慶喜は家臣らの憤激を必死で抑えた
慶応三年十二月九日(1868/01/03)に王政復古の大号令が渙発され、そのあと開催された小御所会議で慶喜の辞官納地(慶喜が官職を辞し、幕府領を朝廷に返上すること)が決定された当時、慶喜は二条城にいた。翌日の十日、情報を聞いた旗本や会津・桑名・大垣の諸藩の武士たちが二条城に集まっていた。中でも会津・桑名二藩と遊撃隊の兵士らは烈火のごとくに憤り、頻りに「討薩」を主張したという。
渋沢栄一著『徳川慶喜公伝. 四』に彼らの主張が記されている。
将軍家すでに政権を奉還あり。朝廷に手も今後の大事を公議世論によりて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、大名会同の上に決し給うべきを、俄かに今日のことに及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも阻害して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これまったく薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。内捨て置かば徳川家は夷滅せられ、天下は攪乱せん。かれら既に兵力を以て禁闕を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず。
(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝. 四』竜門社 大正六年刊 p.188~189)
慶喜は固くこれを制し、武力に訴えることを固く禁じたのだが、小御所会議に出席した徳川慶勝(尾張藩主)および松平慶永(越前藩主)が会議で決定したことを記した朝旨を伝達しに来た際は、旗本や会津藩桑名藩など諸士たちが口々に「薩摩と通じて徳川家を陥れたのか」と罵声を浴びせ、城内は殺気立っていたと記されている。
その状況は翌日にはさらにひどくなっていった。
十一日に至りては、二条城内外の紛擾益々甚だしく、討薩の声喧(かまびす)しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷に及ぶもあり。戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守正質(後に大河内氏を称す)、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守らは過激なる挙兵論者にて、板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵・および軍艦の西上を促したる程なりき。この日(慶喜)公は親しく諸隊長を引見して曰く、「我ら割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもたなすべし。我らかくてあらん間は決して妄動すべからず」と厳に達せらる。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。
(同上書 p.193)
このように慶喜は何度も兵士の興奮を抑えようとしたのだが、一発触発の状態の京都に留まっていて、もし不測の事態が起これば自身が「朝敵」とされ、慶喜が復権する可能性を失うことになりかねない。慶喜は越前藩主松平慶永の勧告を容れ、十二日に二条城を離れて大坂城に退去して衆心の沈静するのを待つこととした。
旗本、会津、桑名藩らの武装状態
慶喜らが大坂城に向かうところを、十二月十三日(1868/01/07)にイギリスの外交官A.B.ミットフォードが目撃しているが、著書『英国外交官の見た幕末維新』には慶喜とともに大坂城に向かった兵士たちについてこのように描かれている。
これ以上、途方もなく不思議な光景は考えられないであろう。ヨーロッパ式ライフル銃を持った歩兵も何人かいたが、それと同時に日本古来の鎧兜に身を固めて鎗や弓矢や奇妙な形の湾曲刀を持ち、大小の刀を差して、中世の源平の戦いの絵巻物から抜け出したような武士たちがいた。彼らの陣羽織は伝令官の紋章入りの官服とは違って…色とりどりであった。見るも恐ろしい仮面は漆塗りの鉄で、ものすごい頬髯と口髭と出縁どられ、頭上の甲につけた鬘(かつら)は長い馬の毛が輿まで垂れていた。それはどんな敵でも脅かすに十分だった。…間もなく、騎馬の一行が現れた。周りの日本人は皆平伏し、畏敬をこめて頭を下げた。一行の真ん中には味方の会津候と桑名候を従えた慶喜公がいた。彼は疲れて落胆した様子で、黒い頭巾を被り、右を見るでも左を見るでもなく、何も眼に入らないように見えた。従者の中の何人かが我々に気が付いて挨拶に答えるしぐさをした。それは私の今まで見た中でも一番痛ましく驚くべき光景であった。
(A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』講談社学術文庫 p.101~102)
以前このブログで書いたが、1849年にフランスで椎の実の形状の弾丸が開発され、その後、銃身にらせん状の溝(ライフリング)が施されるようになって銃の飛距離と命中精度、殺傷力が飛躍的に向上していた。
薩摩藩・長州藩はトマス・グラバーを通じて最新式の銃を大量に購入していて、第二次長州征伐では少数の長州軍が幕府軍に勝利したため、慶喜は軍制改革の必要性を認識し、フランス軍事顧問団の直接指導を受け、全員に銃を携行させた陸軍の精鋭部隊(伝習隊)を持っていたのだが、そのうち要請を受けて大坂城に向かったメンバーは「砲兵二座、騎兵三小隊、歩兵二大隊」(『徳川慶喜公伝. 四』p.242)とあるので、四十八大隊あった伝習隊のごく一部が向かったに過ぎなかった。
慶喜とともに大坂城に移った兵士の携行していた武器や武具の多くが旧式のものであったことはミットフォードの記録で明らかであるが、彼らのほとんどは薩摩や長州が保有する最新鋭の銃の怖さを理解していなかったのである。
慶喜と各国公司との会見
翌十二月十四日(1868/01/08)に慶喜は大坂城でイギリスのパークス公使とフランスのロッシュ公使と会見している。アーネスト・サトウの記録にはこう記されている。
慶喜は…列藩会議を開いて各藩主に自由に意見を述べさせることをせずに、前もって計画をたくらんで自分を出し抜いたと思っているらしく、つまり策略によって一杯食わされたことに立腹していたのだ。会議を開くという提案が、単に慶喜の目をくらまそうとした策謀に過ぎなかったことは、かなり明瞭だった。…
慶喜は大坂へ落ちてきた理由として、皇居付近で騒動が起きてはとの懸念と、配下の者たちの激昂を和らげようとした意図とをあげた。…京都に樹立された政府の形態に関する質問に対しては、天皇は単に名目上の統治者に過ぎず、京都は仲間喧嘩に終始して政治など顧みぬ連中で占められているのだと答えた。しかし慶喜は、自分に何らかの権能があると主張する様子もなく、諸大名が自分の味方に集まって来るかどうかの見当もついてはいなかった。
(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫 p.107~108)
サトウはこの日の慶喜について、「こんなにも変わり果てたかと思うと、同情の念を禁じ得なかった。眼前の慶喜は、やせ、疲れて、音声も哀調をおびていた」と書かれているように、慶喜は疲れ切っており、意気消沈していたのである。
諸外国は相争う両派の間に立って中立を守ろうと努めていたが、彼らにとって重要なことは外国貿易に関わる事務の執行はどこが責任を持つのかという点であり、その点について質問状を提出していた。
慶喜は十六日(1868/01/10)に大坂城で行われた各国公使との会見で、「外国人は日本国内の問題に心をわずらわす必要はない。政府の形態が定まるまで外国事務の執行は自分の任務である」(同上書 p.110)と答えて各国公使たちを安堵させたが、本来ならば京都政府から外国事務の引継ぎについて各国公使に宛てて正式な通知がなされるべきであったろう。
大坂に移転したことで盛り返した慶喜
このように慶喜は大坂に本拠を移したのだが、当時の大坂は日本経済の中心地であり重要な軍事拠点でもあり、その気になれば京都を封鎖することも不可能ではなかったのだ。慶喜がどこまで考えていたかはわからないが、大坂に本拠を移したことにより対幕強硬派が軟化する動きが出てきたのである。
家近良樹氏の『江戸幕府崩壊』にはこう記されている。
慶喜一行が下阪した当日(十三日)に、岩倉具視から慶喜下阪後の対策を至急確定することを求められた薩摩側は、強硬路線を放棄し、しばらく慶永・慶勝両者の周旋に任せ、慶喜に真の反省がみられたならば、過去はとがめず、慶喜の議定職への就任を認めることを岩倉に言上におよぶ。
これを受けて岩倉は、翌十四日、慶喜の官位問題について妥協的な姿勢を見せた。それは、新政府側が官位の降下を一方的に命じるのではなく、慶喜自身が内大臣の官位を辞退し、前内府(前内大臣)と称すことを許すというものであった。
(家近良樹『江戸幕府崩壊』講談社学術文庫 p.232)
その後、慶喜の上洛を早急に実現しようとする動きが活発化し、二十四日の三職会議では松平慶永の意見が通って、慶喜に下す沙汰書に徳川領地の返上を求めないことが決定した。
家近氏はさらにこう解説しておられる。
状況は明かに慶喜サイドに有利に、大久保ら薩藩対幕強硬派に不利な方向にいきつつあった。そして二十六日には、着阪し登場した慶永と慶喜との対面がなされ、慶喜の積極的な同意が表明される。ついで二十八日、沙汰書に対する請書を徳川方は慶永に提出する。ここに慶喜が入洛後ただちに参内し、議定職に就任することがほぼ確定した。
(同上書 p235)
江戸薩摩藩邸焼き打ち事件
一方、大久保ら薩藩対幕強硬派は追い詰められ、この時点ではじめて徳川氏本体の打倒を考慮するようになる。
大久保が、この段階で対徳川戦を想定するにいたったのは、単に徳川慶喜の議定職就任と、それに引き続く慶喜の王政復古政府内での主導権の掌握を恐れていたからではない。
慶喜の議定職就任は、大久保の当初の許容範囲をはるかに超えて、政権の基盤を拡大しようとする志向性のあらわれ(しかも象徴的な)であったがゆえに、阻止しなければならなかったのである。…
事態の推移をこのまま認めれば、旧体制の否定と新しい政治体制の創出を、クーデター方式という断ち切り方で劇的に演出してみせた効果はなし崩し的に消え去っていく。…
しかも大久保らをして危機感をいっそうつよめさせる事態が、クーデター後に生じていた。慶喜の要請を受けて、いったん大坂に退いた会津藩兵や新選組などが、淀、橋本、伏見あたりに兵士を繰り出し、新政府に揺さぶりをかけてきたのである。
十二月二十一日付で西郷に送った書簡で、大久保派、この問題に触れ「淀へ会(=会津藩)大砲あい備え、橋本辺へ人数繰り出し、伏見新選組横行の次第、現在朝廷に対し奉り異心を顕し候義、それを邪佞のため、一言朝廷より御沙汰されかね候は、古今衰勢の習とは申しながら、慨すべし歎ずべし」と強い不満を洩らした。
(同上書 p.237~238)
大久保は慶応四年一月三日付で岩倉具視宛てに書状を書いているが、そこで王政復古クーデター実施後の朝廷の失策について触れ、そのために「大変革もことごとく水泡画餅とあい成るべくは顕然明著というべし」(『岩倉公実記. 下巻 1』p.220)と書いている。
大久保が怖れていたのは慶喜を支持する雄藩連合政権が成立することであったのだが、慶喜を上京させてチャンスを与えてしまっては、いずれそういう方向に事態が進んでいく可能性が高く、それでは苦労してクーデターを仕掛けた意味が失われてしまう。そうならないために、大久保は内戦を覚悟するしかないと肚をくくっていたのだが、武力を行使するためには、そのきっかけが必要となる。しかしながら、慶喜が大勢を奉還したことにより武力倒幕の名分は失われてしまい、次いで京都で開戦のきっかけとなる武力衝突がおこることを期待したのだが、慶喜は会津・桑名軍とともに大坂城に引っ込んでしまった。ならば、相手を挑発して、どこかで相手から先に手を出させるしかないのである。
十一月以降に江戸の市中で暴行や盗難などの事件が相次ぎ、犯人が薩摩藩邸に逃げ込んでいることが明らかとなり、業を煮やした幕府が十二月二十五日の払暁に、庄内藩兵などをもって江戸の薩摩藩邸を焼打ちする事件が起きている。
この情報を聞いた西郷が「これで討幕の名目がたちもうした」と言ったかどうかはわからないが、西郷や大久保が喜んだことは確実であろう。『徳川慶喜公伝. 四』には、西郷がこの情報を聞いて、土佐藩の谷干城に「戦端開けたり、速やかに乾(板垣)退助に報告せよ」と、兵の出動を促したことが記されている。(p.267~268)
この焼き討ち事件の情報が大坂城に伝わると、旧幕府方将兵や会津藩・桑名藩の兵らは激昂し、「憎き薩摩を討伐せよ」という声が一段と高まった。そして慶応四年一月二日に「討薩の表」を携えて旧幕府軍は京都への進軍を開始したのだが、鳥羽伏見の戦いについては次回の「歴史ノート」で記すことにしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
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