田沼時代の再評価
学生時代に田沼意次は「賄賂政治」を行ったと学んだので、以後長いあいだこの人物については悪いイメージを持っていたのだが、近年この人物が再評価されている。
日本近世史の権威であった故・大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』の序文にによると、かつては「日本史の三大悪人」として弓削道鏡・足利尊氏・田沼意次の名前が挙げられていたのだそうだが、戦後になって皇国史観が否定されて弓削道鏡・足利尊氏の評価が変わり、田沼意次だけがその後も長らく悪人として描かれ続けたという。

教科書などでも田沼意次は賄賂政治を行った腐敗した政治家として描かれ続けてきたのだが、大石氏らの研究により再評価が行われ、最近の教科書の田沼時代に関する記述が昔とはかなり異なっている。
たとえば『もう一度読む 山川の日本史』にはつぎのように記されている。
…十代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は六百石の小身から身をおこして大名となり、側用人、ついで老中として二十年間も幕政の中心にいたので、この時代を田沼時代とよんでいる。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用してそれまでにない積極的な政策をとった。幕府直営の座を設けてと銅や鉄を専売にしたり、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収したり、俵物とよばれる海産物の増産につとめて中国に輸出するなど、幕府の収入の増大をはかった。
しかし下総の印旛沼や手賀沼の干拓事業は、途中で大洪水にあって失敗し、武蔵・上野に反物や綿糸の検査料を徴収しようとしたことも、産地の農民が一揆をおこして抵抗したため廃止となった。
意次が新しい計画をたてると、その利権をえようとする業者が暗躍し、役人のあいだにも公然と賄賂がおこなわれて、政治はみだれ、新事業も健全な発展をみることができなかった。
『もう一度読む 山川の日本史』p.186
昔の教科書では、田沼時代に印旛沼や手賀沼の干拓事業のことが少し書かれていたものの、賄賂政治が行われたとのイメージが圧倒的に強かった。最近の教科書では、賄賂について触れてはいるが、幕府の財政基盤が改善したことがしっかり記述されている。調べると明和七年(1770年)には幕府の備蓄金が百七十一万七千五百二十九両となっており、五代将軍綱吉以来の最高値となったという。
Wikipediaによると、外国人による日本研究の先駆者で瑞宝章を受勲したジョン・ホイットニー・ホール氏は『Tanuma Okitsugu』において「意次は近代日本の先駆者』と高く評価しているという。
田沼意次を失脚させた勢力

しかしながら、天明三年(1783年)の浅間山噴火などを契機として大凶作となり、天明の大飢饉が起こって米価が高騰し、各地で百姓一揆や打ちこわしが激発する政情不安な時に、意次の実子である若年寄の田沼意知が天明四年(1784年)に江戸城内で暗殺され、それ以降田沼意次の力が衰えていく。
田沼意次の失脚についてWikipediaにはこう記されている。
天明六年(1786)八月二十五日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。
意次は八月二十七日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。…閏十月五日に意次は家治時代の加増分の二万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡し、意次本人の謹慎も命じられた。十二月二十七日には意次の謹慎措置は解除され、天明七年…五月の天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼派の重臣が一掃され、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた八万両のうちの一万三千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された。長男の意知はすでに暗殺され、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥下村一万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。
同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった。
その一年後にあたる天明八年七月二四日、意次は江戸で死去した。享年七十。
田沼意次の末路は随分苛烈なものとなったのだが、田沼が失脚した後、天明七年(1787)に徳川家斉が第十一代将軍に就任し、松平定信が老中首座となっている。
その後定信が主導する反田沼派が井伊直幸、水野忠友、松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃し、田沼派路線を否定して風紀粛清、重農主義に回帰する等の寛政の改革に乗り出したのだが、むしろ財政は悪化して田沼時代の資産を食いつぶす形になったという。
田沼意次が老中になるまで
このあたりの激しい権力闘争を理解するために、田沼意次がどういう経緯で六百石の小姓から老中にのし上がることが出来たかを振り返っておこう。
田沼意次は、第八代将軍徳川吉宗の小姓であった田沼意行(たぬまおきゆき)の長男として享保四年(1719年)に生まれ、享保十九年(1734年)には、後に将軍となる徳川家重の小姓に抜擢されたのだが、その年の年末に父が死去し父の六百石を継いでいる。
延享二年(1745年)に家重が第九代将軍に就任し、それに伴って意次は本丸に仕えることとなり、寛延元年(1748年)に千四百石を加増され、宝暦五年(1755年)には更に三千石を加増され、さらに宝暦八年(1758年) 一万石の大名に取り立てられている。
宝暦十一年(1761年)、将軍家重が死去した後も、世子の第十代将軍徳川家治の信任は厚く、明和四年(1767年)にはさらに側用人へと出世し五千石の加増を受け、さらに従四位下に進んで二万石の相良城主となり、明和六年(1769年)には侍従にあがり老中格。安永元年(1772年)には相良藩五万七千石の大名に取り立てられ、老中を兼任している。相良藩では街道整備、相良港の整備などのインフラに力を注ぎ、殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させたが年貢を増徴することをせず、百姓が喜んだ記録が残っているのだそうだ。
なぜ意次がこのような破格の出世を遂げることが出来たかについては、家重、家治の二代にわたり将軍からの信頼が厚かったことがあるのだが、この二人がどのような経緯で将軍となり、またどのような人物であったのかを知ることがポイントになる。
病弱だった第九代将軍徳川家重

江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』には、徳川家重は健康に恵まれず、「惇信院(家重)殿には御多病にて。御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」(「浚明院殿御実紀 巻一」)とあり、さらに「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」(「惇信院殿御実紀 巻三十一」)と書かれている。生来虚弱の上言語不明瞭であったらしいのだが、要するに徳川幕府ですら第九代将軍の家重が政治家としては無能であったことを認めているようなものである。
家重は八代将軍吉宗の長男であったのだが、次男の宗武は幼少より聡明で将軍後継者に推す声もあったようだが、結局吉宗は家重を自分の後継者とした。

その理由については、吉宗が長幼の序を重んじたという説や、家重の嫡男・家治が聡明であったのでその将来に期待したなどという説もあれば、吉宗が将軍職を譲ってからも幕政に影響力を保持しようとしたという説もあり、家重は言語不明瞭ではあったが頭は良かったという説もある。いずれの説が正しいかは読者の皆さんの判断にお任せすることにして、吉宗の後継を誰にするかで、家重の兄弟間で揉め事があったことは押さえておくべきである。
徳川吉宗には長男が家重で、ほかに聡明な二男・宗武や四男・宗尹がいて、この二人のいずれかを新将軍に推す動きがあったという。特に宗武は本人も将軍となることを欲していたようである。
しかし吉宗は、家重を将軍とすることを決めたことに不満を持った次男の宗武を三年間登城停止処分とし、次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免している。
また徳川吉宗は、次男の宗武、四男の宗尹を養子に出さずに部屋住みのような形で江戸城内に留めて、田安徳川家(初代当主:宗武)、一橋徳川家(初代当主:宗尹)を創設し、後に家重の二男の重好も別家として取立てて清水徳川家が創設され(田安・一橋・清水の三家を御三卿と呼ぶ)、徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担わせている。
つまるところ吉宗は、自分の後継者決定に関わるトラブルを、それぞれの子孫から将来的に将軍が生まれる可能性があることを示すことで解決しようとしたと理解すればよいのだろうか。
第十代将軍徳川家治

Wikipediaによると家治は幼少より聡明で、祖父である大御所の徳川吉宗の期待を一身に受けて育ち、吉宗は死ぬまで家治に帝王学等を直接指導したとある。
そして家治は、宝暦十年(1760年)に父・家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し、九月二日には正式に将軍宣下を受けて第十代将軍職を継承し、父の死後はその遺言に従って田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元の死亡の後は幕政を老中に任命した田沼に任せるようになり、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなったという。
ところが、安永八年(1779年)、家治の世子・徳川家基が十八歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代を自分の養子にしている。
そして天明六年(1786年)に家治が五十歳で急死したため、十五歳の豊千代が第十一代将軍・徳川家斉となり、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主の松平定信を老中首座に任命したのである。
老中松平定信

そしてこの松平定信が寛政の改革を行ない、田沼派の老中や大老を追い出したのだが、なぜ松平定信が激しく田沼派を追い出そうとしたかを考えると、血のつながりの問題に辿りつく。重要なポイントであるのだが、松平定信は、吉宗の後継を誰にするかで揉めた田安徳川家の初代当主である宗武の七男なのである。田安家にせよ一橋家にせよ、無能で何を言っているかもわからないような家重を支えた田沼らを、快く思っていなかったのではなかろうか。
大石慎三郎氏の研究によると、田沼の悪評や田沼悪人説の根拠となる史料は田沼失脚後に政敵たちにより記されたものなのである。もし世に言われるほどの賄賂を受け取っていたのなら、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがあってもおかしくないのだが田沼意次にはそのようなものは何もなく、失脚した際に巨万の財産が没収されたというわけでもなかったという。
大石氏の『田沼意次の時代』によると、伊達藩主の伊達重村が昇進のために老中筆頭の松平武元と側衆の田沼意次と大奥老女高岳に金品を用意して面会を申し込んだ記録が『伊達家文書』に残されているのだそうだが、それによると松平武元と老女高岳は金品を受け取ったが、田沼意次は書面で十分だと断っているという。(『田沼意次の時代』岩波書店刊 p.48-49)
また同氏の『江戸時代』には「田沼意次に関する汚職談には歴史学の問題として信頼するに足るものは一つもないのみならず、その主要なもののなかには明らかに先学の過誤にもとづくものさえある有様である」(『江戸時代』中公新書p.207)と書かれており、『田沼意次の時代』では、意次の悪評を記した史料の主なものを検討したところ、すべてが田沼意次の失脚後に書かれており、新権力者に媚びを売る立場から書かれたものであることを検証した上で「田沼意次についてこれまで紹介されてきた「悪評」はすべて史実として利用できるものではない」と結論付けておられる。
少し考えればわかる事だが、田沼意次を失脚させた側である松平定信らにとっては、田沼が大悪人であり、彼の政策をこき下ろしてその評価を下げることが、相対的に自らの評価を高めることにつながることになるのである。
いくら公式記録に書かれているとしても、政敵側が田沼意次を貶める為に編集した文書を鵜呑みにしてしまっては真実にたどり着くことは困難であろう。
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