慈光院
矢田丘陵の松尾寺を離れて慈光院(大和郡山市小泉町865)に向かう。駐車場は境内西側の細い道を上りきったところにある。
この寺は大和小泉藩第二代藩主の片桐貞昌が父・貞隆の菩提寺として大徳寺の玉舟和尚を開山に迎えて建立した寺である。片桐貞昌は石州流茶道の祖として片桐石州の名で知られている。
片桐貞昌の父・貞隆は、賤ケ岳七本槍の一人として名をはせた片桐且元の弟で、兄とともに豊臣秀吉に仕えて武功を挙げ、播磨国内で一万石の所領を与えられていた。しかし、慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍について大津城の戦いに加わったが所領は安堵されて、その翌年に片桐貞隆が摂津茨木城の城主となっている。
ところが、慶長十九年(1614年)に起きた方広寺鐘銘事件をきっかけに片桐兄弟が家康と密通していると疑われ、貞隆と且元は豊臣家と袂を分かつこととなる。そして豊臣家は、同年から始まった大坂の陣で家康に滅ぼされ、その後貞隆は家康の家臣となって一万六千石の小泉藩を立藩し初代藩主となった。
慈光院には門が二つあり、上の画像は二つ目の茨木門である。慶長二十年(1615年)に徳川家康は一国一城令を出し、摂津茨木城は取り壊されることとなった。貞隆は茨木城の櫓門を家康からもらい受けたのだが、子の貞昌は父の菩提を弔うために慈光院を建立するに際し、櫓門を茅葺に吹き替えて慈光院の山門としたという。
この寺の書院(国重文)で庭園(名勝・史跡)を眺めながら、抹茶をいただく。拝観料は小学生以上千円と高めだが、お抹茶とお茶菓子の接待が含まれており、こんな贅沢な空間でゆっくりできるのはありがたい。天井がやや低くなっているからか座ると妙に落ち着く。慈光院庭園には石を用いず、白砂の中にサツキなどの丸い刈込が配置されていて、季節ごとの風情が楽しめる素晴らしい庭園である。
庭園は散策が可能で、上の画像は庭園側から書院を撮影したもの。刈込はサツキ一種の丸いものもあれば、ツバキやツツジやクチナシなど数種類の木々の寄せ植えの大刈込もある。
郡山城跡
慈光院から郡山城跡(大和郡山市北郡山町248-4)に向かう。駐車場は追手門(梅林門)の近くに無料駐車場があるが、狭いのと市内散策には不便な場所なので利用しなかった。大和郡山市内の中心部の道路はあまり整備されておらずは、道幅が狭い上に一方通行が多く、さらに十分な広さの観光者用の駐車場のある施設は少ない。いろいろ考えて、私は三の丸駐車場(大和郡山市南郡山町520-4)を利用することにした。
上の画像は昭和六十二年(1987年)に復元された追手向櫓。下の画像は昭和二十八年(1953年)に復元された追手門である。
郡山城は天正年間に筒井順慶により築城が開始されたのだが、天正十二年に順慶が死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となり、翌年に秀吉の弟の豊臣秀長が郡大和国・和泉国・紀伊国三ヶ国の領主として郡山城に入った。秀長はこの城を百万石の居城にふさわしい大規模なものに拡大し、城郭づくりや城下町の整備を進めたと伝わる。
天正十九年(1591年)に秀長が没し、その養子の豊臣秀康も文禄四年(1595年)に死去すると、五奉行の一人増田長盛が二十二万三千石の領主として入城した。しかしながら関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、長盛は高野山に追放され、郡山城の建築物のほとんどは徳川家康により伏見城に移築され、天主は二条城に移されたという。
その後一時城主が不在となるも、元和元年(1615年)に水野勝成が城主となって以降は、松平、本多、柳澤といった譜代大名が城主を務めるようになり、郡山城は幕末まで幕藩体制における畿内の要所であった。
ところが明治維新後の明治六年(1873年)に廃城例が出てこの城は廃城の扱いが決定し、明治十四年(1881年)には堺県師範学校分局郡山学校(奈良県立郡山高等学校)が二之丸に移転され、明治三十九年(1906年)には奈良県生駒郡立農学校(旧奈良県立城内高等学校)が麒麟曲輪に建設されている。しかしながら次第に郡山城の遺構を残そうとする動きが起こり、昭和二十八年(1953年)に追手門が復元され、昭和三十五年(1960年)に本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡とされ、昭和五十九年に追手東隅櫓が、昭和六十二年には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。また令和四年には国の史跡に指定されている。
上の画像は本丸から見た城址会館。この建物は明治四十一年に奈良県最初の県立図書館として奈良公園内に建てられたもので、昭和四十三年に郡山城内に移築されたものである。設計は奈良県技師の橋本卯兵衛で、奈良県指定文化財である。
内部は土日祝日の10:00~16:00に1階のみ見学が可能とのことである。
本丸跡には柳澤吉保を祀る柳澤神社がある。
柳澤吉保は第五代将軍徳川綱吉に寵愛された側用人で、宝永元年(1704年)に甲斐甲府藩主となったが、その後も幕府の要職についていて江戸にいたという。宝永六年(1709年)に将軍綱吉が死去すると柳澤吉保は隠居を願い出て、それが認められると長男の吉里に家督を継がせている。その後は江戸駒込で過ごして六義園の造営などを行っているが、吉保自身は大和郡山で足跡を残した人物ではない。柳澤家と大和郡山とが繋がるのは柳澤吉保の長男吉里の代からである。
享保九年(1724年)に甲斐が幕府の直轄領とされることが決まって、柳沢吉里が甲斐甲府藩から十五万石で郡山藩主として移封されて以降明治四年(1871年)七月の廃藩置県まで、柳澤家が大和郡山を統治するのだが、柳沢神社で祀られているのが初代大和郡山藩主柳澤吉里の父柳澤吉保だというのは、柳澤家にとっては柳澤吉保が英雄であり誇りであるということなのか。
柳澤家による大和郡山の統治は六代続き、第六代藩主柳澤安申は奈良の発展に尽力した人物として有名で、明治二十年には柳澤養魚研究場を設立し金魚の研究につとめたほか、明治二十六年には郡山紡績会社を設立した。また教育振興にも熱心で、現奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供したという。
上の画像は、柳澤安申の長男・柳沢保承を中心に柳沢文庫保存会が発足し、地方史専門図書館として開設した柳沢文庫である。ここには柳澤家から寄贈された柳澤家歴代藩主の書画や和歌、郡山藩の公用記録や藩政資料などの古文書・古典籍が数万点保管されている。今年は柳澤吉里が郡山に移ってから三百年になる節目の年で、「郡山藩主 柳澤吉里」というテーマの特別展示(7/13~10/22、11/2~12/15)が開催されている。詳しくは柳沢文庫のホームページで確認願いたい。
箱本館紺屋
徒歩で次の目的地の箱本館紺屋(大和郡山市紺屋町19-1)に向かう。
「箱本」は郡山町の自治組織のことで、郡山町には内町十三町(本町、今井町、奈良町、藺町、柳町、堺町、茶町、豆腐町、魚塩町、材木町、雑穀町、綿町、紺屋町)は地子免除、すなわち地税が免除される代わりに、治安維持、消化、伝馬(公用のために使う馬を提供すること)などが課せられていたそうだ。
紺屋町というのは、藍染を職業とする人々が集まっていたところで、豊臣秀長が郡山を統治していた時代に成立したと考えられている。
上の画像は「箱本館紺屋」だが、道路の中央に川(紺屋川)が流れている。郡山旧城下町でこのような道路になっているのは紺屋町だけではないだろうか。
旧城下町は車を使うと細い道が多くて一方通行だらけなので、近くに行くにも、余計な距離を走ったり信号に引っかかったりするので歩くか、レンタサイクルで巡った方がよさそうである。
「箱本館紺屋」は江戸時代から続く藍染商の町屋を改装して、藍染体験や金魚のコレクション鑑賞や喫茶などが出来る施設に生まれ変わった。藍染体験は予約が必要で、曜日によって時間が異なるので注意が必要である。「箱本館紺屋」のホームページに藍染関連の動画が紹介されている。
大和郡山は金魚の養殖で有名だが、柳澤吉里が公布から郡山に転封された時に、家臣が観賞用に金魚を持参したことに始まるのだそうだ。幕末に至り藩の財政が厳しくなり、金魚の養殖が藩士の内職的なものとなって家計の一助としたという。明治維新後は失職した武士の一部に、領内の農民と提携して金魚の養殖を業とするものが現れるようになり、かくして地場産業としての郡山金魚が全国で知られるようになって、今も二十品種以上の金魚の生産が行われている。この施設では、金魚をテーマにした美術工芸品や生活用具などを約千点所蔵しており、展示室にて随時展示替えをしながら公開されている。
展示パネルを読んで驚いたのだが、井原西鶴が元禄六年(1693年)に書いた『西鶴置土産』に、金魚屋が金魚を売る場面で、「中にも尺にあまりて鱗の照りたるを、金子五両・七両に買いもとめてゆくをみて」と書かれている。一尺は約30.3cmなのでかなり大きな金魚だが、当時は米一石(約150kg)が約一両であったというから、金魚一匹が今の数十万円に相当する価格で売られていたことになる。
源九郎稲荷神社
次の目的地は源九郎稲荷神社(大和郡山市洞泉寺町15)。小さな神社なのだが日本三大稲荷の一つに数えられていると書かれているサイトが散見される。「日本三大稲荷」の残りの二社は何処なのかについて、当社の公式ホームページを調べると、次のように記されている。
一、幕末の郡山藩主、柳沢保申公にも常々御参詣せられ「保食社」の額を奉納して、御神徳に感応せられました。
その尊崇の深く神徳景仰の大いなることが偲ばれ、日本三社稲荷の名称が冠せられている。
源九郎稲荷神社 ホームページ
誰が言いだしたか、他の二社がどこかについては触れていない。Wikipediaによると「日本三大稲荷」の一つであると主張している神社は他にも多数存在しており、一表にまとめられているのを見ると面白い。そもそも、「日本三大稲荷」の選定基準があるわけでもなく、相撲の番付のように歳月とともに評価が上がったり下がったり、評価者によって入れ代わりしてきたのだと思う。とは言えこの神社もかつては多くの参拝客を集めていたらしく、いくつかの伝説があり、童謡にも唄われているようだ。
当社の縁起によると、白鳳年間に平群の真鳥が叛逆を企て帝位を奪おうとしたとき、大伴欣道磨が逆賊誅伐の勅命を承り、天地神明を念じ、特に寛平稲荷(当社の祭神の初めの名)を祈って出陣したところ、真鳥を討伐し天下は平静となった。後に九郎判官源義経がこの明神を篤く信仰し、奥州に下る際に訣別のしるしとしてこの神社に源九郎の名前を贈ったというのが源九郎稲荷と称する所以であるという。また豊臣秀長が郡山の鎮守としたなどとも言われているのだが、それにしては境内や社殿が小さすぎて違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。
歴史上の人物を登場させて、由緒ある神社であることを印象付けようとしているような感じがするのだが、少なくとも江戸時代にはそれほど有名な神社ではなかったようだ。由緒ある有名な神社であれば『大和名所図会』に掲載されると思うのだが何も書かれていない。
いつの時代もどこの神社や寺もそれなりに参拝者を増やそうとろ努力されてきたとは思うが、「日本三大稲荷」と宣伝するのはどうかと思う。伏見稲荷大社を別格として、豊川稲荷や笠間稲荷など由緒があり立派な社殿を持つ稲荷神社は他にいくらも存在する。
町家物語館
源九郎稲荷神社の近くに町屋物語館(大和郡山市洞泉寺町10)がある。大正時代に建てられた木造三階建の川本楼という遊郭で、売春禁止法の施行により昭和三十三年に廃業を余儀なくされ、その後下宿となり客間は貸間として利用されてきたのだが、良好な保存状態で残されていて、当時の花街の繁栄を偲ばせる貴重な建物である。昔はこの近辺に十七件の遊郭があったそうだが、今ではほとんどが取り壊されてしまった。
この建物は昭和二十六年に「旧川本家住宅」として登録有形文化財に指定され、その後大和郡山市が耐震補強工事を行い、平成三十年一月から「町家物語館」として一般公開(無料)が始められたという。
通りに面した表構えをよく見ると、一階の格子の幅が非常に狭く、上の階に行くほど少しずつ広くなっていることに気が付く。入口の左側に娼妓溜という遊女の待機部屋があるのだが、大正五年に梁見世が禁止されて客が外で遊女を選ぶことが出来なくなり、それ以降は写真見世で遊女を選ぶようになったという。大正十五年に建てられたこの建物では娼妓溜で待つ遊女の顔が外からわからないように、格子の幅が狭くされているという。入口の右側には客引控室があったそうだ。
客は入口を入って玄関の壁に掲示されている遊女の写真を見て相手を選び、遊女が待機状態であれば商談が成立して、まずは帳場で代金を支払い、先に遊女は二階か三階の自分の部屋に上って行って客が来るのを待つのだという。この階段は他の客と鉢合わせしないように上り専用で、下りの階段は別にある。
この部屋が客間で、二階と三階に三畳の部屋が合計十四室、四畳半の部屋が二室あり、それぞれ遊女が住む部屋でもあり接客する部屋でもあった。他に八畳の部屋が二室あり客間は全部で十八室。また二階には経営者である遊郭の経営者である川本家主人の部屋としてとして六畳二室があった。
遊郭の主人であった川本家の居住スペースの一階部分はかなり豪華で、床材が屋久島杉の一枚板、床柱には長寿や魔除けで有名な槐など高級木材を用い、欄間や引き戸には一流職人による意匠が凝らされており、窓ガラスは総て手作りの大正硝子を用いるなどなど細部に至るまでで贅沢を尽くしている。上の画像は一階の中庭だが、吹き抜けになっていて、棕櫚竹が植えられている。この樹はこの建物が完成した大正十三年に植えられたもので、太くならない品種をわざわざ選んだものだという。
紹介し出したらとても書ききれないので、詳しい話はガイドさんの説明動画を参考にしていただきたい。この動画を見ていただければこの建物の見どころがよく理解できると思う。
一階には観光客が最後に寛げるように、このようなスペースがある。コーヒー一杯百円でサービスしていただけるのは有難い。
奈良旅行の最後の町家物語館にしたのはルート順を考えての結果なのだが、無料の施設なので、正直なところそれほど期待してはいなかった。しかしガイドさんの話を聞いて、ここで働いていた遊女たちがどんな気持ちで毎日を過ごしていたのかと考えたり、こんな工夫がされていたのかと驚いたり、いろんな意味で勉強になった。
この施設に入った時に、観光客が一人で内部を自由に見学するかどうかを聞かれるのだが、ガイドさんの説明を聞かないとこの建物の価値はわからないと思う。ガイドさんがおられるなら、説明をお願いして見学されることを強くお薦めしたい。
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