宝塔寺の国指定重要文化財
伏見稲荷大社の南にいくつか古刹があり、以前から行きたかった宝塔寺(ほうとうじ:京都市伏見区深草宝塔寺山町)を訪ねてきた。この寺は伏見稲荷大社から歩いて10分程度で行ける場所にあり、貴重な文化財を持つ寺であるのだが、観光客はほとんどいなかった。
Wikipediaなどでこの寺の歴史を簡単にまとめておこう。この寺は、藤原基経の発願により、昌泰二年(899年)に基経の嫡子・藤原時平によって創建されたのだが、当初は真言宗の寺で極楽寺という名前であった。
その後、徳治二年(1307年)に住持の良桂が日蓮の弟子であった日像に帰依し、極楽寺は日蓮宗に改宗したそうだ。そして日像が書した法華題目の石塔婆の一つが当寺の日像廟所に奉祀されたことから、宝塔寺と言う寺名に改めたという。その後この寺は応仁の乱で焼失してしまい、長らく再建されなかったのだが、天正年間(1573~92年)に日銀が伽藍を再建し、今日に至っている。
大きな寺なのだが、昔はもっと境内が広かったのであろう。寺の西側には広域にわたり「深草極楽寺町」と、地名に古い寺の名前が冠されている。
あとで調べてわかったのだが、源氏物語第三十三帖・「藤裏葉」の帖に極楽寺が登場している。
光源氏の嫡男・夕霧の中将は、雲居の雁と相思相愛の中であったが、娘の雲居の雁を入内させたかった内大臣は二人の結婚に反対してきた。しかし娘の入内に失敗し、夕霧の縁談話を聞いて焦燥していた内大臣は、極楽寺で行われた母の三回忌で夕霧に歩み寄り、「雲居の雁との中を裂こうとしたことを許して欲しい」と話しかけた。四月に入り内大臣は、自邸の藤の花の宴に夕霧を招き、そこで二人の結婚を認め、二人はめでたく結婚することになる。
上の画像は室町時代中期に建てられた宝塔寺の四脚門(総門)で国の重要文化財に指定されている。
四脚門から石畳のなだらかな参道が東に伸びて正面には朱塗りの仁王門が見えてくる。この仁王門は宝永年間(1704~11年)に完成したもので、天井には牡丹の花や蕾が描かれている。
仁王門をくぐると正面に慶長十三年(1608年)に建立された本堂(国重要文化財)がある。残念ながら、普段は堂内の拝観は受け付けていなようである。
本道の右手には永享十年(1438年)の建築とされる小ぶりな多宝塔がある。京都市内では現存最古の多宝塔と言われており、これも国の重要文化財に指定されている。
本道の裏手から背後の七面山にのぼるやや急な石段がのびていて、当寺の鎮守社である七面社があるという。伏見稲荷大社の稲荷山巡りに思いのほか時間がかかったので今回は見送ったが、吉祥天女を祀る社殿からの京都市内の眺めが良いのだそうだ。次回チャレンジすることと致したい。
宝塔寺と明治初期の神仏分離
以前このブログで、明治初期の神仏分離や廃仏毀釈で集まった仏具類が溶かされて、明治六年に鴨川に「京都四条鉄橋」(今の四条大橋)が造られたことを書いたが、この時に宝塔寺から特大の仏具が供出された記録がある。
『神仏分離資料第一巻』にこう書かれている。
京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。かの鉄橋は、明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒ある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったと云うことである。当時廃仏毀釈の余勢が、尚お盛んであったことが判る。洛陽四条鉄橋御増架に付献上書云々とある文書が伝わってある。その一に、紀伊郡第三区深草村寶塔寺、一、古銅器大鰐口、丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。此類の物が今の鉄橋になったのである。(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編第一号所載)
(昭和四十五年刊『神仏分離資料第一巻』復刻版 p.384-385)
鰐口というのは、仏堂の正面軒先に吊り下げられていて、前に垂れ下がっているヒモを振るとがらんがらんと荘厳な音の出る仏具であるが、直径60.6cm、厚さ24.2cm、重さ63kgというのはかなり大きなものである。わざわざ『神仏分離資料』に寺の名前が出るほどであったので、この寺の出した鰐口がよほど大きくて立派なものであったのであろう。
安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会 巻之五』に宝塔寺の境内の図会が出ている。伽藍の配置は今もほぼ同じなのだが、『がらくた置き場』のminagaさんが調査した現在の伽藍配置図と比較すると、本堂の後ろにあった拝殿がなくなっていることが分かる。拝殿の後ろにある「番神堂」は、日蓮宗の寺院によくあるもので、毎日交代で国家や国民などを守護するとされている三十柱の神々を祀る神仏習合のお堂である。また七面社の前には拝殿が新たに設けられているようだが、おそらく「番神堂」の前の拝殿を移築したか新築したものではないだろうか。
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鰐口は、昔は神社でも用いられていたようだが、慶応四年(明治元年:1868年)三月二十八日に神祇事務局から出された「神仏判然令」で、神社の鰐口や梵鐘などを取り除く命令が出ているので、『神仏分離資料』に記された鰐口は、この寺の「番神堂」の拝殿に掛けられていたものと考えられる。
伊藤若冲ゆかりの石峰寺
宝塔寺から300m程北に石峰寺(せきほうじ:京都市伏見区深草石峰寺山町26)という黄檗宗の寺がある。上の画像はその龍宮門である。
この寺は宝永年間(1704~1711年)に、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、かつては諸堂を備えた大規模な寺院であったようだが、たびたびの火災で堂宇を焼失し、今では本堂(昭和六十年再建)と庫裏を残すだけになっている。
この小さな寺が有名であるのは、江戸時代の画家伊藤若冲が晩年にこの寺に住み、作品を製作したことによる。寺のリーフレットにはこう解説されている。
寛政年間に当寺に草庵を結んだ画家・伊藤若冲は禅境を好み、仏世の霊境を化度利益する事を願い、石峰寺七代住職・密山和尚の協賛を得て、安永の半ばより天明初年まで前後十余年をかけて裏山に五百羅漢を製作しました。
羅漢とは釈迦の説法を聞き、世人より供養されるにふさわしい悟りを完成した聖者のことです。釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を「五百羅漢」と称し、尊崇・敬愛の意を表すため、中国では宋・元時代より絵画や彫刻で五百羅漢像があらわされ、我が国に於いても室町時代以降多くの羅漢像が制作されました。ひとつひとつ個性的で虚飾のない表情の中に豊かな人間性を感じさせる羅漢像は庶民からも広く愛され、江戸時代には羅漢信仰がおおいに隆盛し、羅漢の群像が日本各地に作られるようになりました。
当寺の五百羅漢は若冲が磊落な筆法を用いて下絵を描き、石工に彫らせたものです。釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生涯を表現したものを中心に、諸菩薩、羅漢を一山に安置しています。当初は千体以上もの石像が配されていました。現存する五百数十体の石像は長年の風雨を得て丸み、苔寂び、その風化に伴う表情や姿態に一段と趣を深めています。
この寺も『都名所図会 巻之五』に掲載されているのだが、この本が出版されたのは安永九年(1780年)なので、若冲はまだ制作に着手して数年たったばかりである。そのために『都名所図会』の解説文には五百羅漢に関しては何も書かれていないのだが、挿絵の上の部分に若冲の名前は出てこないものの「近年当百丈山(石峰寺の山号)には石造の五百羅漢を造立し」と書かれているのが確認できる。
若冲は天明八年(1788年)の天明の大火で自宅を失い、寛政の初めに石峰寺に草庵を結び、「斗米翁」と称して米一斗と一画を交換する生活を送り、寛政十二年(1800年)に85歳の生涯を閉じ、この寺に葬られた。若冲はこの寺に五百羅漢像を残しただけでなく、観音堂の天井画も描いたのだが、残念ながらこの絵は幕末に寺外に流出してしまい、今は京都市左京区の信楽寺と大津市の義仲寺に残されているという。流出した経緯は不明だが、もし流出しなかった場合はおそらく焼失した可能性が高かっただろう。
大正四年(1915年)に本堂が焼失し、再建されたものの昭和五十四年(1979年)に放火によってまた焼失してしまった。現在の本堂は昭和六十年(1985年)に再建されたものだという。
拝観の順路通りに進むと伊藤若冲の墓がある。石峰寺では若冲の命日にあたる九月十日に毎年若冲忌を執り行い、当寺所蔵の若冲作品の展示を行っているそうだ。
五百羅漢の写真が撮りたかったのだが、撮影禁止と書かれていたのであきらめた。上の画像はリーフレットに印刷されたものである。
以前は写真撮影が許されていたのだが、Wikipediaを読めば寺が参拝者の撮影を禁止した理由がよくわかる。
2007年(平成19年)5月、石像の地蔵菩薩約30体が倒され、うち5体が損壊していた事件が起こる。
2012年(平成24年)、写真家を名乗る人物が連れたグループが撮影会と称し、石像に帽子をかぶせたりロウソクを点けたりして柵内に入ったりしたため、石像保存の観点より現在はスケッチ・写真撮影が全面的に禁止されている。
完成当初は千体近くあった石像が今では半分近くに減っていることも気になるが、こういうトラブルがあったことを知ると、小さい寺で文化財を守ることはつくづく大変なことだと思う。境内や本堂などの清掃が大変なこともあるが、マナーの悪い観光客や不審者の対応にも苦労が多いことだろう。
歴史的に価値あるものを守るのに、博物館や公共の施設に移すことは容易なことである。しかしそれでは、晩年の若冲がこの寺で晩年を過ごし、精魂込めて制作した石像と魅力ある空間を昔のままに残すことはできない。石峰寺に限らず、文化財を守る寺や神社は、代々守られて来た祈りの空間をできる限りそのまま後世に残そうと、日々苦労して居られることを知るべきである。
古いものは昔の姿のままに残されてこそ尊く、古い建物や庭、文化財や伝統文化の価値を減じることなく守りつづけ、次の世代に承継していくことは、将来的にその地域全体の観光価値を高めていくことに繋がるのである。その価値を失ってしまえば地域は観光地としての魅力を失うことになり、近隣のホテルも旅館もその存在価値を減じてしまうことになるのだ。
観光に関する施策は地域の文化や伝統や、重要な文化財を守っている人々にも光を当てるべきであり、その地域全体の観光価値が将来的に高まる政策や、地域の魅力や観光情報の発信、地域活性化にも力を入れていただきたいものである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
おはようございます~
この記事から多くのことを学びました~
ありがとうございました。
ローソファーさん、読んで頂くだけでもありがたいのに、コメントまでいただきありがとうございます。とても励みになります。
有名な観光寺院や神社は潤っても、観光客の少ない寺社は檀家や氏子が減る中で文化財や地域の伝統文化を守ることに大変な苦労をしておられます。これからも、このような寺社の話題を書きますので、時々覗いていただくとありがたいです。