田沼意知暗殺事件
天明四年(1784)三月二十四日、田沼意次の長男である田沼意知が江戸城内において、新番組の佐野政言に斬りつけられ、その八日後に死亡している。
田沼意知は天明三年(1783)に若年寄に抜擢されており、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、三十四歳という若さで命を奪われてしまった。

Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。
江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という謡曲『鉢木』に因んだ落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。
オランダ商館長のティチングが、田沼意次の政治を支えた長男・意知の能力を高く評価していたことがこの一文からもわかるのだが、この人物が、田沼意知の暗殺に関してさらに驚くべきことを書いている。
大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』にイサーク・ティチングの記録が一部紹介されている。大石氏の文章をしばらく引用したい。文中の「佐野善左衛門」は「佐野政言」のことである。
…佐野善左衛門はまったく自分の私怨からの行為と申し立てているのだが、世間はそうはとらなったようである。たとえばオランダの長崎商館長であるチチングは、その著『日本風俗図誌』のなかで、この事件についてつぎのように書いている。
『この殺人事件に伴ういろいろの事情から推察するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾(しそう)*しているように思われる。』もちろんその高官の一人が、自分が若いとき、懐に剣を忍ばせて田沼意次を刺そうと機会を窺ったことがあるという松平定信である。チチングの記述はさらにつぎのように続いている。
『もともとこの暗殺の意図は、田沼主殿頭と息子の山城守(意知)の改革を妨げるために、その父親の方を殺すことにあったとさえいわれる。…しかしながら、父親の方はもう年をとっているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある。のみならず、父親から、たった一人の息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はありえないはずだ、ということである。こういうわけで、息子を殺すことが決定したのである』というのである。
*使嗾:指図してそそのかすこと。けしかけること。
大石慎三郎 著『田沼意次の時代』岩波書店 1991年刊 p.82-83

では、イサーク・ティチングはどのようなルートからこのような幕府の機密情報を得たのだろうか。ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後一八二〇年にパリで出版されているのだが、この本は邦訳されており「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことが出来る。この本の第一部第一章に田沼意知暗殺事件の事が詳しく書かれているが、このような幕府側の機密情報の入手ルートについて、この本の出版業者ヌヴー氏が序文で種明かしをしている。
かつてティチング氏がチンスラ(インド西ベンガル地方の都市名)の総督であったとき、チンスラにいたことのある故シャルパンティエ・ド・コシーニュ氏は一七九九年にパリで出版されたその著書『ベンガル航海記』の中でティチング氏についてつぎのようにいっている。
「ティチング氏は、ある日本の大名、すなわち現在の日本の将軍の義父であり、あらゆる知識を熱心に追及している人で、ティチング氏と始終文通を続けており、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報とをティチング氏に与えてくれるさる大名の好意によって、日本に関するコレクションを、今もなお増加させている。…」
ティチング『日本風俗図誌 (新異国叢書 ; 7)』 雄松堂書店 1970年刊 p10
当時の江戸幕府の将軍は徳川家斉(第十一代)で、家斉の正室は広大院だが、その父親は薩摩藩第八代藩主の島津重豪である。

島津重豪は将軍の岳父として権勢を振るい、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を持ち、オランダ商館長のティチングとも親交があったという。ティチングは『日本風俗図誌』の中で、松平定信ら幕府高官が田沼意次暗殺事件に関わっている可能性を示唆しているのだが、このような極秘情報の入手元は島津重豪以外には考えにくいのである。
松平定信は江戸幕府の老中として十一代将軍家斉を支えた人物であり、家斉の岳父である島津重豪には幕府の裏情報が耳に入っていてもおかしくない立場であるし、ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後一八二〇年にパリで出版されているので、真実を歪めて書く動機は存在しないのだ。
年貢の増徴でなく景気拡大により税収を増加させた
そもそも、松平定信らが田沼意知を暗殺してでもやめさせようとした「改革」とは、どのような内容のものであったのか。次に田沼父子の「改革」について見てみたい。
諸藩が年貢収入のみに財政を依存していたのに対し、江戸幕府は鉱山収入と貿易収入などがあって財政状態は良かったのだが、元禄の末年頃になると次第に厳しくなり、八代将軍吉宗の頃には、旗本の給与が遅配するような状態に陥ったという。
そこで、財政再建策として年貢の増徴と新田開発を積極的に行った(享保の改革)のだが、年貢率の引き上げに農民の不満が高まり、各地で百姓一揆が頻発することとなる。

九代将軍家重の時代になるとさらに百姓一揆が増加し、寛延三年(1750年)の伊予大洲藩、宝暦四年(1754年)の越後久留米藩、郡上八幡藩などでは大規模な一揆が起り、いずれも農民側が勝利するに至っている。
郡上八幡の一揆(郡上一揆)で領主金森頼錦は領地没収、お家断絶となり、ほかにも多くの幕府や藩の役人が処罰され、一揆を行なった農民も十四人が死罪となったのだが、この評定には田沼意次が列座していたという。

有名な「郡上踊り」の十の曲目の中に「ヤッチク」という歌があり、この歌詞を読むと「郡上一揆義民伝」になっている。
今も郡上八幡の人々は毎年郡上踊りで「ヤッチク」を踊りながら、二百七十二年も前のこの一揆で犠牲になった人々に今も感謝し、その霊を慰めているのである。
郡上一揆の評定を経験した田沼意次は、年貢の増徴のような直接税の引上げではなく、商品の流通に課税して税不足を補おうと考えた。すなわち、同業者組合である株仲間を奨励して商人に専売制などの特権を与えて保護し、運上金*、冥加金**を税として徴収することで税収を増やそうとしたのである。
*運上金:農業以外の各種産業の従事者に対して、一定の税率を定めて課税したもの
**冥加金:営業などの免許の代償として支払う税。初年度は多額で以降は少額となる。
通貨制度改革と銭相場下落問題
さらに意次は通貨の一元化にも取り組んでいる。
この点については大石慎三郎氏の著書による解説がわかりやすい。
そもそも江戸時代の通貨制度は、三貨体制といって、金・銀・銭といったおのおの独立した貨幣より成り立っていた。金は両・分・朱の四進法による鋳造定量係数貨幣で、その主成分は金であった。銀は銀の塊そそのものを重量の単位である貫匁ではかられる秤量貨幣で、その主成分は銀であった。銭は貫・文という十進法単位でよばれる鋳造定量の計数貨幣で銅が主成分であった。(ただし鉄を主成分とした鉄銭も一時期であるが鋳造されている)
ところでこの三貨のうち金と銀とは、日本経済の基幹活動に利用される高額貨幣であり、両者の間にはおおまかではあるが、金は江戸を中心とする関東、および東国、中部地方、銀は京・大坂を中心とする畿内、および西国・日本海地域で通用するといった、通用区域にちがいがあった。銭は小額貨幣で、金・銀のように通用区間に別なく、全国共通に使用された。
同上書 p.107
高額通貨の通用区域が異なるということは経済圏が異なることを意味し、金が通用するのは関東・東国・中部地区、銀が通用するのは畿内・西国・裏日本であった。また金・銀の交換比率は時々刻々変動し、それにつれて銭の相場も変動していたという。

通貨の一元化のために田沼意次は「明和五匁銀」「南鐐二朱判」という銀を素材としながら通貨金の計算値である「朱」で表示した通貨を作り、南鐐百両に対し、金百二十五両の相場が建てられたのだが、両替商から猛烈な抵抗を受けたという。田沼意次失脚後、松平定信によって新通貨の鋳造は中止されたのだが、田沼のやろうとしたことは時代の要求に沿うものであり、松平定信が解任された後に、鋳造が再開されたのだそうだ。
大石氏はこう述べておられる。
田沼政権は巨大商人資本と結託しているということがよくいわれるが、通貨政策で見るかぎり、巨大商人資本の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる。…中略…
宝暦―天明期は、天明の飢饉以降を除けば、江戸時代でもっとも物価の安定した時期をなしている。したがって、この時期は庶民生活も安定した時期ということになるが、ただ一つ気になることがある。それは金銀銭三貨のなかで、庶民大衆の通貨というべき、銭の相場が下がるということである。…中略…
寛文から元禄にかけて、庶民経済が大きく拡大(したため)…銭の需要がとみに増し、元禄以降は不足気味となり、金一両に錢四貫文という幕府の希望公定相場に対し、銭高が目立つことが多かった。そこで幕府は明和二年(1765)頃から、江戸の亀戸、武蔵の川口、京都の伏見、肥前の長崎など広い範囲で鋳銭を続け…た。また明和の銭の増鋳は、従来のように銅が主材ではなくて、鉄銭であったことも相場を下落させる要因であった。
また水戸藩が、内続く凶作・火災などで困窮した農民を扶助するためという名目で、明和五年(1768年)水戸藩太田で行った「太田鋳銭」(鉄銭)も事態を悪化させるのに一役買った。そのことは、銭安相場の開始が、この太田鋳銭の開始と歩調をあわせていたことでも知られよう。
同上書 p.113-114

田沼意次が第九代将軍家重によって一万石の大名に取り立てられたのが宝暦八年(1755)。第十代将軍家治に重用され側用人に出世したのが明和四年(1767)、老中首座の松平武元が死去し、幕閣において政権を握ったのは安永八年(1779)で、重商主義的な政策を採ったのは天明元年(1781)からのことである。
田沼意次が幕政を主導していた時代を「田沼時代」と呼び、「宝暦―天明期」がその時代であると理解されているのだが、銭の相場が低下した問題は江戸幕府の通貨政策だけで議論することは公平ではなく、水戸藩が農民を扶助する名目で、明和五年(1768)以降大量の「太田鋳銭」(鉄銭)を製造したことも考慮に入れる必要があるだろう。水戸藩の農民が、銭安の原因がこの通貨にあると判断して鋳銭工場を焼き払った事件があったそうだが、その後も水戸藩は鋳造を続けたという。幕府はこの「太田鋳銭」が錢の通貨安に繋がっていると判断し、明和九年(1772)に鋳銭禁止令を出しているのだが、そもそも幕府が通貨供給量を統制できずして、銭通貨の価値を維持することは困難であろう。
大石氏は続けて、こう記しておられる。
安永三年(1774)、田沼意次は老中と側用人を兼ねるが、この年幕府は錢相場下落による庶民の難儀を救うため、幕府が行なっていた鋳銭を中止するとともに、真鍮錢の鋳造量を半減するなど、銭安相場を直すために、あれこれ努力するが成功せず、銭の異常安のもと庶民の怨嗟の声につつまれて田沼政権は崩壊している。しかしその後に出てくる松平定信時代にも一時若干改善されるが、それも再度おそってくる銭安相場のなかで退陣している。錢安相場は江戸時代後半期の宿痾(しゅくあ)であった。
同上書 p.115
また、印旛沼・手賀沼を開拓したことは教科書にも記されていたのだが、田沼はその開拓資金を江戸幕府からではなく、殖産興業として町人資本の出資によって実施したことも画期的なことだと思う。
天明大飢饉の最中に失脚

田沼意次にとって運が悪かったのは、明和九年(1772)の明和の大火で江戸の中心部が焼けて多額の出費を余儀なくされ、さらに天明三年(1783)に浅間山の大噴火したのち凶作が続き、天明の大飢饉(1782-1788)と呼ばれる食糧難の時代が続いたことを考慮に入れる必要がある。田沼意次が失脚したのは飢饉の最中である天明四年(1784)なのだが、相次ぐ大災害にかこつけて妄言を撒き散らす政敵に足元をすくわれたと考えている。
大石氏の著書に田沼意次の遺書が紹介されている。その最後の部分を紹介したい。
借金がたとえば千両できたとすると、その金利はたいてい十パーセントは必要だから、翌年は知行地が百両分減ったことになる。もし借金が大きければその割合に減る分はふえるものであるが、たとえ領地高が半分になってもその理が弁えず、大借金になって建て直す方法がなくなるものである。このことをよく心得て常々心を用い、いささかの奢りもなく、無益の支出ははぶき倹約を怠らぬように。もしやむを得ない儀で少しでもやりくりが悪くなったら、そのことを深く心にとめてとりしきり、役人たちにも厳重に申し付け、余裕金が相応にできるよう、少しの油断もなく心掛けること。
もっともそうかといって、領地の百姓に年貢など無体に強く申し付け、それで財政の不足を補おうなどと筋違いのことは決してしてはならない。すべて百姓町人に無慈悲なことをするのは、御家の害、これにすぎるものはないのだから、いくえにも正道をもってすべてのことに臨むべきである。
同上書p.232
法人減税を進めながら大衆課税を強化し、本来やるべき歳出カットの努力をせずに、海外や利権につながる企業・団体にバラ撒きを繰り返すどこかの国の政治家や官僚に、是非読んでいただきたいような文章である。
わが国では長きにわたり田沼意次について「賄賂政治家」というレッテルが貼られていて、今も多くの国民がそのように認識されているのではないかと思うのだが、調べていくと極めて全うな考えを持った政治家であり、真の悪人は、息子の意知を暗殺したうえ嘘のプロパガンダで意次を政界から葬り去った松平定信の一派の方ではなかったのか。
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