秋月党が起ちあがった経緯
前回の「歴史ノート」で明治九年十月二十四日に起きた熊本の神風連の乱のことを書いたが、そのわずか三日後に福岡で秋月の乱が起きている。
伊藤痴遊 著『隱れたる事實明治裏面史』にはこう解説されている。文中の「敬神党」は「神風連」の正式な党名である。
筑前の秋月に、今村百八郎という人があった。その同志には増田静方、宮崎久留馬之助、磯俊之らの人があって、いずれも秋月藩では屈指の人物ばかりであったが、常に熊本の敬神党と欸(かん)を通じて、万一の場合には互いに助け合う約束が出来ていた。然るに敬神党は、俄かに兵を挙げることになったから、急使を以てこの旨を、今村らの同志へ通知した。
伊藤痴遊 著『隱れたる事實明治裏面史』成光館出版部 大正13年刊 p.739~741
ここに於いて今村以下の者は、すぐに秘密会を開いて、愈々敬神党に相応じて兵を挙げることにはなったが、第一に必要な軍用金が不足で、充分の準備も出来ぬ。取敢えず甘木村の富豪佐野屋方へ押し込んで、金一万両を強奪してきて、それから秋月の小学校へ、同志の士族を招集した。会する者は僅かに四百人であったが、何れも血気盛んな強い連中のこととて、人数の多少なぞはもとより顧みるはずはない。直ちに挙兵ということに決した。
しかし、ここに注意すべきことは、初め今村が士族を集めた時には「熊本に暴徒が起きた上は、第一にその余波を受けるのは、この秋月地方であるによって、あらかじめこれに対する防御の備えをしておかねばならぬ」という名義で、多少の士族を集めたのだ。これはただに県庁の警戒を免れる為のみならず、実は士族の中にも、政府に反対の挙兵とあっては、幾分の躊躇をする者もある、という見込みで、こういう名義を以て集めておいて、顔と顔を合わせての相談(かけあい)になれば、否応なしに引っ張り込もうという見込みで、小策を弄したのであった。されば四百人の士族が、結束して起こったとは言うようなものの、その中には幾分か二の足を踏んでいた者もあったことは、あらかじめ見ておかねばならぬ。
防御のためと嘘をついて士族を集めてみたものの、政府に反旗を翻すことがわかると段々人数が減り、残ったのは百五十人になってしまったという。
今更計画の中止もされず、成敗を考えずに飽く迄も猪突的に進むことに決めた。第一の策としては、まづ福岡県庁を襲撃することにして、旧黒田藩の不平士族と結び、福博の地を根拠に、遠く熊本の敬神党を援けて、その動乱を九州一面に波及させよう、という計画であった。・・・中略・・・
秋月を立って、これから夫婦石村までやって来て、光明寺に陣を張り、或いは四方に檄を飛ばし、或いは遊説の人を送って、同志の募集に着手したのであった。
同上書 p.741~742
秋月党の士族たちが挙兵したのは十月二十七日で、夫婦石村に陣を張ったことは福岡県庁にも情報が届いていた。県庁での評議の結果、秋月士族たちに学問を教えた穂波半九郎という学者に、挙兵を中止することを説得させようとしたのだが、穂波に言い負かされそうになった今村は穂波に縄をかけ、宮崎らが穂波に付いてきた巡査二人を斬り倒し、最後に今村が穂波をも斬ったと記録されている。
豊津士族に裏切られた秋月党
その後秋月の士族たちは、あらかじめ同時決起を約束していた豊津に向かい十月二十八日に到着したのだが、豊津の士族たちは「当方の議の決定するを待って、貴軍を迎えて協議することにする」と答え、秋月党は結論が出るまで待つこととした。
ここから原昌通 著『幕末明治大正史』をしばらく引用したい。
丁度正午に近い時である。兵器を帯び銃を担った豊津人五六十人は秋月党の屯所に来たりて、その携え来たれる酒食を贈って労を慰めた。秋月党は豊津人が兵器を帯びて来たれるを見て「盟約の既に成れる以上は、酒食を贈るにあたり兵器を帯びる要はない筈である。果たして好意に出たものならば、先ず兵器を投ぜよ、脱刀せよ。しからざればわが軍もまた兵器を以て応接するの他はない」と答えてその贈物を謝絶したから、豊津人はその銃を投じ、佩刀を脱して他意なきことを表した。そこで秋月党はそれらの兵器に名札を付け、まさに午餐を喫せんとするの時、忽然として全面の松林中より一発の銃声は響き渡った。
これ実に小倉営所の台兵が、豊津人と通謀して秋月党を掩撃せんとした手段である。秋月党は大いに驚き、箸を棄て倉皇として隊伍を整え応戦したが、不意の襲撃に遭ったのであるから、忽ち重圍(じゅうい:幾重にも囲まれること)の中に陥り、また奈何ともすること能わざる有様となった。
原昌通 著『幕末明治大正史 : 波瀾重畳. 日之巻』松本書院 大正10年刊 p.756~757
斯くと見るや豊津人は遽(にわ)かにその兵器佩刀を収めて秋月軍に向かい逆撃した。ここに於いて秋月党は初めて豊津人の詭計に陥りしを知り、死を決して吶喊(とっかん)奮進し、台兵の披靡(ひび:敗走)するに乗じ、遂に一条の血路を開き、危地を脱して南方なる城井村に退却した。この時宮崎安馨、菊池武彦等六人は戦死し、負傷者十数名を出した。
この時に豊津側の連絡を受けて小倉鎮台を率いて秋月党を攻撃したのは、日露戦争で活躍した乃木希典であったという。
秋月党の最後の一戦
不意の襲撃を受けて秋月党は何とか危地を脱して逃げてきたものの、食糧も弾薬も乏しく、兵も次第に減少していき、到底勝ち目はなかった。磯淳ら七名は兵士を集め、自らが責任を問って自刃し、解隊することを決意した。七名連名で秋月区長宛てに「今回の挙は自分等の主として計画せしところであって、従軍の士に至っては唯自分等の煽動に乗ったのみで、固より他意或るものでないことを述べ、寛典の処置あらんことを請う」旨の遺書を記し、十一月一日に自刃している。
しかながら、あくまでも最後まで戦って勝敗を決すべきだとして解散に従わなかった者も少なからずいた。とは言え、これからどう戦うかについて意見は様々であった。
ここに於いて衆議は紛々として、或いは江川谷の要害に拠って極力防戦すべしという者もあり、或いはこれより秋月の台兵を逆襲し、最後の決戦を試むべしという者もあり、或いは各地に潜伏して、熊本、萩の動静を察し、これと連絡して事を決すべしという者もあり、議論に時を移して、各自その思う所に向かってこの地を引き揚げた。あとに残った者は今村、牟田、田島、白根をはじめ党中屈指の人物のみであったが、この時まで沈黙していた今村は決然として、「諸君の血誠は実に感ずるに余りあるところである。自分は不肖ではあるが、再び諸君と姿勢をともにして最後の決戦を試みるであろう」と叫び、自らその残れる決死隊を率いて直ちに江川谷を下り、下戸川内より古処山の方向に向かって出発した。
同上書 p.761
抗戦派の今村は、生死を共にすると誓った十七名で十一月一日に最後の一戦を試みている。
午後十一時、今村等は麓に出で秋月学校を襲撃したが、既に間諜の報告によって襲撃を知ったる学校は、門前に数個の高張提燈を掲げ、暴徒の襲来を見ると等しく校内より抜刀して突出して来た者があった。今村等はこれと格闘してその一人を斬ったが、これ秋月区長江藤良一(長州人)であった。その他は皆逃走したため、これを追ってまた一人を斬ったが、これは出張の県官加藤木貞三郎(水戸人)である。この夜暴徒の中にも二名の負傷者を出したが、二名は皆その自宅に帰って自刃した。残れる今村等は学校に在りたる官吏を駆逐せし勢いに乗じて男女石(おめいし)*に向かい、警官出張所を襲撃した。
同上書 p.762~763
*男女石:夫婦石
今村らは警官出張所において警部補一名を殺害し、倉庫に押収されていた兵器弾薬を輸送して、十一月三日の午前六時に意気揚々と秋月に引き揚げている。
今村等は・・・天満神社の前に於いて隊伍を整え、武運長久を祈って後一同に向かい「諸君の血誠は神明の冥護を得て、秋月及び男女石なる敵兵を駆逐して一の目的を達し得た。是より各地の官軍を引き受けて最後の決戦を試むべきであるが、この地で血戦しては秋月の町が兵燹(へいせん:兵火)に罹るの虞れがあるから、市街外なる要害を選び、暫らく陣地を移して数日の労を慰し、快く官軍と雌雄を決しよう」と告げ、凱歌を揚げて秋月を去り、夜須郡三個山なる山間に退いた。この時今村等は意気未だ衰えなかったが、既に刀折れ弾尽きて奈何ともすべからざる状態に陥っていたため、その村の里正の家に兵器を預け、各自に離散せしめて、自身も暫らく各所に潜伏して踪跡をくらましていたが、遂に捕えられて斬に処せられ、各地に潜伏した者も多くは出でて自首し、事は全く治まった。
同上書 p.764
十二月三日に福岡臨時裁判所で判決が言い渡され、首謀者とされた今村と他一名は即日斬首され、約百五十名に懲役、除族などの懲罰が下されて本件は一件落着したが、秋月の乱に続いて萩でも大きな士族の反乱が起きている。
各県の不平士族たちは連絡を取り合っていた
昭和十五年に出版された『生きている歴史』という本があり、この本に秋月の乱の同志の一人であった戸原文熹翁の証言が出ている。戸原はこの乱が起きた時は、熊本の敬神党(神風連)や萩の前原らと連絡を取る役割りであった。このような役割のメンバーは熊本(肥後)にもいたようで、戸原は熊本に行って池辺吉十郎から入手した鹿児島の士族の動きをこう述べている。
私が肥後から帰るとき、桐野(利秋)あたりの意見は国内のことはしばらく国政を見た上でのことにしよう。が、事、外国に関してならいつでも立ち上がる、という意見だから、秋月の同志にもこの由を伝えてくれと、池辺吉十郎から伝言されたことがある。
毎日新聞社サンデー毎日編集部 編『生きている歴史』教材社 昭和15年刊 p.66
鹿児島の士族は直ぐに起ち上がる考えではなかったことがわかるが、戸原文熹翁の証言は作り話ではなく、明治四十一年刊の『西南記伝. 上巻2』に池辺吉十郎の動きが記録されている。
池辺は萩に赴き前原一誠を訪てその意見を叩き、その帰途、秋月を過ぎ、磯淳、宮崎重遠等と謀るところあり。熊本に帰りし後、同志松浦新吉郎を鹿児島に派し、桐野利秋を訪い、その意見を問わしめたるに、桐野は之に応ぜざりき。・・・当時敬神党中、西郷党と提携して事をなさんことを唱うるものありしも、両者の意思疎通するに至らずして止みたり。
黒竜会 編『西南記伝. 上巻2』黒竜会本部 明治四十一年刊 p.540
話を戸原文熹翁の証言に戻そう。彼が池辺と連絡を取って秋月に戻ったころには、すでに同志が蹶起したあとで、近くに同志はいなくなっていたという。「もう少し早く帰っておれば、むろん私も今日まで生きてはおりません。」と語っている。
戸原が語る豊津士族に裏切られた話や、磯淳ら七名が切腹した話は重複になるので省略するが、磯淳ら七士が切腹した跡地に、有志の手によって明治四十一年に「秋月事変七士之碑」を建てたことが語られている。この碑文の撰文は彼の叔父の戸原大復が書き、文字は彼自身が書いたという。碑文の一部を引用する。
・・・明治の初に在り、廟堂幕府の余弊を承け、外交その道を失い、天下騒然として、交々起ちて之を攻む。是より先、七士四方の志士と力を戮せて国勢を回復せむことを図る。事敗れてその志を遂げず。ここに於いてその衆を散遺し、その罪を引きて死にこの地に就けり。
『生きている歴史』 p.69
「秋月事変七士之碑」は今も残されていて、『青春の城下町』というサイトの記事に、その碑の画像を見ることが出来る。
秋月党だけでなく、当時「不平士族」と呼ばれた士族たちが明治九年以降各地で起ちあがった理由は、戸原文熹翁の言葉にヒントがある。
あれからずいぶん世の中も変わりましたなア。日本も何と強くなったものでしょう。当時われわれの不満は、何事についても西洋にあなどられていることが口惜しくて、とうとうあんな事件を起こしてしまったのだが、今の日本は何といっても強くなった。当時の同志が夢想だにしなかったほど国権は伸長した。
同上書 p.70
この時期に士族たちが起ちあがったのは、士族の不遇が最大の理由であったとは思えない。当時政府が推進した行き過ぎた西洋化と日本伝統文化破壊が、彼らにとって我慢が出来なかったという側面を忘れてはならないのではないだろうか。
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