薩摩藩を独立させる動きが存在した
前回の「歴史ノート」で、イギリスのパークス公使は日本の主権が江戸幕府に存在せず朝廷に存在すると理解し、薩長に接近していったことを書いた。GHQ焚書の『幕末期東亜外交史』に、薩摩藩の五代才助(友厚)が慶応二年(1866年)にパークスに送った手紙の一節が引用されている。
薩摩候は英国その他との条約を締結するために、兄弟をヨーロッパに派遣する計画であり、その事について、貴下(パークス)の忠言を求めるため、外務奉行新納刑部が、貴下を訪ねようとしている。薩摩には守旧派があって、この計画を妨害しているから、貴下は、よろしくこの計画の成功を援助して欲しい。
(大熊真 著『幕末期東亜外交史』乾元社 昭和19年刊 p.246)
この文章を普通に読めば、薩摩藩の中に直接外国と条約を締結する考えがあったということになり、薩摩を独立国とする考えが真面目に議論されていたことが推測される。そういう動きはあったが、結局イギリスなどと条約を結ぶところまではいかなかった。
ところが、翌慶応三年(1867年)にフランスのパリで博覧会が開かれる予定になっていて、フランスから出展を要請された幕府は初めて万国博覧会に参加することを決定し、各藩に伝達したのだが、当時の幕府の力は衰えておりまた各藩の財政も厳しかったことから、出展に応じたのは佐賀藩と薩摩藩だけであったという。ところが、驚くべきことに、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成したということがWikipediaに解説されている。幕府と薩摩藩との対立は、パリ万博においても激しいものがあったのである。
ロッシュ公使着任以来幕府と親密であったフランス
フランスのロッシュ公使は1864年4月27日(元治元年三月二十四日)に横浜に着任して以来、一貫して幕府を重視する姿勢で臨んでおり、幕府とフランスは極めて親密な関係にあった。
幕府は、万国博覧会に出展することは日本国の主権者であることを世界にアピールするチャンスと考え、将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武をパリに派遣することを慶応二年(1866年)十二月に決定している。
徳川昭武以下の使節団一行がフランスの船に乗って出発したのは慶応三年一月十二日(1867/2/16)だが、パリに向かう途中で寄港した港における各国の応接は様々であった。イギリスの植民地であった香港では使節に礼儀を尽くす動きはなく、フランスの植民地であったサイゴンでは二十一発の祝砲が放たれ、使節を満足させる応接があったという。そして幕府の使節団は三月のはじめにフランスのマルセイユに到着した。そこで一行は、先発していた幕僚から重要な報告を受けて驚いたのである。使節に随行した外国奉行支配組頭・田辺太一は『幕末外交談』にこう記している。
(先発隊の)第一に訴えるところをきくに、薩州藩の者琉球国王の使節と称してパリにあり。博覧会にも琉球国産物陳列上の一区を借り受け、これには琉球王国の名を標し、丸に十字の国旗を掲げ、既に去る開場の日にも、その者どもは琉球国王の使節として式場に列せり。このこと頗る国体に関する所あり、かの幕府にして日本の政府たらんには、不問に付すべきものならじとの事なりき。
(田辺太一 著『幕末外交談』富山房 p472~473)
「丸に十字」というのは言うまでもなく島津家の家紋である。幕府にとっては、薩摩藩が「琉球国」として万国博覧会に参加する下心があったことは思いもよらなかったが、この問題を断じて看過するわけにはいかなかった。
パリにおける幕府と薩摩藩との論争
当時幕府は、スエズ運河を建設したことで知られるフェルディナン・ド・レセップスに博覧会についての理事官に委嘱していたのだが、そのレセップスの面前で、幕府代表の田邊太一と薩摩藩代表・岩下方平が激論を交わすこととなる。幕末の証言集である『史談会速記録』の文章が徳富蘇峰の『近世日本国民史 第62』にでている。
(田邊)今度の琉球国の一件であるが、琉球国と独立したのはどういうものか。当時尊王随一といわれる御藩(薩摩藩)が、どういうわけで、左様なことをなされたか。何しろ現在日の丸の旗を、日本として立てているのに、向こうは琉球国として丸に十字の旗を立てている。これ明らかに日本にそむいて独立しているものであるとは、御藩の尊王の御主義にもそむくわけだ。ところで陳列方についての責任を、御極めなさい。この日曜日をいとわず、この会を開いたのは、明日ナポレオン帝が、博覧会に検分に来られる。その前に極めておきませぬと、不都合でありますから私(田邊)が向山(フランス駐在公使)を代表して参ったと詰った。
(徳富蘇峰著『近世日本国民史. 第62』民友社 昭和14年刊 p.151)
岩下が「何も知らぬ。万事モンブラン伯爵が引き受けてしたことだ」とのみ回答した。モンブラン伯爵とは、ロンドンに密航していた薩摩藩の五代友厚らに接近して、パリの万国博覧会における薩摩藩の代理人になった人物である。
田邊が話の鉾先をモンブランに向けると、要するにこの男は、レセップスが日本の理事官となったことに対抗するために、薩摩藩に近づいたとのことであった。
その後幕府(田邊)対薩摩藩(岩下)の論争が始まった。田邊は岩下に対し「琉球」の二文字と「丸に十字」の旗章を削ること、および「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の名を「松平修理大夫」のみに改めることを要求したが、岩下は承知しない。
薩摩藩代理人のモンブラン伯爵は岩下とともに交渉し、「薩摩太守の政府」の名前は譲れないとして談判し、結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」とし、ともに日の丸を掲げることで妥協したのだが、「政府」という呼び方を許したことが田邊にとって大失策となった。田邊は翌日の新聞論調についてこう記している。
翌朝のフランスの「ピガロー」という新聞、それから「デハテー」、「ペチ・ジョーナル」という三つの新聞に出ました。かねてから日本の国体というものは、ゲルマン連邦とおなじ様なもので、大君(将軍)と唱える者は、その連邦中のやや力あり、やや大きな、何か日本の主権のあるように、ここまで自分も言っており、人も信じておったが、昨夜のレセップスの会で、公使館の書記官の田邊が、生まれながら飲んだことのないシャンパンに酔ってしまったと見えて、とうとう化けの皮を現わして、大君政府といい、肥前太守の政府といい、薩摩太守の政府と並べ立ったではないか。
(同上書 p.154~155)
「政府」という言葉を許したことにより、日本はドイツと同様の連邦国家であり、幕府も肥前藩も薩摩藩もそれぞれ「地方政府」の一つにすぎないとの記事が書かれてしまった。この記事はおそらくモンブラン伯爵が記者の取材を受けてそう書かせたのであろう。田邊は同書にこう述懐している。
さてこの一件ですが、私ども幕府方の目から見ますと、薩藩の所為は、実に憎むべきの至りで、幕府に反抗するはまだしも、自立して琉球国王たることは、日本天皇と並立する筋ではあるまいか。それをも憚らぬとは何たることだ、と思いましたが、当時博覧会のカタログを見ますと、琉球国王陛下松平修理大夫とあります。…これは深くわが国の事情をしらぬもの、脚色したというは直にわかる話で、なるほど岩下氏の、何事も知らぬ、モンブランがよい加減にしたとの話は、実際であった合点ができます。つまり、モンブランが一時虚栄心をみたさしめん為の傀儡になったにすぎぬと思います。
(同上書 p.155)
誰がシナリオを描いたのか
モンブラン伯爵については、Wikipediaは次のように解説している。田邊の言うように、ただ何も知らないいい加減な人物が虚栄心を満たすために行ったのではなかったと思う。
すでに地理学会で発表していた「日本は絶対君主としての徳川将軍が治める国ではなく、ドイツと同様に各地の大名が林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大名に過ぎない」との論調の記事を掲載させるなど、交渉を有利に導くべく工作した。この年、日本を再訪したモンブランは薩摩藩から軍制改革顧問に招聘され、鹿児島に滞在するなど、薩摩藩との密着度を深めていく。
薩摩藩は、はじめから「琉球国」としてパリ万博に出展し、日本国の主権者は幕府ではなく、薩摩藩という大きな藩の政府があることを全世界にアピールするつもりであったのだろう。そうすることで幕府は更に弱体化し、また薩摩藩の知名度を世界に高めておけば、幕府が倒壊後新政府を樹立しても、各国の承認が得やすくなる程度のことは考えていたのではないか。
しかしながら、万国博覧会に参加するために薩州琉球国の勲章や旗を作り、日本が領邦国家であることを新聞などでアピールするあたりは、日本人のアイデアとは考えにくい。特に、フランス人が勲章を重んじることについては、外国人でなければ知り得ないことである。
Wikipediaに、わが国で最初に制作された薩摩琉球国勲章についてこう解説している。
中でも琉球王国を事実上の従属国としてその領土の一部を実効支配していた薩摩藩は、「日本薩摩琉球国太守政府」を自称して幕府とは別の独立国の政府であることを国際社会に訴えようとし、その戦略の一環として勲章の製作と贈呈が行われた。
各国の高官や外交官が一堂に会する万博は、様々な工作が繰り広げられる外交合戦の場でもあった。薩摩藩は幕府に先駆けて、かなり早い時期からこうした活動をパリで行なっており、同藩全権大使の岩下方平はシャルル・ド・モンブラン伯爵に勧められてフランスで薩琉勲章を制作し、これをナポレオン3世以下フランス高官に贈呈した。
薩摩藩のこの動きに対し、幕府でも早急に独自の勲章として葵勲章の鋳造発行を行う計画が立てられたが、実現を見ないままに大政奉還と王政復古の大号令が行われて幕府は瓦解し、葵勲章は幻に終わった。そのため日本の勲章史では、この薩琉勲章がその嚆矢とみなされている。
薩摩藩はこの勲章をフランスの高官に贈ったことで評価を上げ、薩摩藩の知名度を上げたことは確実だ。
万国博覧会に独立国として参加し、幕府の地位を貶めるシナリオを描いたのは、勲章の制作しフランス高官に授与することについてはモンブラン伯爵のアイデアであったかもしれないが、幕府が事前に寄港予定地に連絡を入れていたにもかかわらず香港で幕府の使節が冷遇されたことなどを考えると、全体的なシナリオ作成はイギリスが関与していた可能性が高いのではないか。
その後薩摩藩は、モンブラン伯爵を軍制改革顧問などに招聘しているが、薩摩藩がフランスのロッシュ公使ではなくこの人物に接近したのは、フランスと幕府との親密な関係に楔を打ち込む意図もあったのかもしれない。いずれにせよ薩摩藩は、パリ万国博覧会という機会をとらえ、薩摩藩が幕府と対等の独立国であるかのような印象をヨーロッパ諸国に与え、幕府の権威を低下させることに成功したのである。
パリ万国博覧会における日本の評判
最期にパリ万国博覧会ではどのような展示がなされていたか触れておこう。上の図は薩摩藩の展示場で琉球王国の宮殿を連想させるような立派な建物である。鹿児島県のホームページによると、琉球産物・薩摩焼・漆器・扇・煙草など百種をこえる産物を約400箱ほどを出品したと書かれている。
また肥前藩も有田焼や和紙、履物などを出品したが、大宅経三 著『肥前陶窯之新研究. 上巻』には「広大の会場中非常の愛嬌と人気を集めて、望外の利益を収めた」(p.174)とあり、非常によく売れたことが記されている。
わが国の展示場の様子については、使節団の一員であった渋沢栄一が自叙伝に書いている。
博覧会場はセーヌ河畔の広場で、周囲一里余もある場所であった。東洋の部に属しているうちでは日本の出品が一番陳列の場所を広くとっていた。
この博覧会には普通の出品の外に我が日本式茶店が設けられてあったが、奇風奇俗が大分人気を呼んでいた。この茶店は全体が檜造りで、六畳敷に土間を添え、外に便所も付いておったが、専ら清潔を旨とし、土間にて茶を煎じ、古味醂酒などを蓄え、一般の需めに応じてこれを供した。また庭の休憩の場所には椅子を設け、傍らには純日本風俗の等身大の人形を配置して観覧に供え、座敷には、かね、すみ、さとという妙齢の日本娘がおって、日本人の起居動作振りを見せておった。
ところが、その衣服や装身具などが珍妙極まる風に映じ、かつ日本婦人が日本風俗で、初めてパリに出現したということは西洋人の好奇心を惹き、これを子細に見ようとして縁先に立ちふさがって熟視するので、何時行って見てもその前は人垣を築き、後ろにいる者は容易に覗き見することも出来なかったほどである。それのみならず物好きな連中などは頻りに乞うてその衣服を借着してみたり、中にはどんなに高価でもよいから是非譲ってくれという夫人が少なくなかったそうである。露骨に申せば見世物扱いにされていたのであるが、ともかく人気のあったことだけは事実である。
(『渋沢栄一自叙伝』渋沢翁頌徳会 昭和13年刊 p.167~168)
徳川幕府の瓦解
このパリ万国博覧会は1867年11月3日(慶応三年十月八日)まで開催されたのだが、その六日後に将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上し(大政奉還)、そうこうするうちに鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は瓦解したのである。
前述したとおり万博の幕府使節団の代表は、徳川慶喜の実弟である徳川昭武であった。慶喜が朝廷に政権を返上したという評判が現地の新聞に伝えられたのはその年の年末(西暦)だが、年が明けて1868年の1月頃に日本から確実な連絡が入り、その後鳥羽伏見の戦いで敗れたことや慶喜公が水戸に退隠したことなどの情報が伝わり、博覧会のあとパリで留学していた徳川昭武は維新政府から帰国を命じられ、帰国後直ちに函館に籠城している榎本武揚追討を命ぜられたという。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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