茨木市の山奥にあるキリシタン遺物資料館 】
平成29年(2017年)に新名神高速道路の茨木千提寺インターチェンジが完成したが、この工事が行われる以前のこのあたりは、美しい棚田の広がるのどかな田園地帯であった。
高速道路工事により棚田の大部分が失われて、付近の景色はすっかり変わってしまったのだが、府道114号線をしばらく北に進んでいくと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。そこを左折して案内通り進んでいくと、いくつかの家々が里山に抱かれた田舎の風景となり、坂を上っていくと茨木市立キリシタン遺物資料館(茨木市千提寺262 ☏072-649-3443:入場料無料)に辿り着く。
小さな資料館で展示品の多くは複製品なのだが、中に入ると、今から100年程前にこの近辺から、貴重なキリシタン遺物が相次いで発見されたことを知ることになる。
教科書などで必ず掲載されている聖フランシスコ・ザビエル像(国重要文化財)を知らない人はいないと思うのだが、この肖像画のほかマリア十五玄義図、キリスト磔刑像などの遺物が、わずか40世帯程度の小さな集落である茨木市大字千提寺から出てきたのである。
なぜ、このような山里から貴重なキリシタン遺物が出てきたのであろうか。
この山里にキリスト教が広まった時代
この地域にキリスト教が広まったのは、高山友照・右近父子が高槻城主であった時代(1573~1585)である。
当時日本にいたイエズス会のルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で天正十一年(1583年)の頃の高山右近の施政について次のように記している。文中の「ジュスト」というのは高山右近の洗礼名で、ポルトガル語で「正義の人」という意味である。また「偶像」あるいは「悪魔の像」というのは、仏像を意味している。
「ジュスト右近殿の領内での改宗は日々に増して多人数の受洗がしばしば行われている。一司祭と一修道士がその地のキリシタンの許を歴訪した折、約一ヵ月間に二百三十名が洗礼を受けた。
高槻領の仏僧たちは、信長の在世中には、我らの教えを聞こうとも、それを望みもせず、ましてやキリシタンになろうと決心することはなかった。右近殿は彼らのところにあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、もしまったくその気持がなければ、予は貴僧らを領内に留め置くわけにはいかぬと伝えた。そこで遂に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンとなり、領内にあった神と仏の寺社はことごとく焼却されてしまい、そのうち利用できるものは教会に変えられた。それら中には摂津国で高名な忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は今では同地方でもっとも立派な教会の一つとなっている。そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわちかの地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部にこれら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらは間もなく破壊され火中に投ぜられてしまった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史④』p.17)
このように高山右近はかなり強引にキリスト教化を推進したのだが、一神教のキリスト教にとって異教とは悪魔の教えであり、偶像崇拝を禁止する教義によって仏像などは排除すべきものであった。
領主である高山右近からの命令であるならば僧侶たちは従うしかなく、かくして領内の仏像・仏具は焼かれ、寺や神社は失われて代わりにキリスト教会が建てられていったのだが、このような文化破壊は高山右近だけが行ったのではなく、他のキリシタン大名の領地においても同様なことが行われていたことが、ルイス・フロイスの記録を読めば誰でも理解できる。
キリスト教の宣教師からすれば、異教である仏教は邪教であり、その信仰の対象である仏像は破壊の対象以外の何物でもなかった。
フロイスの『日本史』には、大村純忠や大友宗麟のようなキリシタン大名や信徒らが、宣教師の教唆により多くの寺院に放火させ破壊させた場面が具体的に記されている。永禄十年(1567年)に東大寺大仏殿が焼かれ大仏の頭部が溶け落ちたのも、フロイス『日本史』では、 三好三人衆側のキリスト教徒が火を放ったことによると明確に書かれている。
寺が存在しない「千提寺」
「千提寺」の地名には「寺」がという字あるのだが、今は千提寺地区に寺が存在しない。
しかしながら、大正十一年に出版された『大阪府全志 巻之三』によると「本地は古来島下郡に属し、もと五個荘の内にして千提寺村と称す。村名は往時神岑寺(かぶさんじ)の塔頭なる千提寺のありしより起れりという。」とある。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、だれでもネットで確認できる。
「神岑寺」というのは千年以上の歴史を持つ忍頂寺(茨木市忍頂寺258)のことで、全盛期には二十三もの寺坊を有する修験道の聖地であったのだが、高山右近によって寺を焼かれ寺領を没収されたと伝わっている。今は支院の一つであった寿命院が現在の忍頂寺として残っているだけだ。その忍頂寺の塔頭であった寺が、以前は千提寺地区に存在したらしいのだが、その寺の名前は「千提寺」と書くのではなく、別の漢字が充てられていたとの言い伝えが地元で残っているという。
郷土史家の東實文男の著書『「茨木」と「竹田」』によると、その寺の名前は「闡(せん)提寺」と書き、それが「千提寺」に書換えられたのはおそらく高山右近の時代で、イエズス会のシンボルである「二支十字章」に似ている「千」という字に代えたのではないかと記されている。
興味深い指摘ではあるが、「闡提」という言葉は仏教用語で、「仏の教えを信じず、成仏する因縁をもたない者」という意味で、この言葉を寺の正式名称とすることは考えにくい。おそらくは、以前は別の字が宛てられていて、高山友照・右近の時代に同寺の住職が仏教を捨てたことから檀信徒から「闡提寺」と蔑まれるようになり、そののち寺が破壊されたにもかかわらず、地名に寺の字が残されたということではないだろうか。
キリシタン遺物の発見
しかしながら、豊臣秀吉が天正十五年(1587年)に伴天連追放令を出し、高山右近は信仰を守ることと引きかえに所領と財産を失い、小西行長に庇護された後、前田利家に招かれて金沢に赴いている。そして秀吉や徳川幕府によりキリスト教が禁教とされ、幕府の取締りが厳しくなるにつれ信者数が激減していくのだが、千提寺ではごく少数の者が秘密を守りながら細々と信仰をつないでいったという。
大正8年(1919年)に、この地域でキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されて注目されたのだが、この発見までにドラマがありそれ以降もさまざまな出来事があった。その点については次回に記すことにしたい。
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