寿長生の郷
梅が咲いているのを期待して寿長生の郷(滋賀県大津市大石龍門4-2-1)を三月七日に訪れたのだが、今年は寒い日が続いたので紅梅が少し咲いているだけで、残念ながら白梅はまだ蕾の状態であった。見頃を迎えるのはおそらく三月中旬以降だと思われる。

寿長生の郷は、四十年前に和菓子で有名な叶匠寿庵が千年の歴史を持つ里山を受け継ぎ、六万三千坪の広大な敷地に菓子の材料として約七百本の梅が植えられており、さらに見事な庭園や茶室があり、近江の食材を用いた食事も楽しめる人気スポットである。

菓子売り場の隣にホールがあり、三月中は叶匠寿庵の創業者が収集したひな人形が展示されている。上の画像は江戸時代の享保の頃のひな人形だが、約三百年も経った古いひな人形が大事にされてきたことに感心してしまった。会場には様々な時代のひな人形が小物や道具類を含めて約百二十点ばかり展示されていて結構楽しむことが出来る。

上の画像は寿長生の郷の総合案内所だが、この古民家は叶匠寿庵のHPによると、忠臣蔵で名高い赤穂藩筆頭家老・大石良雄(内蔵助)と縁のある家であったという。大石良雄は赤穂で生まれたが、大石家の発祥の地は近江国栗田郡大石庄(現:大津市大石)で、寿長生の郷の周辺には広範囲にわたり「大石〇〇」という名の地名が存在し、大石氏に由来する寺や神社が存在する。
大石庄は藤原時代は藤原氏の荘園であったところで、藤原秀郷の一族が下司職となって住んでいたのだが、のちにその一族は荘園の地名を取って大石姓を名乗るようになったという。応仁の乱で一族が討死して一家断絶したが、遠縁の小山氏より小山久朝が大石家を再興させたという。その後、大石良信が八幡城主・豊臣秀次に仕えたが、秀次が切腹したために浪人となる。しかしながら、良信の次男の良勝が浅野長政に仕えるようになり、大坂夏の陣でその武功を評価され、良勝は千五百石の浅野家筆頭家老となり、子孫も代々筆頭家老の地位を約束されたという。
その後浅野家が笠間藩から播磨国赤穂に転封されたので大石家も赤穂に移り、良勝の曾孫が赤穂浪士の大石良雄ということなる。
大石には有名な観光スポットがあるわけではないのだが、古いものが大切に残されている地域なので歴史好きには楽しめそうなところがいくつかあり、せっかく近くに来たので主な所を巡ることにした。カーナビなどでは登録されていない場所もあるので、上の地図を参考にしていただくとありがたい。
佐久奈度神社
寿長生の郷から二キロ程度北に佐久奈度神社(大津市大石中1丁目2−1)がある。祭神は祓戸大神と総称される瀬織津姫命、速秋津姫命、気吹戸主命、速佐須良姫命である。

この神社は天智天皇八年(669年)に天皇の命により創建されたと伝わり、皇室や武家の崇敬が篤く、天皇の厄災を祓い、都を守護する「七瀬の祓処」の一つとされ、古来、伊勢参りの前にはここでお祓いを受けるならわしがあったという。

また当社には忠臣蔵の大石良雄(内蔵助)の曽祖父にあたる良勝が奉納した「騎馬武者図絵馬」(大津市指定文化財)が残されているのだが、公開はされていないようだった。

かって社殿は現在地よりも百メートルほど東の一段低い所にあったのだが、昭和三十九年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成し、瀬田川の水位が上がるために現在地に移転されたという。境内からの瀬田川の眺めはなかなか素晴らしい。春には桜が咲き、新緑の季節や秋の紅葉も楽しめそうな場所である。上の画像の橋は大石の玄関口である鹿跳橋で、そこから上流は狭い川幅で水流が激しく奇岩が多いことで知られ、鹿跳渓谷と名付けられている。
瀬田川は天ケ瀬ダムから下流は宇治川と呼ばれ、京都府八幡市にある背割堤で木津川と合流しさらに桂川と合流して淀川となる。
春日神社
次に向かったのが春日神社(大津市大石富川1丁目9−2)。

決して大きな神社ではないが、大和国の藤原重友が久寿元年(1154年)に奈良の春日社(現:春日大社)の分霊を勧請したと伝えられている神社である。

現在の本殿は棟木に文保三年(1319年)二月十八日に建立したことが明記されていて、国の重要文化財に指定されている。檜皮葺の立派な建物である。
春日神社の左隣に収蔵庫のような建物があったので帰宅してから調べたのだが、春日神社の神宮寺である常信寺という古刹があったのだが今は堂宇はなく、耐火式の収蔵庫のみとなっているようだ。収蔵庫の中には常信寺の本堂に安置されていた平安時代後期に制作された釈迦三尊像仏像(国指定重要文化財)と鎌倉時代制作の地蔵菩薩立像が安置されているとのことである。昭和三十八年(1963年)に滋賀県大津市が編纂した『新大津市史 別巻』に常信寺について詳しい記事が出ているが、「現在無住で一宇の堂しか残っていない」と記されており、堂宇が取り壊されたのは意外と最近のことかも知れない。また『新大津市史 第九巻』には釈迦三尊像仏像の写真と解説が出ている。

時間が厳しかったのと小雨が降っていたので旅程からカットしてしまったが、当初は佐久奈度神社から春日神社に向かう途中にある、富川摩崖仏(大津市指定文化財)を見学する予定であった。摩崖仏は春日神社より一キロほど西にあり、国道四二二号線沿いに「富川摩崖仏」と書かれた道路標識と「岩屋耳不動尊」と彫られた石碑が目印である。そこから細い道に入り、信楽川に架かる橋を渡るのだが、もし旅程に組む場合は春日神社に行く前に立ち寄るのが良い。逆の場合は細い道に入るのに苦労するのではないかと思う。信楽川に架かる橋を渡ると、勢多川漁協の建物と駐車場がある。
かつてこの近辺に霊亀元年(715年)開かれた明王子という寺が存在し、五分ほど石段を登っていくと巨大な岩に彫られた摩崖仏を観ることが出来るという。高さ二十メートルという大きな岸壁に、真中に阿弥陀如来、両側に観音菩薩、勢至菩薩が刻まれ、右下には不動明王が彫られているそうだ。鎌倉時代中期に制作されたと考えられているとのことで、近畿では笠置寺の虚空摩崖仏、大野寺摩崖仏に次ぐ大きさだという。今度この近辺を訪れる時は必ず立ち寄りたい所である。
大石義民碑
春日神社から国道四二二号線を信楽川沿いに走り、途中で左折し県道二九号線に入り、途中で右折して関津峠を目指す途中に大石義民の碑(大津市大石東1丁目)がある。カーナビでは登録されていないし住所も定まっていないが、道さえ間違えなければ必ず到着できる。

義民碑は驚くほど綺麗に整備されていて、美しい生花も供えられている。地元の人々は四百年も前の「義民」の行動に今も感謝の気持ちを捧げているのである。碑文は漢文で書かれていて、その左側に案内板が立っていね。この文章を読むと碑文の内容と当時の歴史背景が良く理解できる。

江戸の初期において大石には富川・東・中・淀・竜門の五つの村があったのだが、この村々はいずれも山河に囲まれていて耕作に適した土地が少なく、人々は薪や木炭や柴などを商いすることで何とか生計を立てていた。しかしながら川幅が狭く急流である鹿跳渓谷を通って船で荷物を関津浜に運ぶことは不可能であったため、この碑のある山道を人馬で登り、当時膳所藩が管理していた佐馬野峠(通称:関津峠)を越え、瀬田川沿いの水田地帯である関津浜に運び、そこから水運を利用していたという。
ところが膳所藩の役人たちはこの峠を人馬で越える時も関津浜を利用する時も大変重たい税を課したため、大石の人々の生活は困窮を極めていたのである。
こうした状況を憂い、当時富川村庄屋の彦治と源吾の兄弟はしばしば役人に陳情をしたのだが聞き入れられず、慶長十八年(1613年)十一月に村民の窮状を救うべく幕府巡検使に税の減免を直接訴えたのである。当時は幕府への直訴は固く禁じられており、翌年二月二十四日に兄弟は佐馬野峠に於いて磔の刑に処せられたという。
しかし兄弟の身を挺した必死の訴えが幕府に伝わり、その後膳所藩は大石の人々に重税を免除するようになり、関津浜の運輸の便も図るようになった。そうして郷土がよみがえり、産業も復興したが、人々は彦治・源吾兄弟への恩を忘れることはなかったという。
この義民碑が建てられたのは大正八年(1919年)二月のことだが、兄弟が処刑されて三百年近く経過したのは、藩や県に対する批判と受け取られることを憚ったのであろう。そしてこの碑が建てられてからすでに百年以上の月日が経っている。
案内板の日付は平成二十五年(2013年)二月二十四日になっているが、最後にこう記されている。
私たちは、お二人の尊い行動と犠牲の上に、大石学区民の今日の生活があることを忘れてはならず、感謝と追悼の念を新たにするため、毎年の命日(二月二十四日)に「大石義民祭」を学区民あげて催行することにしている。
また「大石義民のうた」も作られていたらしく、楽譜と歌詞が記されていた。かつてこの歌は大石小学校で唱歌としてうたわれていたそうだ。
一、村すくいし その功
我大石の かがみぞと
とわにつたえし いしぶみや
よみてなかざる 人はなし二、佐馬野に立ちて そのかみを
しのぶ我等 世のために
つくさんことを ちかうべし
神のみ心 胸にして
地域の為に尽くした人や、地域の人々を救うために犠牲になった人を敬慕する碑は各地に存在するのだが、事件から四百年以上経った今も、地域の人々に碑が大切にされてることが伝わってきて、少し目頭が熱くなってしまった。
浄土寺と大石家の墓
大石義民の碑から浄土寺(大津市大石東1丁目10−6)に向かう。距離にして1.3キロで3分程度で到着する。

この寺は大石家の菩提寺で、大石家祖先の墓が並んでいる。

一番右が大石良信の奥様の墓で、その左の五輪塔が大石良雄の五代の祖にあたる大石良信の墓。その左の供養塔は鎌倉末期の宝篋印塔でその左は大石良勝の奥様の墓と書かれていた。なお墓地の右手の山には大石家の屋敷跡があるそうだが、ロープが張られていて見学できなかった。
立木観音
浄土寺から鹿跳橋を渡り瀬田川沿いを四百メートルほど北進すると道路沿いに立木観音駐車場(大津市石山南郷町奥山1231)がある。

上の画像は駐車場から見た瀬田川の風景だが、さらに北に進むと奇岩がいたるところにあり、川幅もかなり狭くなり水流も早いのだそうだ。この渓谷を鹿跳渓谷と呼ぶのは、急流で瀬田川を渡るのをためらっていた弘法大師を、白鹿が背に乗せて岩を跳び渡ったという立木観音の由緒によるもののようだ。
立木観音は立木山の山腹にあり、駐車場から八百段以上の階段を登らないとたどり着けない。日頃の運動不足がたたって、段差のある石段を登り切るのは相当きつく随分汗をかいたが、登りきると達成感はひとしおで爽快な気持ちになった。
階段を避けたい場合は、駐車場から瀬田川沿いを2.5kmほど北進すると「厄除立木観世音参道」と刻まれた標石があるので、左折してその道を上って行くことも可能だが駐車場はなく、途中から車が通れる道ではなくなるので、車で来た人は覚悟して八百段のきつい階段を登って行くしかないだろう。

立木観音の正式名は安養寺で浄土宗の寺であるが、弘仁六年(815年)に弘法大師が開基したと伝えられ、創建当初は真言密教系の寺院であったと思われる。
この寺は、弘法大師が四十二歳の厄年に開いたことから厄除けの寺として有名で、高野山の金剛峯寺の開創はその前年であることから、立木観音は「元高野」とも称されているという。

境内には鹿に乗った弘法大師像がある。寺の由緒では、立木山に光を放つ霊木が目に留まり、そこに向かおうとすると瀬田川の急流に阻まれてしまう。すると弘法大師の前に白鹿が現れて、大師を背に乗せて川を跳び渡り、霊木の前に導いた。太子は大厄に当たる歳に観音様にお導き頂いたと歓喜し、立木のままの霊木に聖観世音菩薩の尊像を刻んだという。
本堂を参拝し、鐘楼で鐘をついて厄を落とし、奥の院で参拝して帰途に就いたが、帰りの八百段の階段は上りより楽とはいえ、膝がガクガクになった。若いころなら平気で登れたと思うのだが、今回はさすがに疲れてしまって予定を切り上げて帰宅することにした。運動不足だと筋肉が衰えてしまうので、これからも山にある寺や神社を散策することとしたい。
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