一般的な教科書の『朝鮮出兵』の記述と朝鮮の公式記録との比較
前回記事で紹介した通り、GHQ焚書とされた加藤武雄著『豊臣秀吉』には、キリスト教宣教師がポルトガルやスペインの世界侵略の先兵であり、彼らはキリスト教の布教を認めた大名に土地を担保に資金支援して返済できない大名の土地を取り込んでいったことや、多くの日本人が海外に奴隷に売られていったことを述べ、このまま放置すると日本が危なくなると考えて秀吉が伴天連追放令を出したことがしっかり書かれている。
また朝鮮出兵の前年である天正十九年(1591年)以降三度にわたり、秀吉がスペインのフィリピン総督に降伏勧告状を出している事実もきちんと書き、著者は秀吉の朝鮮出兵について、外国勢力からわが国を守るために「うたなければならぬ手をうった」と述べているのだが、戦後の歴史叙述では「秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをした」というニュアンスで描かれることが大半である。
たとえば『もういちど読む 山川日本史』には秀吉の外交についてこう記されている。
秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東南アジア方面の進出がさかんになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は二度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国内外にも豊臣政権がくずれる原因の一つになった。
(『もういちど読む 山川日本史』p.145-147)
このように戦後の一般的な歴史叙述では、スペインがわが国を侵略する意思はあったことや、二度にわたり出兵された事情については全く触れることがなく、またお隣の国に忖度して朝鮮民衆の激しい抵抗があったとか反日感情をつのらせたなどと書かれているが、朝鮮側の公式記録『宣祖実録』の二十五年五月壬戌の条には朝鮮の民衆から日本軍に協力する者が続出したことが書かれている(人心怨叛,與倭同心耳 我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也[人心は怨み叛き、倭に同調するのみ。我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?」])。少なくとも第一回目の文禄の役の緒戦においては教科書の記述は事実と真逆である。
また明軍にも朝鮮軍にも鉄砲はなく、大量の鉄砲を保有する日本軍との兵力差は歴然としていた。上の画像は慶長の役の順天城の戦いを描いた『征倭紀功図巻』の一部だが、日本軍は鎧や兜をつけずに遠くから鉄砲を撃つだけだ。朝鮮兵は槍を持って日本国軍に近寄ろうにも、多くの銃口が向いているのでとても近寄れない。これだけ武器の差が歴然としていたらまともな勝負にならないことは誰でもわかる。
GHQ焚書『豊臣秀吉』には朝鮮出兵についてどう描かれているのか
では加藤武雄著『豊臣秀吉』には、朝鮮出兵はどう描かれているのであろうか。まず文禄の役の緒戦について記している部分を紹介しよう。
秀吉の目的は、明(みん)であった。支那であった。朝鮮にはただ、路をかりようとしただけで、朝鮮を相手に戦うつもりははじめからなかった。が、そのころの朝鮮の政府は、…ごしょう大事に明にすがっていた。だから、小西行長等が、一心に、平和に事をおさめようとしていたにもにもかかわらず、日本軍に楯ついた。そうなれば、戦う外はない。
釜山も、釜山付近の城々も、手もなく落ちてしまった。そこで、加藤小西両軍は、京城*をめがけて、奥へ奥へとすすんで行った。釜山から、京城への道筋は、みなで、三つある。(小西)行長の軍は中央の道をすすみ、(加藤)清正の軍は、向かって右側の道を進んだ。
朝鮮は、そのころ、李朝によって支配されていたが、李朝の政治がわるかったので、国の力がおとろえ、ろくな軍備もなかったので、とうてい、日本軍をふせぐことができなかった。中央の道を進んだ行長軍も、右側の道を進んだ)清正軍も、まるで竹をわるような勢いで、諸城をおとしいれ、両軍は、一度忠州でいっしょになったが、ふたたび道を分かって、京城にすすみ、五月三日には、両軍勢を合わせて京城をおとしいれてしまった。国王、李昖(リエン)は京城が落ちる前に、その北の開城に逃げた。釜山に上陸してから、わずか二十日ばかりで、朝鮮のみやこ京城を占拠したのである。
*京城:現在のソウル
(加藤武雄著『豊臣秀吉 下巻』p.147)
釜山から京城までを20日で進んだということをどう評価すればよいのだろうか。京釜線(鉄道)の距離が442kmだが、実際は違う道を進み山越えなどがあるので、一割以上は京釜線より長い距離を歩いたことであろう。その距離を500kmとして、毎日のように各地で戦いを繰り返し、大量の武器兵糧を運んで、一日平均の軍の移動距離が25km(500km/20日)ということは、各地での戦いがかなり短時間で終わったことを意味し、日本軍が圧倒的に強かったことを示している。参考までに、東海道五十三次の約500kmを幕末に日本を訪れたシーボルトは17日かかっているので一日平均29km進んだことになる。
李氏朝鮮の公式記録である『宣祖修正実録巻二十六』には、日本軍が攻める前に王族は城を捨てて北に逃げ、朝鮮の民衆に王宮を焼かれたことが記されている。「民衆の激しい抵抗」を受けたのは日本軍ではなく、むしろ宣祖王の方であったのだ。(宣祖二十五年四月三十日条)
その後先鋒の加藤清正の軍は東北に兵を進めてて豆満江を渡って進軍していき、もう一人の先鋒の小西行長軍は北に兵を進め、平壌を陥落させると朝鮮国王はさらに北に逃れて明に援助を求めたので行長軍は明軍とも戦うこととなったが、その戦いに勝利している。
しかしそれからあとの行長は平壌から動こうとせず、明軍の沈惟敬(ちんいけい)に和解の話を持ち掛けている。そして返事を待っている間に明・朝鮮連合軍の大軍に襲われている。加藤氏の著書の引用を続けよう。
和睦ばなしで、行長をゆだんさせておきながら、李如松(りじょしょう)軍が不意に平壌の城をおそったのは、文禄二年正月五日のことである。李如松軍は二十万の大軍である。城兵は、行長をはじめ、宗、有馬、松浦等の軍総勢あわせて一万五千に過ぎない。十倍以上の大軍で、四方からとりかこまれてしまっては、さすがの日本軍も非常な苦戦となった。日本軍は、得意の小銃で大いに敵を悩ましたものの、一万五千の三分の二が傷ついたり斃れたりして、城の外ぐるわは、すっかり乗っ取られてしまった。明や朝鮮には、まだ小銃というものはなかったが、そのかわり大砲があった。どかんどかんと大砲を打ちこまれては、しょせん守りきれない。日本軍はついに平壌をすてて退却した。
(加藤武雄著『豊臣秀吉 下巻』p.157-158)
『宣祖実録』によると、この戦いで明軍が得た首級の半分が朝鮮の民衆のものであり、戦闘で焼け死んだ一万人はみんな朝鮮の民衆であったという (李如松 平壤之役, 所斬首級, 半皆朝鮮之民, 焚溺萬餘, 盡皆朝鮮之民) 。朝鮮の民衆の多くが日本軍に加勢していたことがこの記録からも明らかである。
小西行長は一旦京城まで戻り、宇喜多秀家等とともに郊外の碧蹄館(へきていかん)で李如松軍を迎え撃っている。この碧蹄館の戦いで日本軍は大勝し、李如松はすっかり戦意を喪失して明も和解に応じる流れとなる。
日本軍の兵糧不足
このように陸軍は強かったのだが、日本軍が用意した船は兵や兵糧等の輸送を主目的に造られたもので、海戦のあることを考慮していなかったという。日本軍も兵糧が不足しつつあるなかで、李舜臣の率いる朝鮮海軍が日本船の航行を妨害し、日本軍は兵糧も運べず兵員の補充も難しくなっていたという。
渡辺氏の著書には書かれていないが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』には日本軍の兵糧不足がかなり深刻であったことが書かれている。
蓋し当時の在京城の日本軍は、彼是(かれこれ)条件などに拘泥すべき場合ではなかったのだ。彼等は講話なきも、自発的に撤退せねばならぬ必要に、迫られつつあった。彼等もし万一京城に執着すれば、餓死の他なかった。かかる危急の場合に際して、かねての軟派であった小西行長が、沈惟敬に向って、彼是面倒なる条件を持ち出すが如き、理由は断じて是れ無いのだ。
(『近世日本国民史. 第8 豊臣氏時代 戊篇 朝鮮役 中巻』p.465-466)
また朝鮮半島の冬は日本よりも厳しく、兵糧も乏しく兵士の士気も落ちていたため、日本軍は長く戦える状況にはなかったという。
そもそもこの戦いの当初の目的は明国の制覇であり、朝鮮半島に留まっている段階で明と講和することは秀吉の本意ではなかったはずなのだが、それでも秀吉が講和交渉に応じざるをえなかったほど、現場の兵糧不足が深刻であったことを知るべきである。
秀吉の呈示した講和条件と行長の交渉
和平交渉は小西行長に一任されていたのだが、加藤氏の著書には行長の交渉についてこう記されている。
さて秀吉が明に対してさし出した和睦の条件のおもなものは、朝鮮八道*のうち四道を日本によこすこと。明と通商をひらくこと、朝鮮は、王子の一人と大臣の一人を人質として日本に渡すことなどであった。明から名護屋へやってきた使者にも、しかと、これを申し渡したのである。また、こちらからも、この条件を明の政府に申し渡すために小西行長と親しい小西如安(じょあん)がわざわざ北京へ出かけて行ったはずであった。ところが、如安は、その通りに明の政府に伝えず、朝鮮にいる日本軍は全部引き上げる、日本は朝鮮と同じように明の属国となる、というような、とんでもない、ばかばかしい話をとりきめて帰って来たのである。日本人の中にもこんな大ばかものがいたのかと思うと、今、思い出しても腹が立つ。が、小西行長も同じような大ばかものだったのだ。如安は行長と腹をあわせて、こんな国を売るようなまねをしたのである。行長も如案も、キリシタンで、そのために、日本精神というものをなくしていたのだ、と考える外はない。
*朝鮮八道:慶尚道、全羅道、忠清道・京畿道、黄海道、江原道・平安道、咸鏡道
(加藤武雄著『豊臣秀吉 下巻 p.172-173)
秀吉が上記の講和条件を出したのは、文禄二年(1593年)五月に名護屋城で明勅使と会見した際に伝えたものであるが、この条件ではハードルが高すぎてこの条件で纏めることは難しかったと思われる。加藤氏の著書では記していないが、日本軍が講和を急いでいた理由が兵糧不足にあり、食糧や兵を運ぶ船が不足していることも明軍ではわかっていたであろう。交渉が長引いたり打ち切られた場合に窮することになるのは主に日本軍の方であり、明軍は時間をかけた方が交渉上優位に立てるのだ。
朝鮮八道のうち四道を和睦の条件とするということは、京城のある京畿道を含む四道は朝鮮のものとし残りの四道を日本のものとするというものだが、秀吉がこの条件を出した文禄二年(1593年)五月一日の時点では日本軍は京城府を撤収し釜山周辺に移動していたのである。交渉事なので秀吉が高めの玉を投げたにせよ、日本軍が撤収してしまっている道 (地域)を日本領とすることを講和の条件としたところで交渉にはならないだろう。
しかしながら、日本軍は加藤清正が逃亡中であった朝鮮の二王子を捕縛していた。この王子の存在は、日本側が講和交渉を有利に進めるのに非常に役立ったはずなのだが、この二人は、秀吉が和睦条件を明勅使に提示した二か月後に朝鮮に返還されている。徳富蘇峰の前掲書にはこう書かれている。
秀吉は行長等の意見を容れて、ついに両王子を、加藤清正の手より宗義智(そうよしとも)の手に移し、宗よりして朝鮮に放還せしめた。
…(中略)…
秀吉は一人の王子さえも、日本に来質するを必需としたるに、既に生け捕りたる二人の王子、及び其の妃嬪、その他の高官を、秀吉の手前を偽りて、返還したのは、如何にも辻褄の合わぬ話ではないかということだ。
(『近世日本国民史. 第8』p.561~563)
二王子を返還してしまっては、一人を人質に出せと言っても交渉のハードルが高くなるばかりである。
少し補足すると、宗義智は対馬の領主で、正室は小西行長の娘である。正室もキリシタンだが、義智本人も行長から影響を受けてキリシタンになっていた。
秀吉の激怒
秀吉はキリシタン大名の小西行長を先鋒に任じただけでなく、明との講和交渉も任せていたのだが、 明の使者がもたらした国書の内容は秀吉が行長に伝えた講和条件を 全く考慮しないものであった。
再び加藤氏の著書に話を戻そう。
この年(慶長元年:1596年)の七月、明の使い、楊方亨(ようほうこう)というものが、例の沈惟敬(しんいけい)を副使として、日本にやってきた。丁度、そのとき大地震があって、秀吉の伏見の居城が倒れてしまったので、九月になってから、秀吉は大阪城に、明の使、楊方亨らを呼び寄せた。使者は、明の国書――明の天子からの手紙を秀吉にたてまつった。秀吉はそれを承兌(しょうたい)という坊さんに読ませた。その席には徳川家康、前田利家等の諸大名が威儀を正していながれていたが、小西行長も朝鮮から帰ってその席につらなっていた。行長は、明の国書の読む役が承兌だと知ると、あらかじめ承兌に、秀吉を怒らせぬよう、いいかげんにとりつくろって読んでくれと頼んだ、が、そんな馬鹿なことができるはずはない。承兌は書いてある通りに読んだ。そして
「爾(なんじ)を封じて日本の国王とす。」
という文句のところまで来ると、秀吉は真赤(まっか)になって怒った。そして承兌の手からその国書をとりあげると、力いっぱい床にたたきつけて、
「おれが日本の王になるのに明のおせっかいは受けない。日本には、天皇のおわしますのを知らぬか。」
と、身をふるわしてどなった。
長い間の行長のごまかしが、これですっかりわかってしまった。秀吉は、明の使いをおわびのための使いだとばかり思っていたのに、日本を属国あつかいにし、自分を家来あつかいにした傲慢無礼の国書を持ってきたのだ。そしてそれが、みんな行長のごまかしから出たのだと知ると、
「行長め、けしからんやつだ。打ち首にしてしまえ。」
といきまいたが、承兌等のとりなしで、ようやくその怒りをしずめ、その夜、ただちに、ふたたび、明国征討の軍を起こせとの命令を下した。
(加藤武雄著『豊臣秀吉 下巻 p.173-174)
では、小西行長が行った和平交渉とはどのようなものであったのだろうか。そのことを書くとまた長くなるので、次回に記すことといたしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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