奈良の神仏分離・廃仏毀釈を考える旅の最後の記事になるが、今回は桜井市の大神神社(桜井市三輪1422)を中心に書くことと致したい。
大神神社と三輪山

大神神社はわが国最古の神社の一つとして知られ、御祭神は大物主神である。大神神社という社名が用いられるようになったのは明治以降で、古くは大神大物主神社と呼ばれ、中世以降は三輪明神と呼ばれて三輪神道の本拠地であった。
記紀神話によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この「倭の青垣の東の山」が三輪山とされる。
大神神社は神社の後方に聳える三輪山を御神体として直接拝するようになっているために本殿がなく、山中には三つの磐座があるという。

上の画像は寛文四年(1664年)に四代将軍徳川家綱によって造営された大神神社の拝殿(国重文)で、ここから三輪山を御神体として参拝するわけだが、以前はこの拝殿も存在せず、拝殿の奥にある三ツ鳥居(国重文)から三輪山に向かって参拝したという。肝心の三ツ鳥居を見ることを失念してしまったのだが、大神神社のホームページによると現在は拝観中止しているようだ。また三ツ鳥居から奥は禁足地となっていて立ち入りすることが出来ない。

拝殿の右手前に「巳の神杉」という樹齢四百年のご神木が聳えている。その杉には御祭神の大物主大神の使いとされる蛇が住んでいるとの言い伝えがあり、参拝者が巳さんの好物である卵やお酒を持参して神杉にお供えをされている。

上の画像は平成九年に竣工した木造の社殿。日々の祈祷や結婚式などが行われる。その向かいに宝物収蔵庫があり、三輪山麓の古代祭祀遺跡から見つかった考古遺物、国の重要文化財に指定された木楯、県の指定文化財の御神像をはじめ古鏡、古絵図などが納められているのだが、開館日は毎月一日と、土曜・日曜・祝日のみである。

上の画像は大神神社境内の北方にある摂社の狭井神社。主祭神は狭井坐大神荒魂神で、大神神社で祀られている大物主神の荒魂で、疫病を鎮める神として古くから知られ、社殿の左奥に湧く霊泉は万病に効くと言われている。この神社の社務所で受付をしてお祓いをすると、三輪山の山頂まで登拝することが出来るのだが、当然のことながら入山中は撮影・飲食は禁止とされている。
明治初期の神仏分離

大神神社は中世以降に神仏習合が行われ、三輪明神と呼ばれて人々の信仰を集めていた。寛政三年に出版された大和名所図会には「三輪社」と書かれているが、左には「大三輪寺」という名の寺の堂宇が描かれている。
Wikipediaによると三輪明神には二つの神宮寺(大御輪寺と平等寺)と、大御輪寺の配下にあった尼寺の浄願寺という三つの寺院があり、大和名所図会に描かれている「大三輪寺」は大御輪寺の別称である。そういえば「御輪」を訓読みすれば「みわ」と読むことができる。
三輪神道は密教と神道が集合した両部神道の一つで、大物主神を三輪大明神と称し、それを天照大神や大日如来と同一視して尊崇してこの三輪明神を本拠地としていたのだが、明治になって神仏分離令が出されると、三つの寺院の僧侶達は早々に還俗復飾を決めている。大御輪寺は大神神社の摂社・大直禰子神社となり、平等寺は廃寺となって取り壊され、浄願寺は末社・成願稲荷神社になったようだが、寺の建物は残されていないようである。
寺が神社となったり廃寺になれば、堂宇だけでなく仏像も仏具もお経などもすべて不要となることは言うまでもない。三輪明神には貴重な仏像などが多数存在したようなのだが、それぞれの寺の寺宝の行方については、s_minagaさんの「大和大御輪寺三重塔・大和平等寺二重塔」に詳しくレポートされている。
それによると大御輪寺の住職であった廊道は、仏像などの寺宝を、師である大桂和尚(兼東大寺戒壇院住職)のいる聖林寺や兄弟弟子のいる法隆寺や近隣の長岳寺などに遷したという。聖林寺に遷された本尊の十一面観音像は天平時代の仏像で現在は国宝に指定されている。法隆寺に遷された平安時代の地蔵菩薩像も国宝指定だ。また長岳寺に遷された平安時代の増長・多聞二天像および玄賓庵に遷された平安時代の不動明王坐像は国の重要文化財に指定されている。
平等寺も結構大きな寺院であったが、明治三年までに取り壊されてしまい、仏像などの寺宝は長岳寺や極楽寺や長谷寺や民家に散逸したという。s_minagaさんの上記レポートによると長岳寺に遷された諸仏の中で木造不動明王坐像は明治八年に長谷寺普門院不動堂に遷されたらしいが、この仏像は平安時代のものでのちに国の重要文化財に指定されているという。その他の仏像の中にも貴重なものがあった可能性が高いのだが、詳しいことはわからない。また浄願寺の仏像についてはネットでは何の情報も出てこない。
どんなに価値のある仏像や仏画であっても、二束三文で売り飛ばしてしまえば、その後の行方を追うことは容易なことではなさそうだ。当時は政府の政策により寺の収入源の多くが絶たれ、僧侶が生活の為に寺宝を売却するケースが少なからずあり、そのうちのいいものは資産家や海外のコレクターに高く買われて行く時代であった。大御輪寺の木造十一面観音立像や木造地蔵菩薩立像のように、別の寺に遷されて大切に守られ、国宝にまで指定された事例はわずかしか存在しないのである。
大直禰子神社を訪ねて

大神神社の二の鳥居を北に進むとかって神仏分離以前は三輪明神の神宮寺である大御輪寺であった大直禰子神社がある。鳥居の扁額には「若宮社」と記されているのだが、祭神の大直禰子命は大物主大神の子孫で「若宮」と呼ばれていたようである。
かつて大御輪寺は若宮を祭祀する神殿的要素を持ち、また本尊の十一面観音立像は若宮の本地仏であったという。だから『大和名所図会』巻四の「三輪社」の図に、大三輪寺と書かれた横に「若宮」と書かれているのである。
そしてそのことが、三輪明神の境内にある寺院の建物の内、大御輪寺の本堂の建物だけが壊されず、移転もされずにそのまま残された理由ではないかとs_minagaさんは推測している。上記レポートでは、「本堂内陣の脇の間に若宮を祭祀していたため、神殿とも見做された、あるいは、本堂まで破壊すると若宮を祭祀する社殿が無くなって不都合であるとの事情もあったのではないか」と書いておられるが、その通りではなかったか。

とにかく大御輪寺の本堂であった建物は残されて、大直禰子神社の社殿にそのまま転用された。寺の本堂としてはそれほど大きくはないのだが、この建物の中に現在の国宝、国指定重要文化財の仏像が安置されていたのである。
聖林寺の国宝十一面観音立像を訪ねて

上の画像は聖林寺(奈良県桜井市下692)の山門だが、この寺に大御輪寺の本尊・十一面観音立像が遷された。

聖林寺は大御輪寺から6kmほど南にあるのだが、この天平仏が遷された時期については、通説では神仏分離令が出されて間もない頃のことだとされているし、聖林寺のホームページにも「明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈を免れるため、慶応4年(1868)5月16日、大御輪寺と親交の深かった聖林寺に移されたといわれています」と書かれている。
このような説が広まった原因は和辻哲郎の『古寺巡礼』の影響が大きいのだと思う。和辻は聖林寺の十一面観音が大御輪寺から移された経緯について次のように記している。
もっともこれは人から伝え聞いた話で、歴史的にどれ程確かであるかは保証の限りではないが、とにかくその人の説によると、この像はもと三輪山の神宮寺の本尊であった。そうして神仏分離の際に、明治維新を誘導した古神道の権威によって、残酷にも路傍に放棄せられるような悲運に遭った。もとよりこの放逐せられた偶像を、じぶんのてに引き取ろうとする篤志家などは、この界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、我気高い観音は、埃にまみれて雑草の中に横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これは勿体ない。誰も拾い手がないのなら拙僧がお守りを致そう、と言って自分の寺へ運んでいった。
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波書店 昭和三年刊 p.73~74
私も長い間この記述が概ね正しいものと考えていたのだが、最近になって白洲正子の『十一面観音巡礼』を読んで認識を改めた。白洲は昭和七、八年頃に初めて聖林寺を訪れて十一面観音立像を拝観した際に、住職からこの仏像が遷されて来た時の話を聞いて、次のように記している。
…住職は当時のことをよく覚えていられた。発見したのはフェロノサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことに決めたという。その時住職は未だ小僧さんで(たしか十二歳と聞いた)、荷車の後押しをし、聖林寺の坂道を登るのに骨が折れたといわれた。三輪には、観音様といっしょに、地蔵菩薩も祀ってあり、一旦はここに移したが、聖林寺には本尊がいられるので、そちらの方は先代住職の兄弟弟子がひきうけ、法隆寺へ移転した。今でも法隆寺の金堂には、本尊の裏側(北側)に、この地蔵様が祀ってあるが、檜の一木造りの堂々とした彫刻である。錫杖を持たない所からも、神像かも知れないといわれるが、受ける感じはやはり地蔵以外のものではない。…中略…
住職はフェロノサのこともはっきり覚えていられた。穏やかなおじいさんで、観音様を移した時には、終始荷車のわきへつきそっていたという。光背の断片も一つ一つ新聞紙にくるんで運んだ。その光背は大きな箱の中に元の形が分かるように並べてあったが、所々に金箔が残る宝相華や唐草文はみごとなもので、十一面観音がこの光背を背に立っていた時は、どんなに美しかったであろうと想像された。
『白洲正子著作集 第4巻 (仏像)』青土社 1984年12月刊 p.11~12
法隆寺に地蔵菩薩が遷った話や、当時の聖林寺住職が、大御輪寺元住職、法隆寺北室院住職の師匠にあたる人物であったことは事実であり、白洲正子の記録はかなり具体的で信ぴょう性が高いと私は判断している。和辻哲郎の記述は本人自らが「歴史的にどれ程確かであるかは保証の限りではない」と断って話しているものであり、信用するに値しない。そもそも大きな仏像を僧侶が一人で6kmの距離を運べるとは思えないし、何日間も木造仏が雑草に横たわっていたとしたら相当傷んでしまうことであろう。

白洲正子の記録に登場するアーネスト・フェロノサは、日本美術を高く評価し世界に紹介したことで知られている人物だが、来日したのは明治十一年(1878年)で彼の二十五歳の時であり、当時彼の専門は政治学・哲学であった。その後日本美術に深い関心を寄せるようになり、彼が美術に公式に関わるようになったのは明治十五年(1882年)に第一回内国絵画共進会で審査官を務めた以降のことである。その後明治十七年(1884年)に文部省図画調査委員に任命され、岡倉天心らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行っている。その前後にも何度か京都奈良の古社寺を訪問しているが、明治二十三年(1890年)に帰国してボストン美術館東洋部長として日本美術の紹介を行ったという。それからも何度か来日したようだが、彼の日本での活動を考えると、フェロノサが大直禰子神社の社殿の縁の下に捨て置かれていた十一面観音像を発見したのは明治十七年前後の可能性が高いと思われる。
聖林寺のホームページに、「明治二十年(1887年)、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現しました。」と書かれている。このことは同ホームページに書かれている慶応四年五月十六日に聖林寺に遷されたとする話と矛盾するというわけではないが、そもそもこんな大きな仏像を、厨子を閉じたまま運ぶことはあり得ない話ではないか。しかも聖林寺に遷されて二十年間も厨子が開かれなかっったということも信じがたい話である。やはり白洲正子の書いている通りで、長い間大直禰子神社の社殿の縁の下に放置されていたのをフェロノサによって発見されたのちに、聖林寺に運ばれたと考えるのが正しいのだと思う。縁の下であれば雨露をしのぐことが出来、植物も繁茂することがなく、木造の仏像が傷む可能性はかなり低いと考えられる。
また同寺のホームページには、木造十一面観音立像のためにフェロノサが本堂脇の厨子を寄進したことが書かれている。火災などでいざという時にすぐに外に運び出せるよう、厨子の内部に滑車がついているのだそうだが、フェロノサが日本文化を心から愛していたことがわかる話である。彼はのちに仏教に帰依し、1896年には滋賀県の園城寺で受戒している。1908年にロンドンの大英博物館で調査をしている時に心臓発作で倒れて亡くなり英国の墓地に埋葬されたが、彼の遺志により火葬して日本に送られて、園城寺の子院の法明院に葬られている。
聖林寺の本堂にフェロノサが寄進した厨子が残されているが、木造十一面観音立像はそこにはなく、最近造られた新収蔵庫に安置されている。どちらかというと寺というより小さな博物館というべき建物だが、明るい照明に照らされた美しい仏像の周りをゆっくりまわりながら細かいところまで鑑賞出来るのが良い。この仏像はミロのヴィーナスとも比較される仏像だとよく言われているのだが、確かに美しい仏像であり、フェロノサがこの仏像に魅了されたこともよくわかる。
フェロノサは廃仏毀釈で日本の仏教美術が見捨てられていた時代に来日し、日本美術に心酔してその価値を世界に広め、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897年)に道を開いたのだが、もしフェロノサが明治時代に来日していなければ、もっと多くの寺院が廃寺となり、わが国の仏像や仏画の価値あるものの多くはその価値を失うか、もっと多くのものが海外に流出していたことは確実である。当時のわが国は条約改正を急ぐあまりに、西洋文化を偏重する政治家が跋扈し、日本の文化や伝統が軽視されていたことを忘れてはならない。
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