以前何度か奈良を訪ねたことがあるのだが、教科書に出てくるような有名な寺社しか訪問できていなかったので、斑鳩町にある法隆寺とその近辺の寺社を巡ることにした。下の地図は「なら旅ネット」のサイトからダウンロードができる。
法隆寺
法隆寺には飛鳥時代に建築された金堂や五重塔など、世界最古の木造建築が甍を並べるとともに、世界に誇るべき美術品を多数伝えていることで広く知られており、法隆寺地域の仏教建造物は「世界文化遺産」に登録されている。「法隆寺地域」というのは、古い建物を残している法隆寺と法起寺を指している。
法隆寺創建の由来については、用明天皇が自らの御病気の平癒を祈って寺を作ることを誓願されたのだが実現しないまま崩御されたので、推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで六〇七年に本尊薬師如来を造られて法隆寺を創建されたと伝えられている。
法隆寺の境内は西院伽藍と東院伽藍に分かれていて、広さは十八万七千平米もあり、国宝・国重要文化財に指定されているものが約百九十件もあるのだそうだ。
最近ネットなどで奈良公園や東大寺の外国人観光客が多いことが話題になっているのだが、平日に法隆寺を訪れる外国人はそれほど多くはなかった。しかしながら、遠足などでバスに乗って団体で訪れる中高生は昔と同様に多いので、中途半端な時間には行かない方がいいと友人から聞いていた。そこで朝の九時に法隆寺(斑鳩町法隆寺山内1-1)に到着する旅程を組んだのだが、平日でこの時間だと法隆寺いかるがモータープール(斑鳩町法隆寺1-7)にはわずかしかバスが来ておらず、自家用車も余裕で駐車ができて正解であった。
モータープールから松並木のある参道を進むと法隆寺の玄関に当たる南大門(室町時代、国宝)がある。
南大門をくぐり直進すると中門(飛鳥時代、国宝)がある。左右には和銅四年(711年)に安置された日本最古の金剛力士像(奈良時代、国重文)がある。
中門の左に西院伽藍の入口があるのだが、入らずにそのまま西に進むと、僧侶が生活をしたり法華経・勝鬘経・維摩経の講義がなされた西院・三教院(鎌倉時代、国宝)があり、右折して北に向かい緩やかな坂道と階段を上ると西円堂(鎌倉時代、国宝)がある。西円堂は鎌倉時代に再建された八角堂で大きな薬師如来座像(奈良時代、国宝)が安置されている。この仏像は「峯の薬師」と呼ばれ、毎年二月一日から三日迄、この仏像の前で薬師悔過の修二会が行われ、結願日の三日に追儺式(鬼追い式)が行われるという。
西円堂は法隆寺の境内の中で最も高い位置に建っていて、西院伽藍を一望することができる。上の画像の中央が五重塔、その右に中門の屋根で、手前には西室・三教院の屋根が写っている。
西院伽藍の入口で拝観券を購入。この券で西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍を拝観が出来る。現在は大人一枚1500円、小学生750円だが、数多くの国宝や国重要文化財を鑑賞できることを考えれば割安だと思う。ただし来年三月一日からは大人2000円、中学生1700円、小学生1000円に値上げされるようなので、法隆寺に興味のある方は値上げされる前に訪問された方が良いだろう。
上の画像は金堂(飛鳥時代、国宝)と五重塔(飛鳥時代、国宝)。北にある大講堂から撮影したもので中央には中門が写っている。
金堂には中央内陣に止利仏師が聖徳太子の為につくった釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)がありその後ろには地蔵菩薩像、四隅には木造四天王立像(飛鳥時代、国宝)が安置されている。東の間には太子の父君の用明天皇の為につくられた銅造薬師如来坐像(白鳳時代、国宝)、西の間には金銅阿弥陀三尊像(鎌倉時代、国重文)など貴重な仏像が、昔の祈りの空間のままに残されている。有名な壁画はこの建物の内壁に描かれていたのだが昭和二十四年に焼損し、現在はパネルに描かれた再現壁画がはめ込まれている。
五重塔の高さは基壇上から32.5mで、わが国最古の五重塔として知られている。最下層の内陣には奈良時代に造られた塑像があり、例えば北面には釈尊の入滅が表現されている塑像がある。このような塑像が東西南北の各面に造られており、塑像塔本四面具として国宝に指定されている。
金堂、五重塔の後方には大講堂(平安時代、国宝)がある。大講堂は僧侶の研鑽道場で、本尊の木造薬師三尊像(平安時代、国宝)および木造四天王立像(平安時代、国重文)が安置されている。また西院伽藍は回廊(飛鳥時代、国宝)に囲まれていて、大講堂と中門に繋がっている。
回廊の東側に聖霊院(鎌倉時代、国宝)がある。聖霊院の内部の大きな厨子には聖徳太子坐像と四人の侍者像(聖徳太子像、山背王像、殖栗王像、卒末呂王像、恵慈法師像:平安時代、国宝)が安置されているが、厨子の扉が開かれるのは毎年三月二十二~二十四日の「お会式」の期間だけなのだそうだ。
妻室と綱封蔵の間を抜けて大宝蔵院に向かう。ここには法隆寺の代表的な宝物が多数展示されているのだが、西宝蔵には玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)、夢違観音像(白鳳時代、国宝)、百済観音堂には百済観音像(飛鳥時代、国宝)、東宝蔵には伝橘夫人厨子(白鳳時代、国宝)、百万塔(奈良時代、国重文)などを鑑賞することができる。
大宝蔵院だけでも十分満足できるのだが、大宝蔵殿でも特別展示が行われていたので入場料五百円を支払って鑑賞させていただいた。毎年春と秋にここで法隆寺が保有している重要文化財等の特別展示が行わるのだが、令和六年の秋は「法隆寺を彩る動物たち」と「五重塔」をテーマに九月二十七日から十一月二十四日まで開催されている。国宝は四騎獅子狩文錦(中国唐時代)だけであったが、国重要文化財は仏像や曼荼羅など十数点展示されていた。ここで展示されているものはテーマに従って集められたものであり数ある法隆寺の宝物の一部に過ぎないのだ。
しかしながら文化財の宝庫である法隆寺も、明治維新のあとに聖徳神社にさせられる危機が迫っていた。明治四年の寺領上知の令で境内地が没収され、明治七年には寺禄千石が廃止・逓減されて、寺の収入が激減しどんどん荒廃していった。この時に多くの有名寺院が宝物の一部を売り飛ばしたり破壊したりしたのだが、法隆寺は明治十一年に管主の千早定朝師がなした大英断により、貴重な文化財を守って寺を立ち直すことができたのである。
法隆寺では協議を重ねた末、末永く保存されることを願って貴重な宝物類を皇室に献納することとした。もちろんいくらかの下賜金があることを期待していたのだが、その時に皇室より一万円が下賜され、法隆寺はその一万円のうち八千円で公債を購入し、金利六百円を運営維持費に充て、二千円を伽藍諸堂の修理費に充てて息を吹き返したのである。献納された宝物の一部は今も皇室が保管しているが、三百点余りが戦後になって国に移管され、東京国立博物館の「法隆寺宝物館」に展示されている。
これだけ貴重な文化財を散逸させることなく守って来たことは凄いことであり、千四百年を超える法隆寺の歴史の重さと、先人たちがこれらの文化財を守り通したことに感謝の意を表したい。
東大門を抜けて東院伽藍に向かう。正面に夢殿の屋根が見える。電信柱や電線のない石畳と土塀のある道を歩くと何だかタイムスリップしたような気分になる。
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡地で、太子の死後にその遺徳を偲んで建てられた「上宮王院」という別の寺であった。廻廊で囲まれた中に、八角円堂の夢殿(奈良時代、国宝)が建ち、廻廊南面には礼堂(鎌倉時代、国重文)、北面には絵殿・舎利殿(鎌倉時代、国重文)と伝法堂(奈良時代、国宝)がある。
夢殿の堂内中央の八角形の須弥壇には本尊の救世観音(飛鳥時代、国宝)が安置され、毎年春と秋の二回特別公開されている。今年の秋の公開は10/22(火)~11/22(金)だが、公開日を事前にチェックしていなかったので鑑賞できず、非常に残念なことをした。
ほかに夢殿には、東院伽藍の前身である上宮王院を建てた行信僧都坐像(奈良時代、国宝)や、荒廃した東院伽藍の再興に尽くした道詮律師坐像(平安時代、国宝)などが安置されている。
中宮寺
法隆寺の東院伽藍の北に位置する北室院と伝法堂の間の道を東に進むと中宮寺(斑鳩町法隆寺北1-1-2)がある。東院伽藍の東隣にある中宮寺を訪れる観光客は少ないのだが、法隆寺に来てこの寺を訪れないのはもったいないことだと思う。
中宮寺は聖徳太子の母である穴穂部間人皇女のために、皇女の宮があった場所に聖徳太子が建てたと伝えられ、創建当初は現在よりも五百メートルほど東方にあったという。平安時代には荒廃し、室町時代の永正年間(1504~1521)に現在地に移ったと言われており、天文年間に伏見宮貞敦親王の皇女尊智大王が入寺してから、皇女が入寺する慣例となって門跡寺院となったと伝えられている。
新本堂は昭和四十三年に建てられたものだが、寺の本尊である菩薩半跏像(飛鳥時代、国宝)は飛鳥時代の最高傑作のひとつとして世界的に高く評価されている。制作されて千四百年以上経っているのだが、古さを全く感じさせない美しい仏像で、教科書などにもよく画像付きで紹介されている。
なお、中宮寺の保有する天寿国繍帳(飛鳥時代、国宝)は、新本堂に一部複製されたものが展示されている。
法輪寺
法隆寺いかるがモータープールに戻って、次の目的地である法輪寺(斑鳩町三井1570)に向かう。距離にして2.5km程度で数分で到着する。
表門の右側に寺の駐車場、左手前にも大きな無料駐車場がある。拝観料は大人五百円、中高生四百円、小学生二百円だ。
法輪寺の創建は飛鳥時代にさかのぼり、聖徳太子の御子山背大兄王が太子の病気平癒を願ってその子由義王とともに建立したと伝えられるが、一説では百済開法師、円明師、下氷新物三人合力して造立したという説もあるそうだ。昭和二十五年に行われた発掘調査では、当時が法隆寺式伽藍配置であることや、規模が法隆寺西院伽藍の三分の二であることが明らかとなっており、かつてはかなり大きな寺であったのだが、その後しだいに衰微し、江戸時代の正保二年(1645年)には台風のために金堂ほか諸堂が倒壊し三重塔を残すのみになったという。その後享保年間に寶祐上人により三重塔の修理や、講堂、金堂の再建が行われ、長い年月をかけて伽藍が再興されていったと伝わっている。
かつては斑鳩三塔の一つとして親しまれ国宝にも指定されていた三重塔は、昭和十九年に落雷で焼失してしまったのだが、国宝指定が解除されたために国からの資金支援はなく、再建するためには独力で募金を集めるしか方法がなかったという。戦後の混乱期のあと高度成長期の物価高騰となり再建に必要な資金が膨らんで募金集めは困難を極め二代の住職が大変な苦労をされたのだが、作家の幸田文も官公庁への嘆願・申請や募金活動に尽力され、昭和五十年に多くの人々の苦労が実ってこの飛鳥様式の塔がよみがえったという。
奥には講堂があり、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代、平安時代などの仏像が安置されていて、本尊の薬師如来坐像(飛鳥時代、国重文)、虚空菩薩立像(飛鳥時代、国重文)、十一面観音菩薩像(平安時代、国重文)、弥勒菩薩立像(平安時代、国重文)、地蔵菩薩立像(平安時代、国重文)、吉祥天立像(平安時代、国重文)など貴重な仏像を鑑賞することが出来る。
法起寺
次に法起寺に向かう。法輪寺から距離にして0.7km程度である。法起寺の専用駐車場は存在しないが、寺の北側の空地に駐車できるスペースがある。この寺は法隆寺と共に世界遺産に登録されている。
拝観料は一般300円、小学生200円だが、法隆寺と同様に令和七年三月一日より値上げが予定されており、高校生以上500円、中学生400円、小学生300円となるという。結構大幅な値上げになるので、法隆寺と合わせて拝観を検討しておられる方は、値上げ前に行かれることをお薦めしたい。
法起寺の創立については、推古天皇三十年(622年)に聖徳太子の長子である山背大兄王が、太子の遺命によって太子の宮であった岡本宮を寺に改めたとされている。その後638年に金堂が建てられ、685年に三重塔の建立が行われたという。
三重塔(飛鳥時代、国宝)が完成したのは慶運三年(706年)と言われているが、この塔の高さは24mで、三重塔としては日本最古のもので、飛鳥時代の様式を今に伝えている貴重なものである。
法起寺の伽藍配置は法隆寺とは異なり、塔が東、金堂が西に建っており、「法起寺式伽藍配置」と称している。但しかつて金堂が建てられていた跡地には幕末期に聖天堂が建てられている。
講堂は元禄七年(1694年)に再建されたもので、講堂の本尊であった木造十一面観音菩薩立像(平安時代、国重文)は現在収蔵庫に安置されているという。
奈良の斑鳩町近辺にはほかにも古い寺や神社がまだまだあるのだが、次回にレポートさせていただくことと致したい。
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