わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯
「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語で「マンチュリア(Manchuria)」と呼ばれるようになり、それに対応してわが国でも中国東北部を「満州」と呼ぶようになったとされる。
上の画像は1932年に成立した「満州国」の地図で、清国の「東三省」*(トウサンショウ:黒竜江省、吉林省、奉天省の三省)及び内蒙古、熱河省を領土としていた。本来は「満州」という言葉は、満州族の故地である清国の東三省を意味するが、わが国では「満州国」の領土を指すことが多いと言う。
*東三省:この地名は戦後は用いられていない。また奉天省は今は「遼寧省」と呼んでいる。
戦後のわが国においては、マスコミや書物などを通じて「満州国」や「満州」のことを詳しく知る機会はほとんどなかったので、簡単にその歴史を振り返っておこう。
長與善郎の『少年満州読本』(GHQ焚書)には満州の歴史の特徴について次のように書かれている。
満州の歴史の特徴は、昔から一つの主人公になる大きな民族がいなかったということだ。…満州では二千何百年の昔から、いくつかの小さい民族が入れ代わり立ち代わり天下をとったが、大体があの遊牧の民というもので、戦争はするが、一定の土地に長く土着して文化の発達する機も少なかったために、支那のように自国の文字で綴った一貫した歴史の記録というものがほとんど残っていない。
長與善郎『少年満州読本』日本文化協会 昭和13年刊 p.22~23
満州族はもともとは遊牧の民であり、古来騎馬・射猟を得意としていた。
太祖ヌルハチが一六一六年に後金国を建て、明を破って遼東地方を占領し、太宗ホンタイジが内モンゴルを平定し、一六三六年に国号を清(しん)と改め、満州民族を中心にモンゴル(蒙古)民族、漢民族からなる複合民族国家が成立した。
万里の長城の地図を見るとわかるのだが、満州は万里の長城の外側にあって、かつて満州には漢民族はわずかしか住んでいなかったという。しかしながら清朝の半ばあたりから、満蒙漢三民族のバランスが急激に崩れていく。
歴史で見ても満州二千何百年の間、漢人種の支那が異人種の満州を、それも高々南の一部分を領地としたのは前後合わせて七百年ぐらいのもので、残りの千六百何年間は独立か、半独立の国家だったのだ。それが清朝の半ば頃から漢民族がどんどん入り出して、満州族の根拠地は事実上漢民族に入れ代わりに乗っ取られてしまった。それはどうしてかと言うと、第一に漢民族は非常に人数が多い。そうして生活力が盛んなのだ。その上に、何千年来伝統の世界無比と言っていい独特な文化を持っていて、他の人種の風俗や習慣を自分のそれに同化させてしまう根強い力を持っている。だから金(きん)も、元も、一時は漢民族を征服しても北京に入って暫くその文化に浴しているうちに、ちょうど平家の武士が平安朝の文化に馴染んで惰弱になってしまったように、漢文化かぶれして骨抜きになってしまった。そこを見た康熙帝(こうきてい)*は、清朝が金や元の二の舞をしないように、いざという時には自分たちの元の古巣へ引き揚げて、そこを根城に頑張るために、満州を封禁(ふうきん:誰も入れないよう封じた)の地というものにして、漢人種は一切足を踏み込んではならぬという規則にしたのだ。
*康熙帝:清の第四代皇帝(在位1661~1722年)ところが、乾隆(けんりゅう)の次の嘉慶帝(かけいてい)の頃まではまだよかったのだが、その後支那には長髪賊の乱**という漢民族の一揆や、阿片戦争が南方におこり、北には英仏連合軍が攻め入ったりして、清朝の勢力が段々衰えてくると、それまで虎視眈々と機会を狙っていた別の恐ろしい国が現れて来た…中略…
**長髪賊の乱:1851年に清で起きた乱。洪秀全を天王とする組織である太平天国が起こした。太平天国の乱ともいう。一番の敵はロシアだった。しかしロシアばかりではない。ヨーロッパの各国はこの十九世紀の中頃になって、漸く盛んに植民地の争奪戦を始めたのだ。商工業の発達した強い国たちは、少しでもいい資源と生産品の売りつけ場所を奪い合いに、東洋へなだれ込んできたのだ。
同上書 p.29~30
日清戦争で勝利したわが国は日清講和条約で満州の一部である遼東半島を手に入れたが、ロシアはドイツ、フランスとともにわが国に対して遼東半島の返還を勧告した(三国干渉)。わが国はやむなくこの勧告を受諾したのだが、ロシアは清国に対してその見返りを求め、一八九六年の露清密約で満州での駐留や東清鉄道を清領内に敷設する権利を認めさせた。またロシアの役人や警察の治外法権を認めさせ、戦時には中国の港湾を使用することも認めさせている。
その後、列強諸国があいついで清国に租借地を設定し、鉄道敷設や鉱山開発などの権益を獲得していくことになるのだが、この動きに反発して一九〇〇年に清国で「扶清滅洋」を唱える義和団を中心とする外国人排斥の暴動が激化する。
この義和団事件をきっかけにしてロシアは大軍を派遣して満州を占領し、事変が終了しても撤兵せず、さらに一九〇三年(明治三十五年)五月には鴨緑江河口にある龍岩浦(りゅうがんほ)を軍事占領し、その後要塞工事を開始して朝鮮半島にも進出する動きに出た。
わが国はロシアの南下を食い止めるために日露戦争を戦うこととなり、なんとか勝利して終戦後に結ばれた日露講和条約で、ロシアの満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡されることとなった。
満州に漢民族が急増した
一九一一年の辛亥革命で清国が亡ぼされ、翌年成立した中華民国は清の領土や諸条約を承継したものの実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態で、満州は馬賊あがりの張作霖の軍閥が支配していた。その後も漢民族による満州に移住は続いたという。日清戦争の頃の満州の人口は約五、六百万人で漢民族の人口は二、三百万人であったのだが、一九三八年頃は漢民族だけで三千万人いて、人口の九割を占めるまでになったという。
ロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、わが国は国際的に何ら問題のない方法で満州の権益を取得し、それ以降満州の開発を開始することになるのだが、満州の治安が改善し経済が順調に発展していくと、その後山東省や河北省から数百万人の窮乏した農民(漢民族)が仕事を求めて満州になだれ込んできた。その背景を調べると、清国が弱体化してくると「封禁の地」であった満州にロシア人が入ってくるようになってきたのだが、清国政府はロシア人に踏み込まれるよりましだと判断して漢民族の満州移住を認めてしまったことが原因だったようだ。この人口移動によって満州を故地とする満州族よりも漢民族の人口が圧倒的に多くなってしまい、そのために漢民族が、満州の地を自分の土地だと主張することにつながっていくのである。
わが国が莫大な投資をした満州を奪い取ろうとする動き
一方わが国はロシアから受け継いで支那から得た権益と 、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通などのインフラ整備に莫大な投資をしてきたのだが、次第に漢民族に権益を脅かされていくこととなるのである。
ちょうど支那は清朝が亡びて、民国*となり、群雄割拠の軍閥覇戦時代だった。割拠するには足場が要る。その足場には満州はお誂(あつら)え向きの地の利を占めていて、出るにも守るにも楽。のみならず軍隊を養い経済的実力を富ます上には、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通の施設が完備している。だから狡(ずる)い張作霖は自分の勢力を大きくして、その頃東三省と呼ばれていた満州の主権者になるために、初めのうちはできるだけ日本の力を利用しようと,親日家を装っていた。その彼が、だんだん目的を達して支那の中央まで勢力を持つようになると、今度は満州での日本の勢力が邪魔になって来たのは当然だ。だからうわべは日本と親しく手を握るようなことをいいながら、裏ではどんどん日本の勢力の駆逐、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益(権利と利益)の踏みにじりと奪い返しにかかった。例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして、満鉄の営業を潰しにかかるとか、いろいろ邪魔をした。そういうやり口は、その子の張学良の時代になってますます甚だしくなった。
同上書 p.47~48
民国*:支那が中華民国となったのは1912年
排日教育によって反日感情が煽られて満州の治安は乱れ、侮日行為や鉄道妨害などの事件が多発し、街のいたるところで反日スローガンのポスターが貼られるようになり、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利が相次いで中国側に侵犯されるようになっていくのだが、わが国は満州に多大な投資を続けてきたので、この地を手放すことはできなかった。前掲書でこう解説されている。
日本が貧乏な国庫の中から十七億という殆んど無理な程の大資本を投じて、日露戦争以来二十七年間、孜々として満州の開発につくした事業。それもロシアのように一から十まで自分の国の利益と、政治的、軍事的侵略のための経営とはわけが違って、日本のためと同時に、満州それ自身の開発と福利のために計った数えきれない公共事業、衛生方面だけでも範囲は大変だが、例えば規模、設備ともに東洋一といわれる医院や保養院や、衛生研究所の設立。上水、下水の設備、大学以下、教育機関としての何百という各種の学校をはじめ、図書館、博物館、公園の建設。通信、交通のための会社や鉄道、道路の敷設。治安のための警察の仕事。地質、気象、資源の綿密な調査。歴史上の遺跡、史料、古美術の整理と保存。農作物と畜産の改良。山の植林事業――。
そんな風に挙げていたら際限のないほどの文化事業というものは、ただ満州を日本の食い物にしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満州という所、満州に住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ。
同上書 p.50~53
しかしだ。それ程までに打ち込んでやった仕事がすっかり他人に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような横暴な者への貢ぎ物にすぎなくなってしまっても構わん、十七億の金の掛け損になってもいいという程に日本はお目出たいお人好しではいられない。第一それでは、この満州の土と化した日清、日露の戦役の十万の護国の生霊に対しても相済まない。そうでなくてさえ猫の額ほどの狭い土地にぎゅうぎゅう詰めに人が溢れて国家の生きていく資源のなさに泣いている日本だ。どうしておめおめこれを馬賊あがりの圧政家などに手渡せよう。それももともとそこが彼ら漢民族祖先伝来の故郷だというならまだしもだ。元をただせば彼らには何の地主面をする権利もない満州民族発祥の地で、ただそこが主人のいなくなった大きな空巣も同然で、場所が場所であったために、ここが日本、支那、ロシアという三民族の生存と発展との一大争奪戦場になったというものだ。
わが国は満州に道路や上下水道だけでなく、鉄道の敷設、ならびに病院や大学や学校や図書館などを相次いで建設し、合計で十七億円もの資金をつぎ込んだというのだが、昭和初期の予算規模が十五~十九億円程度だから、かなり大きな金額であったことがわかる。さらに民間の投資が加わったのだから、満州に人が集まり経済が発展したのは当然のことである。
その満州にどの程度の日本人が住んでいたのかというと、前掲書によれば日清戦争の終わった明治三十八年(1905年)の末には日本人は五千二十五人であったが、大正七年(1918年)には十二万四千人、満州事変前の昭和五年(1930年)末には二十一万三千人に増加したにすぎなかったという。
一方で漢民族は、前述した通り清末から満州に殺到するようになり、一九三八年には満州人口の九割を漢民族が占めるようになっていた。わが国の投資に対する最大の受益者は漢民族であったとも言えるのだが、彼らは日本人に感謝するわけではなく、排日運動を仕掛けて日本人が苦労してインフラを整備し築き上げた満州の権益を奪い取ろうとしたのである。この点については別の機会に詳しく書くことにしたい。
しかしながら、わが国が莫大な投資をして大変貌を遂げた満州を狙っていたのは中華民国だけではなかった。ソ連はもっと大仕掛けで満州を狙っていたのである。
…『世界革命は東方から始めるべし』というのがレーニンの唱えたモットーだった。こうなると、日本にとってはロシアは二重の意味でふさがねばならない相手となったわけで、今まではただ軍事上からその侵略に備えるだけだったのが、今度は更に思想赤化という厄介千万な危険が加わって来た。これは国情の違うロシアではともあれ、日本国体の性質からいって、絶対に容れることのできない思想だから、もし満州の地が赤化、すなわち共産主義化されるとなると、それに隣(とな)る朝鮮はいうに及ばず、ひいては日本本国までが搔き廻される惧(おそ)れがある。ソ連としては出来るだけ他国を搔き廻して、内側から切り崩そうというのが思う壺だから、さしあたり支那に排日、抗日の思想を焚きつけて盛んに赤化を図ったが、その火は満州にも飛び火して、張学良もこれをいい日本勢力駆逐の手に用いた。一方、満州に巣喰う匪賊というものをソ連はまた背後から突っついて、絶えずその暴れるのを援ける。そうした事情が重なって険悪になっていく一方の空気は、いつか大爆発をしないでは到底収まらない。とうとう多勢の朝鮮人が殺されたあの万宝山事件*、中村大尉の殺された事件と続いた挙句の昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条湖の鉄道が支那軍に爆破されたことが最後の導火線となって、ここに堪忍袋の緒を切らした日本軍の蹶起、満州事変となってしまったのだ。
同上書 p.54~56
こう聴いてみると、満州事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、また国防と、満州での権益をしっかり保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった…
*万宝山事件:昭和6年7月に中国の長春北西の万宝山で、入植中の朝鮮人と支那農民とのトラブルで多くの死者が出た事件
戦後の日本人は、領土を奪う方法は武力侵略しか思いつかない人が大半だと思うのだが、武器を用いずに領土を奪うことは実際に行われてきた。大量に人を送り込み、その上で反日工作や赤化工作、あるいは匪賊を暴れさせるなどして日本勢力を排除したり、さらに革命でも起こせば、乗っ取ることは可能である。
わが国は大正から昭和初期にかけて、実際に様々な工作を複数の国から満州で仕掛けられていたとの認識が必要だ。戦前にはそのような史実が記された書籍が存在したのだが、その大半がGHQに焚書処分されてしまったために、戦後の日本人にはそのような史実を知る機会がほとんどなかったのである。
今のわが国の政治家や官僚や財界人で、満州で様々な工作が仕掛けられていたことを理解している人がわずかでも存在するのであろうか。大量の外国人留学生を受け入れたり、移民を推進しようとしたり、外国人に永住権や参政権まで与えてしまっては、いずれいまのわが国も、かなりの部分が日本ではなくなってしまうだろう。
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コメント
お書きに成られたような満州の歴史を少しでも知ってゐる人には、おそらく日本の今後は危ないと感じるでしょうが、なにせメディアに「文化の共生とか移民の歓迎とか」の洗脳されている現状では、乗っ取られる事は必定です。日本人の、お人好しで無知な現状では21世紀中に日本は民族的にも文化的にも滅び去るでしょう。世界史に民族消滅の好い見本が出来る可能性が大です。DSは、ここ5年以内に三次世界大戦を望んで居るようですが、近世史が彼らの計画通りに進んだように、今後も形の上でも世界制覇(DSは実質的には金融・軍事で押さえて世界制覇が完成している)が為されてしまうのでしょうか。このまま彼らのしたい放題の世の中になって仕舞うのでしょうか?。
私も同様の危機感を持っています。今まで長い間政府の施策に従順であったわが国民が、移民政策の推進やおかしなワクチン政策にどうやってストップをかけるのか。危ないという国民の判断が遅すぎては、簡単にわが国はどこかの国に乗っ取られて、彼らのしたい放題になってしまいます。
もしかすると、急速に拡大している日本大好きの外国人たちが、日本の危機を世界に発信し、おかしな流れを止めようとする世界の世論が急速に広がっていくかもしれません。
しかしながら、そういうことに期待する前に、なんとかして日本人の力で流れを断ち切りたいものです。
当時も今も、日本国内には「売国奴」が雲霞の如くゐる。「山本如きが国葬なのかね」は、昭和天皇の独白という。一応、南方視察の途中でp38に襲われて墜落したという事に成ってゐます。若しかすると、別な情報筋から、天皇は「山本がルーズベルトに通じていた事」を、知っておられたのかも知れない。日本海軍・陸軍の暗号は、開戦前から70%は破られてゐて、決定的な場面では徹底的敗北をなす。暗号が破られている事は、少し知的な一兵卒でも考え着く結論ですが、軍首脳はそんな事は夢にも思わない。「馬鹿」と言う他ない。こいつ等どんな資格で司令官をやって居るのか?。恐らくドイツに見習った教条的な日本の軍事教育は失敗でした。謀略という発想が先ず無い。そういう知的発想がない。それは現在の同様です。現状では国家機関がDSの手下に成ってゐる状況で、国民はむざむざ殺されている。こんなお人好しの大衆を地獄に突き落とす事は簡単です。気が付いてゐるのは数%の国民に過ぎないです。此の侭だと希望は持てません。猶太悪魔教の代理人である岸田は、都合の悪い情報を遮断する法令を内閣だけで承認させる積もりです。内閣が此れを通せば、政府に都合の悪い情報は遮断される。
わが国は当時も今も多くの点でよく似ていますね。
先日このブログで白柳秀湖の著書を紹介させていただきましたが、彼はアメリカとの関係を重視した経済界が、政界とマスコミに圧力をかけていたことを問題にしていました。
政治家が経済界の圧力で動かされてはまともな外交ができるはずがありませんね。
今のわが国は、アメリカや中国と巨額の取引をしている経済界が政治に様々な要望をしているために、わが国の政治家は、どこの国に対しても言いたいことが言えなくなってしまっています。DSが仕掛けなくとも、勝手にDSの希望していくところに経済界が圧力をかけているようなところがあるのではないでしょうか。