浦賀来航初日
ペリー艦隊は嘉永六年六月三日(西暦1853年7月8日)に相模湾に入った。四隻の軍艦が積んでいる大砲はそれぞれ二十数門で、合計百門近くの大砲には弾が込められており、哨兵および戦闘要員は各人部署につき、小銃を手にしていた。
日本船隊は遠く米艦を囲んだが敢えて接近せず、四隻の黒船は浦賀の町を威嚇するように停泊した。
しばらくして一艘の幕府の船が、旗艦のサスケハナ号に近づいてきた。この船には与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助が乗っていて、紙の巻物を手にしていた。そこにはフランス語で「貴艦は退去すべし、危険を冒してここに碇泊すべからず」という内容が書かれていた。
サスケハナ号の通訳はシナ語とオランダ語で「提督は最高位の役人以外とは会わない。貴下は帰還すべし」と伝えると、堀達之助が「隣にいるのが副奉行で引見されるべき適当の人物であると」偽って紹介し、「提督におかれても副奉行に相当する地位の士官を任命して合わせて欲しい」と申し出し、その結果二人の乗船が許されたという。
ペリー提督自らは面談には加わらず、副官に命じて、アメリカ大統領フィルモアから国書正式にを手交すべき日を定めるために、その国書の写しを受け取るべき適当な日本側の役人をこの船に派遣して欲しいと要求したが、相手は「日本側の法律では対外問題を取り扱う場所はただ長崎だけであって、艦隊は長崎に廻航する必要がある」と答えた。しかし、ペリーはそれを断固拒否したという。『日本遠征記』にはこう記されている。
提督は浦賀が江戸に近いゆえにわざわざここへ来たので、断じて長崎に廻航せず。提督は今滞在しているところで親書が然るべく受納されることを期待している。また提督の意向は全く友好的なものであるが、断じて無礼を許さず。かつわが船艦の周囲に群がっている防備船がいつまでもここに留まることを許さず。もし防備船が即刻撤退せざる時には武力に訴えるべしと。この言葉が副奉行に通訳されたとき、副奉行はにわかに席を立って舷門のところに行き、命令を発した。その結果大部分の船は海岸の方に帰ったが、二三の船はなお依然として群がっていたので、退去を手真似で勧告すると同時に、威嚇するために一艘の武装艇を艦から派遣した。これで望通りの効果を達することが出来た。防備船が全部退散して、艦隊の滞在中はもはや艦隊の近くに一隻も姿を見せなかったからである。提督の言うようにこのことは、第一に成就することのできた重大な点だった。副奉行は少したってから次のように述べながら帰還した。即ち、私は大統領の親書受納に関して何事をも約束する権限を持たないが、明朝上役が町から来て多分何かもっと御沙汰をしましょうと。
(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記 (二) 』p.191)
奉行所に戻った中島は、浦賀奉行の戸田氏栄(とだうじよし)に報告し、その内容は老中筆頭の阿部正弘にも伝えられた。
浦賀来航二日目
翌朝中島は与力の香山栄左衛門を奉行ということにしてそれなりの着物を着せ、通詞の堀達之助とともに再びサスケハナ号に到着した。ペリーはこの時も表には出ず、交渉は副官や艦長らに任せた。
香山は、日本の法律に照らして浦賀で国書を受け取ることは出来ない。仮に浦賀で受け取っても、返答は長崎で行うことになると再三述べて、艦隊は長崎に回航すべきであると付言した。それに対するアメリカの返事は次のようなものであった。
これに対する返答として、奉行へ次の言葉を極めてはっきりと申し渡したのであった。即ち提督は断じてかかる協定に応ぜず、提督の碇泊している土地で親書を奉呈するように主張するということ。更にもし日本政府が、提督の所持している皇帝宛の文書を受納するために然るべき人物を選任するのを適当としない場合には、これを奉呈する義務を帯びている提督は十分な武力を以て上陸し、親しくそれを捧呈するようになるのは当然の帰結であろうということである。
これに対して奉行は、町に帰還の上江戸に通告して、更に回訓を仰ぐべしと答え、回答を得るまで四日を要すべしと付け加えたのであった。汽船をもってすれば一時間の航程で江戸に達することが出来るので、提督は三日だけ待とう、その日に確答あらんことを期待すると奉行に申し渡した。
昼の間に艦隊中の各館から一艘ずつのボートを派遣して、浦賀湾と浦賀港を測量させた。これを見た奉行は何をしようとしているのかと訊ねた。港を測量しているのだと答えたとき、奉行は、かかる調査を許すことは日本の法律に違反するものであると語った。これに対しては、アメリカの法律の命ずるままに行うのであり、貴下が日本の法律に従うが如く、アメリカ人はアメリカの法律を順守すべき義務を有するのだと答えた。『これは我々が成就した第二の最も重要な点であった』と提督は述べている。
(同上書 p.199)
そしてアメリカ側は、この日に奉行を名乗る香山栄左衛門に白旗を手渡していたという話がある。ペリーの『日本遠征記』には記録は出ていないが、浦賀奉行所側の資料「役々ノ者異船将官士外士官立会応接之件」という文書に出ているのだそうだ。松本健一氏の著書に、この文書の訳文が出ている。ペリー方の応答はこう記されている。
いまから四日目の昼過ぎまで、返答を待つことにしよう。しかし、もし返答がないならば、そのときは仕方がないから、われわれアメリカ側は「江戸表」まで出掛けて大統領の国書を届けよう。そのさい、どのような事態が生じようとも(戦争が起ころうとも)、じぶんたちは当初の意思どおり、幕府に「開国と通商」を要求する大統領の国書を届ける。ただ、その戦争のさいでも、和睦を申し出る用向きならば「白旗を掲げ」て来るように、と。
(松本健一著『日本の近代1 開国・維新』中央公論社 p.17~18)
このようにして、ペリー側は、戦争になった場合の終結の方法まで日本側に教えたのである。そしてペリー側が贈った白旗には添え書きが書かれており、上記文書と同様の内容が書かれていたという。
江戸幕府はどう動いたか
浦賀奉行からの報告を受けて、江戸幕府はどう動いたのであろうか。第十二代将軍徳川家慶は老体の上に重病にかかっており、政務が取れる状態ではなく、老中首座の阿部正弘が専ら実権を握っていた。
明治43年に(1910年)刊行された『阿部正弘事蹟 : 日本開国起原史. 上』にはこう記されている。
初米艦渡来の警報江戸に達するや、首相阿部正弘は当時外国に対し戦争を開くの不可能なる事情を察するといえども、まず閣僚牧野忠雅と謀り、諸有司をしてこれが処置を議せしむ。皆曰く「旧例に違い、国禁を取捨するは遺憾なりといえども、軽率にこれを拒絶し、因って兵端を開き、国家を危難に陥れるは我国の長計にあらず。姑く(しばらく)辱を忍び、枉げてその請を許し、早く退去せしめ、しかる後広く言路を開き、衆議を採りて国是を決し、彼の再来に及びて之に答辞を与うるに如かず」と。
(渡辺修二郎 著『阿部正弘事蹟 : 日本開国起原史. 上』p.138)
しかし異国船は打払えとする閣僚も少なくなかった。そこで阿部は、攘夷論者のリーダー的存在である徳川斉昭にも書状にて意見を求めている。同上書にその回答が出ている。
撃攘必ずしも可なりと謂うべからず。幸いに我勝ちて彼退くも、日本近島を奪うや必せり。然れどもかの所を受くれば禍患これより生ぜん。これ実に重大事件なり。衆議の後之を決するのほかなかるべし
(同上書 p.139)
大統領の国書の内容はこの段階ではわからない。幕閣がとりあえず戦争を回避するために国書を受取る判断を下したのは、圧倒的な軍事力格差からすれば現実的な措置であったと言える。
久里浜での国書受取り
いよいよ、国書の受取りが久里浜でにわか作りの応接館で六月九日 (西暦7月14日) に行われることが決まった。この日は朝八時にペリー提督をはじめとする一行が浜に向かってボートに乗って漕ぎ出した。サスケハナ号から十三発の大砲が放たれた。
最初に日本の土を踏んだアメリカ人はブキャナン艦長で、ついでヅェーリン陸軍少佐に率いられた陸戦隊が続き、楽師、水兵、士官のあと、最後にペリーが上陸した。一方幕府側は、幕府直轄部隊に加え、陸上を川越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩が警備に当たっていたという。『ペルリ提督日本遠征記』によると、アメリカの上陸メンバーは総勢約三百人、日本側は五千以上と記録されている 。
久里浜には仮設の会見場が作られていて、浦賀奉行の二人、すなわち井戸石見守弘道と戸田伊豆守氏栄の二名が 日本側の全権として待ち受けていた。二人の脇には、香山や中島三郎助らの与力が控えていた。
記録によると、両浦賀奉行もペリー提督も席に着いてから数分間、一言も発しなかったという。
沈黙を破ったのは通詞の堀達之助で、アメリカ側の通詞ポートマンに向かってアメリカの国書は用意されているかとたずね、日本側はそれを受取るべく、朱塗りの箱を用意していると説明した 。
ポートマンがペリーにその旨を告げるとペリーは二人の少年を呼び、すべての文書を朱塗りの箱の中に置かせた。ポートマンが文書の文書の一々についてその性格を説明した。
続いて香山栄左衛門が立ち上がり、井戸石見守に近づき、井戸の手から巻紙を受取りペリー提督に手渡した。ポートマンが「この紙は何か?」と訊ねると、「受領書である」と回答した。 さて、その巻紙の内容はこのようなものであった。
北アメリカ合衆国大統領の書翰とその写しとをここに受領し、皇帝に伝えんとす。外国に関する事務は、ここ浦賀に於いて取り行わるること能わざるものにして、長崎に於いて行わるべきことを屡々通訳したり。さて大統領より派遣せられたる使節の資格としての提督は、このことをもって侮辱せられたるものと認めたり。そは尤も至極なりと思いたるが故に、上に掲げたる書翰をば日本の法律を曲げて、この地に於いて受領するものなり。
この場所は外国人を応接するために設けられたる場所ならざるが故に、協議も饗応もなし得ず。書翰が受領されたる上は、貴下はここを立ち去られたし。
( 岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記 (二) 』p.249)
日本側の全権である戸田と井戸の2人はここまで一言も発しなかったという。この場所では外交交渉は行わない、早く立ち去れという江戸幕府の意思表示である。
ペリーはしばらく沈黙した後、通訳に命じて日本人に対して次のように告げたという――二、三日中に艦隊を率いて琉球及び広東に立ち去る。そして来春四月か五月に、日本に戻ってくるつもりだが、その際にはもっと多くの艦船を率いて来るだろうと。
香山と堀は国書を収められた朱塗りの箱の紐を結び、箱を持って会見場を立ち去った。するとペリー一行も会見場から出て行ったのだが、会見の時間は前掲書によると二十~三十分以上もかからなかったという。
このように久里浜での会見は短時間で終了したのだが、ペリー一行はこのような印象を書き残している。
日本軍の配備がこんなものとすれば、日本の大軍勢といえども、それをアメリカ人が完全に取り囲んでしまうことは、少しも困難でないだろうということが明らかにされたのである。
(同上書 p.252)
久里浜では、兵士数では日本側が圧倒していたものの、入り口に据えられた大砲は古いヨーロッパ製のものであり、護衛兵が手にしていた鉄砲は古い火縄銃であった。ペリーらは日本側の装備を見て、もし戦うこととなっても簡単に打ち負かすことができる相手であることを確信していたのである。
この後ペリーがいかなる行動を取ったかについては次回の「歴史ノート」に記すことと致したい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの書店でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。
コメント
こんばんわ~
お久しぶりです。
ブログこちらに変わったのですね。
コロナウイルスのニュースばっかりですが、
気をつけて下さいね。
また、遊びにきます。
お久しぶりです。
菜の花がきれいな時期なのですね。
たまには旅行でもしたいのですが、コロナウィルス騒ぎが出て、先月行く予定にしていた山口旅行はキャンセルしました。
今週から学校や幼稚園が休みになって毎週次男の子二人を2日ほど預かることになりました。小さい子供と丸二日過ごすのは思った以上に大変です。
早く感染が収まってほしいものです。
こちらも時々覗かせていただきます。