紀州攻めで焼かれなかった高野山
ルイス・フロイスは『日本史』で紀州国についてこう記している。文中で「悪魔」とあるのは仏教を意味しており、キリスト教の宣教師にとっては、異教はすべて「悪魔」の宗教なのである。
「堺の付近を和泉の国と称するが、そのかなたには、国を挙げて悪魔に対する崇拝と信心に専念している紀伊の国なる別の一国が続いている。そこには一種の宗教(団体)が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在で、昔から同盟ではつねにその信仰が盛んに行われて来た。いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことができなかったのみか、ますます大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉篇1』p.56)
フロイスは紀州の宗教事情について随分詳しく書いている。フロイスは宗教団体として、高野(こうや)、粉河(こかわ)、根来、雑賀(さいか)を詳しく記しているが、高野と粉河についてはこのように記している。
「これらの宗団の一つを高野と言い、三千ないし四千の僧侶を擁している。その宗祖は弘法大師で、彼は七百年前、そこに生きたままで埋葬されることを命じた。同宗派は真言宗と称し、この高野の宗団は、頂上に大いなる平地と自分たちの憩いの場を持つ高山にある。毎年大勢の参詣者や巡礼が訪れるが、いかなる女性もそこに登ることが許されないし、また女性に関連した物品も齎(もたら)すことができない。それがために、周知のように、また同所の仏僧たちは忌むべき輩であり、その生活は淫猥をきわめたものとなっている。
同国にある第二番目の宗団は粉河と呼ばれる。それは前者に比すると人員なり規模においてはるかに劣るのであらためて特筆する価はなく割愛することにする。」(同上書 p.56-57)
高野山には高野衆、粉河寺には粉河衆と称する僧兵はいたが、兵力では根来衆や雑賀衆には大きく及ばない。粉河寺は秀吉軍の紀州攻めで全山全焼してしまったのだが、粉河衆よりも規模の大きい高野山は焼かれずに済んでいる。それはなぜなのか。
ルイス・フロイスは次のように記している。
「高野の国の仏僧らは、羽柴(秀吉)が根来征伐に成功したことを知ると、自分たちはかなり遠く隔たったところにいたとは言え、逃走して来た根来衆を匿うことを恐れ、そうすれば確実に身を滅ぼすことになることが判ると、彼らは根来衆と同じ宗派に属していたにもかかわらず、同所に避難して来た者全員を斬首し、それらの頸を羽柴(秀吉)の許へ贈物として差し出し、根来衆は秀吉の敵であるから、こうして一役買って出たのだとの意向を示した。」(同上書 p.67)
フロイスはそれ以上何も記していないが、秀吉はそんな簡単に高野山を許したわけではないようだ。Wikipediaによると、
「四月十日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された。その後、十月二十三日までには高野山の武装解除が完了した。」
根来寺が焼かれたのは三月二十三日で、粉河寺や雑賀衆の各郷が焼かれたのはその翌日とされているのだが、高野山まで一気に攻めてこなかったのは、フロイスが書いているとおり、彼らが早い段階で秀吉に恭順を示したことが功を奏したのであろう。
太田城の水攻め
秀吉軍は和泉国を制圧し、主力部隊は根来衆と雑賀衆の残党を追って紀ノ川を渡った。雑賀衆は紀伊国の北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域の地侍達で構成されている。
秀吉軍は雑賀衆が築いたいくつかの城を破り、最後に太田城という大きな城が残された。
フロイスはこの城についてこう解説している。
「この城郭はまるで一つの町のようであり、雑賀の財宝の粋が蓄積されていた。そこには根来衆と雑賀衆の重立った指揮官が全員集結し、武器、兵員、食糧も豊富に蓄えられており、日本人の常食となっている米だけでも城内に二十万俵あると言われていた。
同城はすべての部門をきわめて巧妙、かつ堅固に防備していて、攻撃によって城内に侵入することは困難であったので、羽柴(秀吉)はある奇抜な奸計を用いることにした。すなわち彼は、城の周囲三里にわたり一種の土塀のように堤を設け、敵軍が防御に利用していたかの水量豊かな大河の水をその堤の中に導入し、彼らを水死させることにした。秀吉は、これらの堤の工事を全指揮官に分担させたが、それは畳九ないし十枚ほどの幅と五、六枚の高さであり、城から遠く隔たり、ほぼ鉄砲の射程距離くらいのところにあった。」(同上書 p.71)
太田城は小高い丘の上にあるのではなく、周囲に水路をめぐらした環濠集落の中に築かれた城である。国土地理院の地図で標高を確認すると太田城の標高は3.4m程度で紀ノ川の川沿いにあるせせらぎ公園よりやや低い水準にあることがわかる。
三月二十八日から築堤が開始され、四月五日までには堤が完成し、注水が始まった。
「河の水が激流をなして…堤の内部に侵入し始めると、城内のものは恐怖に満ち、羽柴の許へ、泳いで人を派遣し、和を乞い、助命されるならば五十万クルザードを提供してもよいと申し出た。だが秀吉はそれに耳を傾けず、敵の全員をそこで水死させる覚悟であった。」(同上書 p.72)
秀吉は当初数日で敵を降伏させると考えていたが、途中で堤防が一部切れてその修復に数日がかかり、敵は鉄砲で粘り強く抵抗を続けたという。
四月二十一日に秀吉は一気に決着をつけるべく、水軍の総司令官であった小西行長に船を堤防内に導いて、城兵と戦うことを命令した。
小西の船にはモスケットなどの大筒の鉄砲を保有していたのでさんざん敵を悩ませたが、敵も鉄砲を撃って応酬し、戦闘は二、三時間にわたって行われたという。
秀吉が戦闘を中止して引き上げるように命じた時には、小西勢も疲労していたが敵軍はそれ以上に疲労困憊していてついに抗戦を断念し、翌二十二日に首謀者五十三名全員の首を差し出して降伏した。五十三名の首は天王寺の阿倍野にさらされ、また秀吉は、さらに首謀者の妻女二十八名を磔にかけたという。
秀吉は降伏して赦免され城を出た雑兵や農民に対し、農具や家財などの持ち帰りは認めたが、武器は没収した。
紀南の制圧とその後の一揆
かくして根来衆・雑賀衆は滅ぼされたが、紀南の国人衆の対応は分かれ、一部は秀吉軍に帰順したが、日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯川直春は徹底抗戦を主張し、これに呼応する土豪も多数いた。
湯川勢は秀吉軍に押されて、亀山城(現御坊市)、泊城(現田辺市)を捨てて後退し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へ向かうが、田辺に入って来た秀吉軍の三千の兵は同地の神社仏閣をことごとく焼いていったと伝えられている。
湯川勢は潮見峠(田辺市中辺路町)で反撃に出て秀吉軍を退却させるなどして大いに苦戦させ、最後は直春と秀吉は和議を結んで湯川の本領は安堵されたという。
神保氏、白樫氏ら早期に秀吉軍に下った者と、最後まで戦って負けなかった湯川氏は所領を安堵されたが、他の国人衆は没落した。
秀吉の紀州攻めで紀伊の寺社や国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられ、紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は藤堂高虎を奉行として和歌山城を建築し、また秀長による天正検地は天正十三年閏八月から始められ、同十五年以降の秋以降に本格化している。
しかしながら、紀州はそれで治安がまとまったわけではなく、各地の地侍はその後も蜂起を繰り返している。その後天正十九年(1591年)に秀長が没し、養子の秀保が後を継いだが文禄四年(1595年)に急死している。それ以降の紀伊は秀吉の直轄領となり、大和郡山城主の増田長盛が代官として支配した。
この戦いで紀伊国の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたのだが、各地の地侍はその後も蜂起を繰り返したという。
まず天正十四年(1586年)八月に熊野から日高郡山間部(現田辺市龍神村)で一揆が起きているが、秀吉は天正十五年(1587年)に村の紛争解決の為に武器を使用する事を全国的に禁止(喧嘩停止令)し、天正十六年(1588年)には刀狩令を出している。
喧嘩停止令は、以前私の別のブログでも書いたが、この法令により農民の武力行使が激減したことは重要である。
しかしながら、秀吉が死んだ直後の慶長三年(1598年)九月には再び日高郡の山地郷で一揆が起こり、大弾圧の末に鎮圧されている。
そして江戸時代に入り、大坂冬の陣が始まった直後の慶長十九年(1614年)十二月に奥熊野の地侍や山伏が蜂起し、三百六十三人が処刑され、翌年の大坂夏の陣が始まった直後にも日高・有田・名草の地侍が留守の和歌山城を狙って蜂起したが再び鎮圧され、四百四十三人が処刑されたという。
二年連続して起こったこの一揆を紀伊国一揆と称しているが、この一揆の鎮圧により紀伊国の土着勢力の抵抗は終息したのである。
紀伊国で三十年間も長きにわたり抵抗が続いた理由は、秀吉の紀州攻めに納得できなかった国人衆が少なくなかったということではないだろうか。湯川直春はもともと羽柴秀吉と対立し雑賀衆・根来衆との同盟があったので攻められた理由はわかるが、秀吉軍は本来戦わなくても良い相手と戦い、焼く理由の乏しい多くの神社仏閣に火を放ってしまった。そのために長い間秀吉が恨まれることになったのであろう。
大坂夏の陣で敗れて豊臣家が滅亡したことで、ようやく紀伊国の人々も留飲を下げたと理解すれば良いのだろうか。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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