十九日に御札が降りて人々が「ええじゃないか」と叫んで躍ったことが記され、十二月一日には長州軍が尾道に入り、一方で賑やかな踊りは四日まで続き、その後も御札などが降ったことや、六日に長州軍が福山に向かったことが記されている。
「ええじゃないか」騒ぎには、討幕軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの工作であったのか、庶民が討幕に向かう薩長軍による世直しを期待して踊り狂ったのかのどちらかなのだろうが、結果として討幕軍は幕府の情報網をかいくぐって西宮附近に上陸後、大坂を迂回して入京することに成功し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍と戦うことになるのである。
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