総会決議前後の張学良の動き
前回の記事で一九三三年二月二十四日に国際連盟総会において松岡洋右が最後の演説を行い、そのあとで満州問題に関する報告書草案の採決が行われ、賛成四十二票、反対一票で可決されたことを書いた。草案には、国際連盟は満州の主権が支那にあることを認め、満州国は承認せず、満州鉄道付属地外の日本軍の撤収を求めることなどが書かれていて、この草案の可決により後日国際連盟はわが国に対して「勧告書」を出すことになるのだが、この勧告書には法的拘束力はないとはいえ、国際連盟規約第十六条第一項には、もしわが国から支那に戦争を起こした場合は「他の総ての同盟国に対し戦争行為を為したるものと看做す」と定められており、その場合はわが国が経済制裁などを受ける可能性があったのである。
そのことは支那にとってみると、「勧告書」が出た後に日本軍が鉄道付属地以外の地域に進軍すれば、日本が侵略戦争を起こしたと主張することで、国連加盟国の軍事支援が得られる可能性が高まることを意味している。
以前このブログで書いた通り、山海関事件のあと日支の小競り合いが多発し、その後南京政府の命により張学良が満州国南西部の熱河省に一万五千の大軍を進めたのだが、熱河には日本軍に討伐された敗残兵匪が多数集結していて、張学良は彼らを用いて、鉄道の破壊や村落の掠奪・放火等を繰り返していた。一方満州国は熱河の匪賊討伐の為の準備を進め、日本軍も日満議定書の定めにより満州国軍に協力する予定であった。
上の画像は二月二十五日の東京日日新聞だが、この記事が書かれた二十三日は、松岡が最後の演説をした国連総会の前日のことである。
…南京対岸の浦々には最近英国ブリュー・ファンネルの英国汽船、一万五千トン級の米国汽船が交る交る横付され、夥しい武器が北方へ輸送されつつある。また対米借款四千万元借入説も支那側に伝えられつつあり、いずれにしても宋子文の北平における列国公使に対する泣きつき恫喝はある程度の成功を見、熱河問題に対し支那がとる戦争手段は列国より見て正当化されたものと確信されている。思うに国民政府の対熱河政策の中心は、『如何にして熱河の戦局を永引かせるか』ということに集中されている。即ち国民政府は熱河における日本に対する抵抗をもって全面的日支戦争であるとの印象を痛烈に与え、日本の戦争行為を訴えて列国の熱河問題に対する干渉、即ち連盟規約第十六条の適用を要求する段取りである。…中略…
宋子文は熱河戦争三ヶ月分の戦費として三千万元は捻出する見込あることを中央に報告している。張学良よりも少なくも二ヶ月は熱河において食いとめ得る見込みあることを中央に報告し来っているので国民政府はすでに成算たったと称し、長江一帯においてはむしろ沈静な態度を取り日本とことをかもすことを極力防止する方針となり、外国通信を買収して対世界宣伝戦に大童となることとなった。南方支那において熱河問題を観測すれば日本は今までにない重大な時期に逢著したるが如く見える。即ち熱河の戦局を遷延する時は徒らに支那のわなにかかり国際的に更に不利な事態を招きはせんか。従って熱河問題の最も重要な鍵は熱河の戦局を遷延することなく、一挙に短時間に解決するということにあるのみと観取される。
「神戸大学新聞記事文庫」外交124-61
国際連盟の総会決議の前から英米が支那に大量の武器を支援していたことが明らかだ。支那が何を企んでいたかは日本軍もある程度分かっていたと思うのだが、満州の治安を改善させるためには匪賊を掃討しておくことは必要不可欠であり、満州国も同じ思いであり日本軍に対し支援を要請していた。日本軍は二月の上旬から張学良軍と匪賊を掃討する準備に取り掛かっていたのだが、さすがに国際連盟の勧告書が届いてからでは自衛目的であったとしても日本軍は動けない。最後の国際連盟総会で採決される報告書の内容がわが国に圧倒的不利な内容であることが判明した以上、満州国治安回復のためにはなるべく早く匪賊を掃討しておくしか方法がなかったのである。
日満軍による熱河討伐
二月二十一日に関東軍早川部隊が動き北票を完全占拠し、二十四日には満州国軍隊の一部が開魯を占拠し、二十五日には関東軍三宅部隊が朝陽を占拠、茂木部隊はククチョルの宿営地を潰滅させ、神代部隊は綏東を占拠するなど順調に勝ち進んでいった。というか、支那軍があまりに弱すぎたのだが、彼らは逃げながらも「日本軍に大勝した」といったデタラメを南京に報告していたという。
熱河作戦の戦況については昭和八年刊『熱河討伐及熱河事情 : 世界知識增刊』(GHQ焚書)に写真とともに詳しく記されているが、熱河平定に至るまで「戦争らしい戦闘は之を観ることが出来なかったが、道なき道、山また山の難路を突破して、戦史上稀に見る急進撃に成功した日満軍の辛苦は実戦にもまして想像すべからざるものがあった」と書かれている。
この日満軍の破竹の勢いに支那はかなり動揺したことが新聞に報じられている。上の画像は二月二十八日の大阪朝日新聞だが、張学良が南京にいる蒋介石を訪ねて応援を要請したのだが断られたことが記されている。
蒋介石と学良の関係であるが、学良は熱河が日満軍に平定せらるることは如何ともし難いから自己の責任を免れるため先般段が南下した後を逐って南京にいたり蒋と会見し、是非蒋に北上して抗日軍の総帥とならんことを懇請したが、蒋の方でも熱河問題の責任を学良に塗りつけようとの魂胆でこれを拒絶し、南京を空にして漢口に赴き何応欽、陳紹寛、朱培徳ら南京政府の要人も上海に逃れて熱河問題の責任を追及されんことを避けている。かく南京政府は熱河問題は専ら学良一人の責任に帰しようとしているが北支に動乱が起ればその必然の結果として中支にも経済的政治的影響の及ぶは当然であって、殊に上海にある淅江財閥が最近非常に苦境にあり、旧節季にも大商店や大銀行などはほとんどすべて支払を延期しているという有様で、淅江財閥の凋落はやがて南京政府の凋落の前提であり熱河問題を契機として北支から全支にわたって重大なる変化を来すであろうと見られている。
「神戸大学新聞記事文庫」外交124-97
日本軍の熱河討伐作戦は三月半ばに終結したのだが、その後も日本軍の進撃が続き北平に至る前の五月に支那と停戦協定(塘沽協定)を締結している。
責任を問われた張学良
張学良が熱河奪回にこだわり続けた理由は、この地方が阿片の特産地であり、満州事変の前まではアヘンの輸出税により巨利を得ていたからである。ところが満州国はアヘンの売買を禁止し、熱河の軍閥は私腹を肥やす道を失っていたのである。
アヘンはケシの実から採集されるものだが、熱河省の財政収入の半分はアヘンの税金によるものであったという。三月一日付の時事新報には次のように記されている。
張学良が熱河に恋々として居る一半の原因は阿片にある。夫れ程熱河省の阿片栽培は旺盛で経済的にも亦重要性を持つ。例えば熱河省財政の収支の約半分はその税金で持って居り、常に貪欲飽くなき支那軍閥の垂涎の的になって居る。…中略…
本来阿片の栽培に就ては中国国民政府から度々その禁止令が下って居るのであるが、栽培を禁ずれば省の財政が保たない。そこで歴代の当局は、国民政府の禁令を物ともせず栽培を奨励して来たのである。そして旧省政府の役人はその収入で自己の私腹をこやし、東北諸省並に京津方面にまで売捌いて巨利を占めているのである。また湯玉麟や学良部下の兵匪どもは阿片の掠奪吸飲が出来るので熱河駐在を喜んで居る。故に阿片を絶たれると学良や湯玉麟麾下の兵匪はフラフラして動けなくなるものが多いとは嘘のような話しである。
「神戸大学新聞記事文庫」外交124-108
国民政府がいくら禁止しても、熱河では阿片の栽培が奨励されていたというのだから、松岡が演説で指摘した通り支那は統一国家ではないことは明らかだ。また支那兵が日満軍に簡単に敗れてしまったために張学良はその責任者として糾弾されることになる。
今回の熱河敗戦により、支那は満州への補給路が断たれてしまい満州回復は困難となった。三月七日付の大阪朝日新聞は国民政府の方針が変わったことを報じている。
(この事態は)世界の援助により解決することは不可能でまた支那の武力をもってするは一層不可能である以上、政府としては
一、満洲放棄即ち積極抗日政策の解消
二、平津においては反日策動を弾圧して治安を維持すること
三、張学良を満洲問題の責任者とす
の三大方針に則り善後処置を考究することとなった。
「神戸大学新聞記事文庫」外交124-135
二番目の方針である「反日策動の弾圧」というのは、二月頃から江西省が共産軍に襲われるようになり、四月には江西省の三分の二近くが共産軍に占拠され、隣接する省への脅威が増していた。蒋介石は、日本軍に対しては融和策に転換して、何よりも江西省の共産軍を排除を優先することを決定し、日本軍との停戦協定を進めた。そのために一時的に反日策動を弾圧したが、いずれ復活することとなる。
一方敗残の将張学良は公職を離れ、十数万の軍隊を残して四月十日にイタリアに向けて外遊の途についたのだが、国民政府は七月に張学良に対して「指示があるまで帰国すべからず」との命令を出している。
五月に日本軍との停戦協定が成立したばかりの時期に張学良に帰国されては、ようやく平穏を取り戻した満州が撹乱されることになりかねず、江西省の共産軍掃討に集中できないと国民政府が考えたのは当然の事だろう。しかしながら張学良は政府の了解もなく十二月に帰国し、一九三六年十二月には蔣介石を拘束して第二次国共合作を認めさせている。(第二次国共合作)
蒙古民族も支那からの独立を求めて動き出した
話は再び熱河討伐の頃に戻るが、この頃に蒙古民族で大きな動きがあった。
熱河省は満州国に編入されたていたが、この地域はかつては蒙古民族が主に居住していた地域であった。「察哈爾」という名は、熱河省の西側にある内蒙古の察哈爾省のことである。内蒙古の全土は蒙古人の故地であり、満州と同様に、歴史上漢人によって支配されたことのない地域である。
察哈爾に住む人々は、隣の熱河で日満軍により匪賊が掃討されたことを知り、満州民族が支那から独立して満州国を創ったように、蒙古民族も支那からの独立を求めて動き出したことを大阪時事新報が報じている。
満洲国溥儀執政に「蒙古民衆独立のため、同情ある協力と援助をまつ」と陳情して起ったものは誰か――錫林勒盟を先頭として、東亜の新舞台に踊りでた察哈爾全蒙古民衆である。コロンバイルと熱河省にかこまれた「内蒙チャハル」である。「赤化か、王道か」――、かつて「アジアの嵐」であった大蒙古は、今この謎を東亜民族に投げかけて――「嵐を呼んで」いるのではあるまいか――。…中略…
内蒙古の中で熱河省と興安省は満州国に含まれ、蒙古人は王道主義政治の恵沢に輝いている。内蒙古の中でも、察哈爾省と綏遠省はその外にある、しかも真紅の大外蒙古が、満州国の北西方にのびている。東洋民族の平和の上に投げかけられた問題は「赤化か、王道か大蒙古よ」である。
「神戸大学新聞記事文庫」政治45-126
「盟」というのはモンゴル語で「アイマク」とも言い、遊牧地を共有する遊牧民の共同体を意味し、これが内蒙古の行政区画として引き継がれていて、「錫林勒盟」は東西に広がる内蒙古の中央あたりに位置している。内蒙古の北側には広大なゴビ砂漠が広がり、その砂漠の北側は「外蒙古」あるいは「外蒙」と呼ばれているが、外蒙古は既にソ連・コミンテルンによる赤化工作が進んでおり、内蒙古は体制を固めておかないと共産主義に呑み込まれてしまう怖れがあった。詳しい話は省略するが、一九三六年に内蒙古軍と支那軍とが全面衝突し、一九三九年に察哈爾の徳王が日本の支援を受けて蒙古連合自治政府を誕生させている。
張学良失脚後の蒋介石の動き
話を張学良の下野に転じよう。国際連盟は張学良が満州を統治することを前提に支那贔屓の草案を作成し可決させたのだが、満州の人々は張学良による満州の統治などを全く望んでおらず、張学良軍が掃討されて満州が落ち着いたことが誰の目にも明らかになった。さらに張学良が下野したということになると、国際連盟にせよ英米にせよ、描いていたストーリーの大前提が狂うことになってしまった。
三月十二日の大阪時事新報は、蒋介石が連盟も英米も頼りに出来なくなったことを報じている。
張学良を北支に、蒋介石政権を中央の南京に置いた儘、これ等両派政権の拡大強化を図らんとして懸命の努力を今日まで傾け尽し来ったのは、イギリス本国政府の指令に基いて働いた駐支公使ラムブソンの政策であった。蒋介石の意を受けて極力親米政策をとったのは南京政府財政部長宋文子である。更に又国際連盟は、満洲国の住民は旧政権学良の徳政?に随喜渇仰しているととんでもない見当違いの見解に基き、支那贔屓の判決を下しているのだ。現在支那の擬制的国家の形態をあくまで西洋式のそれと誤認して力瘤を入れて来た連盟も、学良下野と云う事実に直面してその自己の認識不足を認識しているに違いない。学良下野と北方政局の急旋回は単に日支関係のみならず、連盟もイギリスもアメリカもそして支那自身の対外政策の上に一切の清算の途を齎らすであろう。連盟もこれ迄の様な力瘤を入れることも出きまいし英米の支那に対する政策を再反省するであろう。
「神戸大学新聞記事文庫」外交129-11
以降満州の統治は蒋介石が責任を負うこととなったが、前述した通り江西省では共産軍が勢力を伸ばしており、蒋介石としては満州よりも江西省の共産勢力を排除することの方がはるかに重要であった。
上の画像は三月二十三日の大阪毎日新聞だが、蒋介石に軍事権力を集中して独裁政権を樹立したと報じている。独裁と言っても、南京政府が実質的に統治していたのは支那全体の数省に過ぎなかったのだが、その地域が共産勢力に接近されていたのである。蒋介石はわが国と停戦協定を結び兵を移動させたのだが、彼は兵を用いることなく、わが国や満州国を窮地に陥れようとした。
三月二十七日の神戸新聞には、蒋介石の宣伝戦が具体的に描かれている。
一、南京政府筋最近のカムチャッカソヴィエトで飛行場防火事件、捕鯨船事件、蘇炳文白系露人事件等を逆用し、之らは総て日本及び満洲国の対露積極攻勢の現れだと称し、日露両国の関係は一触発火の危険状態にあると宣伝してソヴィエト当局を警戒せしめ三国の離間を策し
二、日満露の離間を策する一方米露の接近を宣伝し、対内的事情よりソヴィエト連邦承認の意あるアメリカを側面より煽って承認を実現せしめ、米露接近により日満両国を現実的に苦境に陥れんと策動し
三、米露接近日露離間の所謂サンドイッチ政策実現により、日満両国を拘束状態に陥れその間に乗じて東北失地回復を計らんと策しつつあり。
「神戸大学新聞記事文庫」外交130-19
結局、松岡が国際連盟総会で主張したことが正しかったことが明らかになり、支那も次の戦略を打たざるを得なくなっていったのだが、その点についてはアメリカも同様であったようだ。
上の画像は松岡がその後渡米して、全米で二十七の新聞を発行していたスクリップ・ハワード新聞会社(現UPI通信社の前身)のハワード会長の午餐会に出席し、ハワード氏らの質問に答えて、それまで反日的色彩の強かった同社の新聞の反日的な論調を一変させたという。アメリカも支那の酷い状況を見て、一旦は反日の矛を下ろすしかなかったのだろう。
また国際連盟は、日本軍が動いたにもかかわらずわが国に経済制裁をかけることはなかったのだが、支那の状況を見れば制裁などできるはずがなかったのだ。
しかしながら昭和十二年(1937年)七月七日に盧溝橋事件が起きた。その後も日本軍は支那軍から何度も挑発行為を受け、死傷者も出ていたのだが、陸軍も外務省も隠忍自重し不拡大方針を貫いていた。しかしながら、二十五日及び二十六日に支那軍からの攻撃を受け、ついに二十八日に日本軍が開戦を通告して全面攻撃を開始すると支那軍は南へ敗走した。そして二十九日に通州で、中国保安隊による大規模な日本人・朝鮮人虐殺事件(「通州事件」)が発生したのである。こういう形でわが国は望みもしない戦争に巻き込まれていったのだが、それまで不干渉の立場を通して来たルーズヴェルト米大統領が十月五日に「侵略国の隔離」を要求する演説を行い、翌年の九月三十日の国際連盟理事会では、既に国際連盟を脱退していたわが国に対して連盟規約第十六条の経済制裁が可能との決議が行われている。アメリカは国内に孤立主義を求める声もあり当初は対日経済制裁に慎重であったのだが、一九三九年に日米通商航海条約の破棄を通告。一九四一年七月から八月にかけて、対日資産凍結と枢軸国全体に対する石油の全面禁輸措置が行われて、ABCD包囲網が完成することになる。
戦後のわが国における歴史叙述では、松岡洋右は国際連盟の脱退を決めわが国を孤立させた極悪人扱いなのだが、当時の書物や新聞記事で確認すれば、むしろ松岡はよくわが国の立場を正々堂々と主張し、一時的とはいえ国連の流れを変えたことを評価すべきだと思う。残念ながら、アメリカの圧力や支那の工作により、支那に一方的に有利な草案が可決されてしまったのだが、その後の展開は松岡の主張が正しかったことが明らかとなり、わが国が経済制裁を受けるのは国際連盟における松岡の大演説から八年もあとの話であり、わが国が戦争に巻き込まれた主要な原因は米英と支那、ソ連など連合国側の動きに着目しないと本当のところはわからない。
戦後GHQは、戦勝国や支那にとって都合の悪い史実が記されている大量の書物を焚書処分したのだが、中国や満州に関する書籍は欧米諸国に関する書籍よりもはるかに数多く処分している。そのことは、戦後のわが国の教科書やマスコミで拡散されている中国や満州に関する歴史叙述の多くは、真実とは異なる可能性が高いということではないだろうか。当時の情勢を詳しく記した本や新聞記事を読むとわかるのだが、その頃に中国が意図的に何度も世界に流していたプロパガンダが、戦後のわが国では、まるで真実であるかのように伝えられていることがよくあるのだ。
中国がわが国に関するデタラメな情報を今も世界に発信していることは、多くの日本人が認識していると思うのだが、この国が偽情報の流布を繰り返してじわじわと既成事実を積み重ねていくのは「戦わずして勝つ」ためのこの国の伝統的戦略である。このような偽情報に対してはすぐに反論してプロパガンダを無効にさせなければならないのだが、わが国の政治家も官僚も、中国と関係の深い大企業に忖度してか、中国に対して厳しく反論したり対抗策を講じることが出来ない。この点については第二次大戦前のわが国においても同様であったのだが、財界の圧力で国益が守れない状況が続いたために、戦争に巻き込まれた歴史を繰り返してはならない。
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