前回の「歴史ノート」で、長野朗著『支那三十年』に中国の排日運動の始まりである「五四運動」には英米人が関与していたことが記されていることを紹介したが、このことは当時多くの新聞が報じているので間違いないだろう。
「五四運動」に関する当時の新聞記事
上の画像は大正八年(1919年)五月六日付の大阪朝日新聞記事だが、北京で起きた五月四日の暴動事件(五四運動)に「某国宣教師」が煽動したことが報じられている。
では、どこの国の宣教師がいつ頃から排日工作を開始したかという点については、同年四月二十五日付の大阪朝日新聞の記事が参考になる。
パリに於て講和会議の開かれてより以来、支那の対日感情悪化はますます熾烈なるが如し。
最近にては、支那商業の中央大動脈とも称すべき揚子江一帯の重要都市に於いて日本商品に対する非買同盟さえ企図さると伝う。
而して其の裏面の黒幕には英米人あり、殊に米国の宣教師が種々なる慈恵事業を起すと同時に、排日熱の鼓吹に努め、排日貨をさえ煽動しつつありとは沙汰の限りなり
大正八年四月二十五日付 大阪朝日新聞
わが国は大正七年(1918年)十一月十三日の外交調査会で、パリ講和会議において議論される国際連盟問題については、「人種差別撤廃」を連盟参加の条件とすることを決していた。
翌年一月十四日にパリに到着した日本全権団は、講和会議で人種差別撤廃提案を成立させるために各国との交渉を開始したのだが、その頃から中国の対日感情が悪化したというのである。そして、排日を使嗾したのは英米人であり、特にひどかったのが米国の宣教師だったというのだ。彼らがどのような発言をしていたかについては、こう記されている。
またパリ会議について曰く『支那使節が各国使節に対し日本に一致反対せん事を運動せるは喜ぶべし』という。
大正八年四月二十五日付 大阪朝日新聞
『日本が支那国民を煽惑し北京当局を恫喝し支那使節の召還を企図しつつあるは憂うべし』などと飛んでもなき煽惑を試みつつあり。
もしそれ煽惑の文字を正当にあてはめれば、米国が宣伝師を使駆して排日熱を鼓吹しつつある是れこそ煽惑の標本なれ。
「五四運動」を起こした中心メンバーは北京大学生であったのだが、この北京大学とはどういう大学なのか。
同年五月七日の報知新聞の記事によると、北京大学は米国宣教師が創立したキリスト教系の大学である。
北京大学はキリスト教主義の教育を施す目的を以て米人宣教師が千八百七十年小学校として創設したるが濫觴(らんしょう:始まり)にして、爾来逐年校勢隆興せる結果千八百八十八年に至り大学制度に組織を変更し以て現在に及べる古い歴史を有し、多数の学生を収容するのみならず、外人教師の数二十有余名に達するなど純米国式学校と見做し得るものなればなり。
大正八年年五月七日付 報知新聞
しかしてこの不祥事変突発の因たるや、山東問題に対する支那の勝手気儘なる主張が貫徹せざりしに基くものならんも、これは表面にして、その内実はひそかに好機到来を待望し居たる排日派と、今後支那に於ける我国の勢力の駆逐を企図する米人等が、山東問題に名を藉りて一斉蹶起せるものと見るを至当とすべく、しかも彼等は相当の知識を有するを以て在支邦人は勿論わが公使館員らに一指だも触れなば忽ち国交問題を惹起するを憚り、平素親日派と認め居る曹交通総長、章駐日公使、陸前駐日公使等に先ず危害を加えたるものなるべきが然もその勢の激するところ、或は我公使館等に対し暴挙に出づるやも計り難く、然る時には我北京駐屯軍一中隊は武力正当防衛の已む無きに至るは必然ならん。
少し補足すると、第一次世界大戦でわが国は、日英同盟を理由として大正三年(1914年)にドイツに宣戦し、山東半島のドイツ軍事基地である青島(チンタオ)やドイツ領南洋諸島の一部を占領した。終戦後、山東省におけるドイツの権益は日本が承継するという講和案に中国が反対し、アメリカが五強国による山東の共同管理を提案したのだが日本が受け入れなかったため、結局パリ講和会議で日本案が承認された経緯にある。しかしながら、その後中国は講和条約の調印を拒否し、通説ではこの問題が排日運動の原因となったように解説されているのだが、この報知新聞の記事によると、山東問題は排日運動の表向きの理由であり、実際は日貨排斥で自社商品の売上拡大を狙っていた中国の排日企業家と、中国に於ける貿易拡大を狙っていた米国が、大規模な排日運動を起こして日本の商圏を奪い取ろうとしたというのである。
朝鮮における外人宣教師たちも排日運動を仕掛けた
前回の記事で、英米人が中国人に排日運動を仕掛けたのは、黄色人種間の分断を図る意図があったのではないかと書いたが、もしその意図があったとしたら他の黄色人種にも同様に分断策を仕掛けていたはずである。
中国で五四運動が起きる前に、朝鮮半島では三・一独立運動が起きているのだが、一般的な教科書ではこのように記されている。
(パリ講和会議で)民族自決の原則により東欧諸国などの独立が認められた。朝鮮でも同年(1919年)、民族独立をもとめる運動(三・一独立運動)が高まったが、日本は軍隊を出動させてこれを鎮圧した。
『もう一度読む 山川日本史』p.278
普通に読めば、朝鮮人の中から独立を求める運動が始まったとしか読めないのだが、「神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ」で当時の新聞を調べると、同じ時期に朝鮮半島においても英米の宣教師が排日工作を行っていた記事をいくつも見つけることができる。
上の画像は大正八年三月十四日の大阪朝日新聞の記事だが、三月一日にソウルで起きた独立運動は米人宣教師が使嗾したことが記されている。
某米人宣教師の如きは某当局に向って、国民自由の叫びは何れの文明国に於ても見るところで、朝鮮人だからとて禁ずる理由を見ない。彼等が破壊的行動に出でざる限り之れを認容すべしなどと、とんでもない事を公言しておったというが、彼ら米人中の宣教師は、一日の騒擾勃発するや各方面に狂奔して群衆と行動を共にしたるものもあるし、あらゆる騒擾の写真を撮影したものもある。中には檄文散布に自動車を提供した一外人もある。
大正八年三月十四日付 大阪朝日新聞
五日徳寿宮前の騒擾には幾千の群衆は一外人(米人か)を囲繞してフレーフレーを連呼し、更に独立万歳を叫び、その外人は屹然として突っ立ち四辺を睥睨しておったなどは当時衆人の目撃しているところである。またセブランス病院看護婦が五日の騒擾前に印刷物を病院より携帯し細帯迄も用意しておったが、その後から二三の外人が自動車を駆って群衆の後に追随しておったのも見受けた。地方に於いても同様、騒擾の元兇は多く天道教*及び基教学生か、左なくばその信者である。そしてそれには必ず宣教師等が蔭の形に添う如く出没指揮しているのを見受けたとは何れも報告の一致しているところであって、更に驚くべきはこの騒擾前、満洲及北京方面より十数名の宣教師が入鮮した形跡があることである。かくの如く、今回の騒擾の裏面には某国宣教師等の潜在し居たのは何人も否定し能わざるところであるが、我が官憲は須らくこの大本に着眼して、速かに何等かの方途に出でんことを一般に懇望されているのである。
*天道教:東学の正統を受け継ぐとして東学の第三代教主孫秉熙(そんへいき)がおこした朝鮮の宗教の一つ
上の画像は大正八年六月一日付の大阪毎日新聞の記事だが、朝鮮暴動の背後に米国宣教師の工作があったことは事実であり、その結果彼らは内外の信用を失ってしまい、信頼を回復するために、彼らはさかんにフェイク・ニュースを流したと述べている。
朝鮮事変勃発以来、東洋ことに支那各地よりの電報は、あるいは日本官憲の米国領事逮捕説、外国宣教師邸宅捜索説等を伝え、また日本軍が無辜の良民を虐殺したなどと、まことしやかに報道しているが、これらの電報が、例の排日新聞のみならず、一流の新聞紙上にまで掲載されたので、すこぶる米国市民を驚かした。その出処の何れに在るかは別として、当地に於ける朝鮮人も目下当もない独立運動に躍起となって居る。
フィラデルフィア市において、朝鮮独立会議と称する会合が、さる四月十四日から二日間、同地方在住の鮮人数百名によって計画され、独立準備政府を設立し、代表者をパリに派し、かくしてその目的を貫徹せんとする一方(この企ては米国政府が旅行券を下附せなかったため終に失敗に終ったが)、支那人並に一部の宣教師等と気脈を通じてプロパガンダに努め、印刷物を頒布し、活動写真を利用して、日本の政策を中傷し、米国の世論に訴えて、日本政府を圧迫せんと努めている。現に彼等は「朝鮮民族の自由」と題する月刊雑誌を発刊し、各地の図書館、大学、新聞社等に普く配布し、又フィラデルフィア市に行われた鮮人独立運動の行列を活動写真に撮り、見物人の同情心をそそる様な文句を並べて、ニューヨーク市はもちろん米国各地の活動写真館に開演中である。これら在米鮮人の独立運動の中心に野心満々たる米人宣教師並に政治家が隠れていることは明かである。
大正八年六月一日付 大阪毎日新聞
わが国においてこの様な事実はすっかり忘却されてしまっていて、戦後に出版された教科書や通史などでは、当時の米国宣教師らのプロパガンダがそのまま歴史的事実であったかのように記されていると言って良い。
英米が仕掛けた「排日運動」により断たれた有色人種の希望
以前このブログで、米国黒人の知識人が日露戦争に勝利した日本に刺激を受け、日本が中国をヨーロッパから解放し、インドやアフリカや東南アジアなど有色人種の国々を白人支配から救い出してくれることを期待したことを書いた。
しかしながら彼らの期待は、アングロ・サクソンの伝統的統治施策である「分断工作」により断たれてしまった。「分断工作」とは、被支配者同志を対立させ統治者に矛先が向かう力を弱めていく政治手法である。
英米は、日本が有色人種のリーダーとなって世界の植民地で原住民が白人に立ち向かい、白人優位の世界が崩れていくことを怖れていた。そこで彼らは、まずアメリカ国内で排日運動を仕掛けて日本人と黒人とを分断し、日本がパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出すると、支那や朝鮮で排日運動を仕掛けて、黄色人種である朝鮮人・支那人と日本人とを対立させて、日本の弱体化をはかろうとしたのではないだろうか。
この当時の新聞記事を探すと、オーストラリア、ハワイ、フィリピンでも排日運動が行われたことがわかるが、いずれの国の排日も、白人が支配する植民地の有色人種が日本人に接近しないために仕掛けた「分断工作」であったと理解している。
同時期に世界各地で排日運動が起こったのは、わが国がパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出したことと無関係であるとは思えない。少なくとも、日本が悪いことをしたために世界で「排日運動」が起こったのではなく、白人にとって都合の悪いことをしようとした日本を叩く目的で、白人から「排日運動」が仕掛けられたということであったと思うのだ。
ところが、終戦後GHQは、このような史実を記録した本を焚書処分して戦後の日本人に読めないようにしてしまった。さらに『日本新聞遵則(プレスコード)』を定めて、戦勝国にとって都合の悪い記事を書けないようにしたのだが、そのリストの中に、「中国・朝鮮人に関する批判」が削除・出版禁止対象にされていることは注目して良いだろう。
このプレスコードは今もマスコミなどによって実質的に守られ、教育界も同様なのだが、GHQが中国・朝鮮人に関する批判を禁じたのは、今回紹介したような真実が日本人に広く知られたままでは、「戦勝国にとって都合の良い歴史(日本だけが悪かったとする歴史)」で日本人を洗脳することが難しいと考えたからではなかったか。
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