根来寺の歴史
今年の春に、和歌山県岩出市にある根来寺(ねごろじ)を訪ねてきた。
この寺の歴史は開祖・覚鑁(かくばん)上人が太治五年(1130年)に高野山に伝法院を開いたことに始まる。長承3年(1134年)に覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山の改革を図ろうとしたが激しい抵抗に会い、覚鑁一門は高野山を下りて大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移している。その後、正応元年(1288年)に現在の場所に大伝法院が移されて一大伽藍が整備されていったという。室町時代後半に作成された『根来寺伽藍古絵図』(和歌山県指定文化財:下URLご参照)には数多くの堂塔伽藍が描かれ、多数の坊社名が書き込まれている。
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室町時代末期は根来寺の最盛期で、寺領72万石を数え、坊舎が450に及んだとされ、根来衆と呼ばれる僧兵が1万以上いたと言われている 。
根来衆は戦国時代になると戦闘に参加するようになり、信長に対しては信長の紀州征伐にも加勢するなど好意的であったが、天正13年(1585年)に寺社勢力の強大化を警戒した秀吉に攻め入られ、大塔・大師堂などの一部の堂塔を残して全山消失してしまった。
その後しばらく復興することが許されなかったが、江戸時代になって紀州徳川家の庇護のもとに主要な伽藍が復興されていったという。
上の画像は天文十六年(1547年)に建造された国宝の大塔だが、二層の塔でありながら高さが40メートルもあり、醍醐寺の五重塔(38.2m)や法観寺の五重塔(通称「八坂の塔」38.8m)よりも高いのには驚いた。この日本最大の多宝塔が、奇しくも秀吉の紀州攻めによる焼打ちを免れ、その後も落雷などで焼失することもなく、今日に残されている。
上の画像は文政九年(1826年)に再建された大伝法堂だが、この建物は光明真言殿、大門、不動堂、行者堂、聖天堂とともに近々官報の告示をもって正式に国の重要文化財に指定される予定である。
種子島に伝来した鉄砲をいち早く入手した杉ノ坊とその後
根来寺を拝観している途中で、天文十二年(1543年)に種子島に伝来した鉄砲がこの根来寺に伝えられたことを思い出した。
薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に書いた『鐡炮記(てっぽうき)』には、種子島に鉄砲が伝来した際に種子島時尭(ときたか)が二丁を購入したのち、この鉄砲を購入する目的でいち早く種子島を訪れたのが根来寺の「杉ノ坊某」であったことが記されている。
この『鐡炮記』の原文と現代語訳が電子書籍化されている。
同上書には、
此の時に於て、紀州根来寺に杉ノ坊某公といふ者あり。千里を遠しとせずして我が鉄砲 を求めんと欲す。時尭、人の之を求むるの深きを感ずるや、其の心に之を解して曰く『…(中略)…且つ復た 我が求めずして自ら得るすら喜んで寝ねられず。十襲して之を秘す。而るを況や来って求めて得ずんば、豈復た心に快からんや。 我の欲する所は、亦人の好む所なり。我、豈敢へて独り己 に私して匱におさめて之を蔵せんや』と。即ち津田監物丞を遣はし、持して以て其の一を杉ノ坊に贈らしむ。且つ、妙薬の法と放火の道を知らしむ。
(南浦文之『鉄砲記(現代語訳付き)』古典教養文庫Kindle版80/241)
『鉄炮記』には、根来寺の「杉ノ坊某」がいつ種子島を訪れたについては書かれていないが、種子島時尭は、鉄砲を求めるためにわざわざ和歌山から訪れた「杉ノ坊某」の熱心さに感心し、購入した鉄砲のうちの一つを譲ることを決断して、火薬の調合の方法と発火の方法を家臣に教えさせたことが記されている。
その後時尭は、島の鍛冶職人数人にこの鉄砲と同様のものを製造するよう命じたのだが、どうしても作れない部品が存在した。それが銃身の底を塞ぐネジであったという。
ところが翌年(1544年)に、再び南蛮人が乗った船が種子島の熊野の浦に来航した。その中に一人ネジの作り方を知る者がいたので、時尭は鍛冶職人金兵衛清定を遣わしてネジの作り方を学ばせ、その数か月後に金兵衛はネジの製造方法を修得し、その後に数十挺の鉄砲の製造に成功したことが記されている。
『鉄炮記』を素直に読めば、根来寺の「杉ノ坊某」は種子島時尭が鍛冶職人に鉄砲の製造を命じる前に会っているので、種子島で学んだのは火薬の調合の仕方だけで、ネジの作り方は知らないままで根来に帰ったことになる。
ところが、根来寺のある和歌山県岩出市のホームページには『根来寺の歴史』について、こう記されている。
天文12年(1543)8月25日(種子島の門倉岬)に明国船の姿現われ、三名のポルトガル人(南蛮人)により鉄砲火薬その他西欧文物が伝えられた。根来寺杉ノ坊算長(津田監物)は自ら種子島に渡り、鉄砲と火薬の製法を習いこれを根来の地に持ち帰りました。その鉄砲と同じ物を根来坂本に住む、堺の鍛冶師、芝辻清右衛門に製作させたのが本州最初の鉄砲と言われています。
和歌山県岩出市ホームページ『根来寺の歴史』
『鉄炮記』では津田監物は種子島時尭の家臣のように書かれていたが、ここでは「杉ノ坊某」は杉ノ坊算長(さんちょう)のことで、津田監物と同一人物になっている。しかも、 堺の鍛冶師、芝辻清右衛門に鉄砲を製作させるにあたり特に大きな問題が起こったようには書かれていないのである。
Wikipediaによると杉ノ坊算長は、「津田正信を祖とした楠木氏一族の末裔を名乗る。紀伊国吐前城(現・和歌山県和歌山市吐前)主。根来寺僧兵の長。火縄銃の名手で、日本における鉄砲術の基礎を編み出したとされ、「津田流砲術」を創始した。」とある。そして算長が鉄砲技術を畿内に持ち込んで、紀伊・堺で鉄砲の大量生産が始まったという。
わが国で最初に鉄砲を完成させたのはどこか
では、杉ノ坊算長に命じられて堺の鍛冶師、芝辻清右衛門が鉄砲の生産に成功したのはいつのことなのか。岩出市のホームページでは「本州最初の鉄砲」と記されているが、この言葉の意味は、おそらく「種子島より遅いかもしれないが、自力で鉄砲の生産に成功した」ということだと思われる。この記事にはネジについては何も触れられていないのだが、この生産方法を自力で考案したか、種子島とは別のルートから製造法を学んだかのいずれかなのであろう。
和歌山市のホームページの津田監物算長の解説記事には、こう記されている。
『鐡炮記』より後に編纂された 『鉄炮由緒書』 では、算長は根来西坂本の刀鍛冶・芝辻清右衛門に種子島由来の鉄砲の複製を命じたとされ、天文十三年(1544年)には紀州第1号となる鉄砲が誕生しました。その後、清右衛門は堺に居を移し、堺での鉄砲生産にも大きく寄与したのです。
和歌山市ホームページ 「和歌山市ゆかりの人物」
このように紀州第一号となる鉄砲は種子島に鉄砲が伝来した翌年の天文十三年(1544年)に完成したとあるのだが、この記述が正しいとすると、種子島において鉄砲が完成した頃とあまり時期的には変わらないことになる。
和歌山市のホームページの解説には『鉄炮由緒書』において根来で鉄砲が完成した日付が記載されていないのだが、もし書かれていたとしても『鉄炮記』の原文に、種子島で第一号の鉄砲が完成した日付が書かれていないので、どちらが早かったかは、この二つの資料だけでは判断できないことになる。
最初に紹介した『鉄炮記』に戻って、種子島時尭が金兵衛清定に命じてネジの製造方法を学ばせるところから原文で確かめてみよう。
金兵衛清定といふ者をして、其の底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、其の巻いて之を蔵むるを知れり。是に於て歳余にして新たに数十の鉄砲を製す。
(『鉄砲記(現代語訳付き)』Kindle 版92/241
短時日でネジの製造方法を修得し、その後1年余りで新たに数十挺の鉄砲を製造したとあるのだが、ネジ以外は製造できていたのであるから、ネジが完成してまもなく 種子島の鉄炮第1号は完成したと解釈して良いだろう。
ということは、金兵衛清定にネジの製法を伝えた南蛮船が種子島に来航したのが天文十三年(1544年)なので、おそらく同じ年に種子島も根来も鉄砲生産に成功した可能性が高いのである。
したがって、それぞれの地方で鉄炮を完成した日付が分からない限り、どちらが先に作ったかについては結論が出せないはずなのだが、教科書などではなぜか「わが国で最初に鉄砲が作られたのは種子島である」と断言している。その根拠はどこにあるのかと、突っ込みを入れたくなってしまう。
杉ノ坊算長が種子島に渡って鉄砲を求めた背景
ところで、杉ノ坊算長は種子島に鉄砲が伝来したことをどうやって知ったのであろうか。また、なぜ遠い種子島まで、鉄砲を求めに行くことを決断したのであろうか。
その事情について先程の津田監物算長の解説記事にはこう解説されている。
実は、根来寺の子院の一つである杉之坊の院主は、算長の弟である明算だったのです。同坊は行人(僧兵)方の寺で、根来寺の中でも中心的な存在でした。津田家は、当時強力な勢力を持っていた根来寺に自家の子弟を出し、杉之坊の院主にしていたのです。根来寺では中国など外国製の陶磁器などが数多く発掘され、海外との交易の跡が窺えます。鉄砲が種子島に伝来したとの情報もいち早く根来寺に伝わったのかもしれません。勢力を拡大するために、強力な武器が必要だった根来寺はそれにとびついたともいえましょう。その一大仕事にかかわったのが津田監物算長だったのです。彼は永禄10年(1567)69歳で没しますが、後には津田流砲術の祖として仰がれ、その流儀は紀州藩をはじめ各地に受け継がれていきました。
和歌山市ホームページ 「和歌山市ゆかりの人物」
冒頭で根来寺の最盛期には、根来衆と呼ばれる僧兵が1万余いたことを書いたが、その僧兵の中心勢力が 杉之坊 (津田家)であった。そして鉄砲が大量に入手できるようになると、杉ノ坊算長によって鉄砲隊が組織され、算長は僧兵の長として日本における鉄砲術の基礎を作ったという。
杉ノ坊算長の死と根来寺滅亡
根来衆は当初織田信長に協力し友好関係を築いていたが、信長死後は徳川に協力したことから秀吉の紀州征伐を受けることとなる。天正十三年(1585年)三月に秀吉が根来寺に向かった時は、根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っており、寺には戦闘に耐えうる者は少なかったとされている。残っていた僧侶の多くは逃亡してしまい、寺の堂宇は大師堂、大塔など数棟を残して焼け落ちてしまった。
上の画像は嘉永五年(1852年)に再建された大門(今年度に国重文となる予定)だが、根来寺の中心部からは随分離れた場所にあるのに驚いた。現在この辺りは田や畑が大半なのだが、以前は多くの堂宇や坊舎が建ち並んでいたことであろう。
大門のすぐ近くに、杉ノ坊の住坊であったとされる愛染院(あいぜんいん)がある。
種子島で鉄砲を買い求め、鉄砲の生産に成功した後に鉄砲隊を組織し、根来衆を率いた杉ノ坊算長は、根来寺滅亡の悲惨な最期を知ることなく、永禄十一年(1568年)に六十九歳の天寿を全うした。算長の跡を継いだのは算長の次男の杉ノ坊照算(しょうざん)だが、秀吉の紀州攻めで討死してしまい、強力な鉄炮軍団であった根来衆は壊滅してしまった。生き残りのメンバーの多くは家康に召し出され、根来寺は慶長年間に再興されたという。
あまり良く見なかったのだが、根来寺の大塔には、この戦いの銃撃戦の弾痕が今も残されているのだそうだ。次回根来寺を訪れる時によく見ておきたいと思う。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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