「応仁の乱」で東西両軍の足軽に雇われた人々
前回の「歴史ノート」で、応仁元年(1467年)に「応仁の乱」が始まると、それまで毎年のように勃発していた「徳政」を求める土一揆が記録されていないことを書いた。
応仁の乱の十一年間においても飢饉が発生したのだか、京周辺の村人たちは生きるために東軍あるいは西軍の足軽となって、乱暴狼藉を働いて稼いだという。乱が続いている間に徳政一揆の記録がないのはそういう事情のようだが、それまで土一揆に参加していたメンバーがそのまま足軽になったというわけではないようだ。
藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』にはこう解説されている。
「戦争の主役となった足軽たちは、「土民・商人」(『樵談治要』)や「中間・小者」(『応仁乱消息』)など、庶民や雑兵ばかりだとか、「京中・山城の脇に多かりけり」といわれていました。つまり、これら足軽たちもまた、周縁の村々から京に流れ込んだ人々だ、とみられていたのです。また時には「馬上(武士)は十二騎、野武士は二千人ばかり」とか「馬上二十五、六騎、野武士二千人ばかり」(『後法與院政家記』)ともいわれました。おどろくほど多数の野武士・足軽たちが、大名軍(馬上の武士)に雇われて、各地から京の戦場へあいついで乗り込んでいたことがよくわかります。
ただし、土一揆のときは七郷の寄合いを開き、村ぐるみで京の東郊の山科七郷の村人たちも、この応仁の乱の内戦では、地域の防衛だけに徹し、東西の両軍から要請があっても、よその戦場に出動することは拒否し、どうしても軍が出動をのぞむなら、年貢の半分(半済)を免除せよと、つよく要求していました。また西軍の畠山義就軍にやとわれ「西岡の足軽」をだした下久世庄の人々も、出動の代償に年貢の二五パーセントを控除させていました(酒井紀美「山城西岡の応仁の乱」『相剋の中世』東京堂出版 2000年)。ながく徳政をさけんで土一揆を闘ってきた、周縁の村人たちはじつにしたたかで、軍の命令のままに強制的に動員され駆使されつくしていた、というわけではなかったのです。
戦場となった京の街角でも、足軽たちは注目の的になっていました。九条の東寺の近くに住む馬切の衛門五郎という男が、足軽大将と名のって足軽集めをし、寺に仕える一帯の人々は、きそって雇われていたのです。寺がそれをくい止めようと、百五人もの使用人の男たちに「足軽禁制」を誓約させても、その流れを阻止できないほどでした(『廿一口方評定引付』)。戦場の足軽はよほど魅力のある稼ぎ口であったらしいのです。
足軽の大将といっても、正規軍の部将というわけではありません。「馬切」などといかにも乱暴者らしいあだ名の男が、おれが足軽大将だといって、かってに傭兵隊を作り上げ、東西の両軍のどちらかに、少しでもいい条件で売り込もう、としていたらしいのです。」(藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書 p.74~75)
上の画像は『真如堂縁起絵巻』の一部だが、「乱妨人」たちが「足軽と号し」て寺を襲って、寺の建具などを解体して運び出す姿が描かれている。このように足軽に雇われたメンバーの中には、争いに便乗して悪事を働く盗賊集団のような連中が少なからずいたと考えられる。
「応仁の乱」はどのような戦いであったのか
「応仁の乱」が起きたこことで、このような足軽が大量に求められたわけなのだが、ここで「応仁の乱」がどのような戦いであったのか、簡単に振り返っておきたい。
『もういちど読む山川日本史』では、こう解説されている。
「応仁の乱
義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の妻・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った。
このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うことが多くなった。こうした争いをつうじて下位のものの実力が強化され、実権は主人から下位のものへ移っていった。指導力を失い、権威のおちた幕府の力ではもはや家督争いを解決できず、二大勢力は東西に分かれてついに戦闘状態にはいった。
戦乱は1467(応仁元) 年から11年間にわたってつづいた(応仁の乱)。戦場となった京都は、傭兵として使われた足軽の乱暴などで焼野原となり、戦乱のあいだに、貴族や寺社だけでなく幕府の没落・衰退は決定的なものとなった。諸国の荘園・公領は守護代や国人に押し取られ、京都に住むかつての支配層の生活の場と経済は、根底からくずされてしまった。」(『もういちど読む山川日本史』p.121)
この教科書の「土一揆」の説明もそうであったが、この時期に凶作や飢饉が相次いだことを一言も書かず、また争いの原因となった将軍家の家督争いの問題や細川家と山名家の対立がなぜ生じたかについて、この解説ではよくわからないので少し補足させていただこう。
室町幕府は守護大名による合議制の連合政権であり、成立の当初から概して将軍の権力基盤は弱く、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)ほか有力守護大名の影響力が強かった。将軍の力が強かったのは第三代将軍足利義満と、第六代将軍足利義教の頃くらいなのだが、その義教が嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺されてしまう(嘉吉の乱)。そのあとを継いだ第七代将軍は義教の嫡子である当時九歳の足利義勝だったが、一年足らずのうちに急逝した。そこで義勝の同母弟である八歳の足利義政が、畠山持国らに推挙されて将軍職に選出され、元服を迎えた文安六年(1449年)に正式に第八代将軍に就任している。
義政は当初は幕府の運営に積極的に関与する姿勢をみせていたが、側近と守護大名の対立や、相次ぐ飢饉で難民が京都に押し寄せ、また各地で土一揆が勃発するなどの政治的混乱が続いて、次第に政治の世界に興味を失っていき、二十九歳の時に将軍の座を弟の浄土寺門跡・義尋(ぎじん)に譲ることを決意した。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考えて将軍職就任の要請を固辞し続けたのだが、寛正五年(1464年)十一月、義尋は意を決して還俗し、名を義視と改めると細川勝元の後見を得て今出川邸に移り、義政の正室・日野富子の妹の日野良子を妻に迎えた。
しかしながら、将軍となる決意を固めた義視に正式な譲位がなされないまま、やっかいな問題が起こってしまう。
義政の正室の日野富子が懐妊し翌年に男子を出産した。すると富子は自分の子である義尚(よしひさ)を将軍にしたいと考え、山名宗全を義尚の後見につけたのである。
一方義政は、妻の行動を止めることも無く、長きにわたり義視にも義尚にも将軍職を譲らずにあいまいな態度を取り続けたのである。
こうして足利将軍家の家督争いは、全国の守護大名を、足利義視・細川勝元の陣営と、足利義尚・山名宗全の陣営とに二分する事態となり、両者の衝突は避けがたいものとなっていった。
細川勝元と山名宗全はそれぞれ京都で兵を集めると、まず義政の側近たちを追放し、同時に諸大名たちを自軍に引きこもうと精力的に動き、畠山家、斯波家などの家督争いを巻き込んで、とうとう応仁元年(1467年)に戦いが始まった。
細川勝元は将軍の居所である室町殿(花の御所)を占拠し、山名宗全は自分の館に陣を構えて細川勢と対峙した。この時の陣の位置関係から、細川勢を東軍、山名勢を西軍と呼び、それぞれの陣を東陣、西陣と呼ぶのだが、「西陣織」で有名な京都の西陣地区は、この地域に応仁の乱の西陣があったことが地名の由来なのだそうだ。
将軍義政は側近を失ってからは政治への意欲を失っていき、幕政を日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなどもっぱら数奇の道を探求するようになっていったという。
戦いは当初は東軍が将軍と朝廷を手中に収めて優勢であったが、中国・九州の守護大名・大内政弘が大軍を率いて西軍についたことで混沌としはじめ、文明五年(1473年)には、細川勝元、山名宗全が相次いで他界し、それを期にようやく義政は将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居したのだが、それでも戦乱は終わらなかった。結局、長い戦いに疲弊しきった両軍が文明九年(1477)に和議を結んで応仁の乱は終わっている。
このような経緯を知れば、応仁の乱を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあったことがわかる。教科書や通史ではなぜかこのような経緯をほとんど何も書かないのだが、このような経緯を知らなければ応仁の乱を理解することは難しい。
さて、応仁の乱の両軍の戦力については諸説あるが、Wikipediaによると東軍が十六万、西軍が十一万とあり、その大半が足軽などの雑兵であった。
彼らは戦争で勝利しても大名からの恩賞には与れなかったが、そのかわりにある程度の略奪行為が許容されていたことから、戦場などで盗んだものを売って生計の足しにしていたのである。
この戦乱で京都が広範囲にわたって焼失し、多くの公家や僧侶が京を逃げ出し、地方の大名たちが彼らを喜んで迎え入れたことから中央の文化が全国に広がっていったことは良いことであったといえるのだが、京の多くの文化財が失われてしまったことは残念なことである。
山城国一揆と「下剋上」
さきほど文明九年(1477年)に細川勢と山名勢との和議が成立して「応仁の乱」が終わったと書いたのだが、畠山氏の跡目争いはその後も続いたという。
応仁の乱を通して、畠山氏の当主の座と河内守護の役割は公式には畠山政長であったが、山名氏の支持を得た畠山義就が河内を実効支配していた。
文明十一年(1479年)に摂津で一揆が起り、細川勝元の子である細川政元が畠山政長とともにこれを制圧したのだが、政元が京へ引き上げた後に畠山政長は義就討伐の軍を進めている。ところが、義就軍は隙をついて山城国(現在の京都府南部)に攻め込んで占拠してしまうのである。
幕府と政長軍は文明十七年(1485年)に義就討伐軍を山城国に送り込み、再び戦いは膠着状態のまま三ヵ月が経過した。
山城国の農民たちにとっては、これまで繰り返し人夫・兵粮米が徴発され、田畑は荒らされ民家は戦いで焼き払われてしまって生活は苦しかったに違いない。地侍や農民たちは集会を開いて、畠山両軍に対して同国からの撤兵を要求した記録が残されている。
『日本大百科全書』の『山城国一揆』の解説にはこう書かれている。
「『大乗院寺社雑事記』十二月十一日条によると、上は六十歳から下は十五歳に及ぶ国人が集会し、一国中の土民が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法として定めた。さらに翌年二月には宇治平等院で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。…」
かくして畠山両軍を追い出して守護不在となった山城国では、住民たちによる自治が八年ほど続き、最後は政元によって制圧されてしまうのだが、これだけの期間にわたり広い地域が地域の住民の自治によって守られたことが『もういちど読む山川の日本史』にこう記されている。
「…守護大名家の家督争いは解決されなかったので、その後も守護大名間の争いは各地でくすぶった。
南山城(京都府)では守護大名の畠山氏が政長(まさなが)と義就(よしひろ)の二派にわかれて争っていたが、1485(文明17)年、同国の国人は宇治の平等院で集会をひらき、その決議により両軍を国外に退去させ、約八年間にわたる自治をおこなった(山城国一揆)。
諸国にはこうした国一揆や土一揆がおこり、また主君を実力でたおす家臣がつぎつぎとあらわれ、世は下剋上の風潮を強めていった。」(同上書 p.122)
この教科書に限らず、歴史学者の多くが山城で起きた一揆を「下剋上」の事例として紹介し、以降「下剋上」が相次いだことを書くのだが、この時代に全国各地で何度も飢饉が起こっていることに触れることがないのはなぜなのか。室町時代中期から戦国時代にかけでわが国の歴史がダイナミックに動いたのは、全国的に凶作が相次ぎ飢饉が何度も起きたことと無関係であるとはとてもは思えないのだ。
もしこの時代が豊作続きであったならば飢饉は発生せず、したがって土一揆は起こらず、「下剋上」が様々な階層で起こる時代には至らなかったと思うのだが、戦後の歴史学者の多くは、飢饉が頻繁に起こったという重要な史実を無視し、マルクス的な階級闘争史観でこの時代を描こうとしているのではないだろうか。
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コメント
民主党政権による経済破綻危機を忘れぬ為
突然の書込み大変失礼致します。
この度は今一度 皆様に知って頂きたい事があり、誠に恐縮ですが書込ませて頂きました。
マスコミの扇動が露骨になる中、2009年この世論誘導により誕生した民主党政権の3年間は、公約をほぼ全て反古にし(公約に反し消費税も増税)、
異常な円高誘導で国内企業を空洞化した結果、株価は8千円代まで下がり、日本経済は破綻寸前まで追込まれた事は周知の通りです。
ミスリードが行われるこのコロナにおいても、日本の死者数は世界でも圧倒的に少なく、G7で最も抑制に成功しており(データによりコロナで死んでいない日本人は99%)
倒産、失業率と突出した低さをキープし(世界2位の補償額)、ワクチン接種回数は1億回を超え現在世界5位の速さですがこれも正しく報道されず、
メディアは毎日不安を煽り、倒閣の為経済を止める方向へ誘導を続けています。
自民党が全て良いとは言えませんが、データに基づいた客観的事実や、対策を限界にさせている現法改正に対する民主党の妨害、数々の不祥事も民主党は報道されず、
2009年同様の政権交代を再現すべく、共闘し世論誘導を仕掛けている事を 一人でも多くの方が気付き、
自ら情報を拾い判断する大切さや、
国民1人1人の投票で政権をも決定する重さがある事をどうか知って頂きたいと思い、こちらを貼らせて頂きます。
https://pachitou.com/2021/08/15/国民の敵マスゴミとの戦いの正念場/
長文、大変申し訳ありません。
今の自民党の政策が良いとは思えませんし、新型コロナ対策をこのまま続けては日本の経済がボロボロになってしまいます。野党は論外ですが、自民党も玉石混交で、親中・親韓議員もいればグローバリストもいます。次回の総選挙は日本の将来にとって非常に重要な選挙になります。反日国やマスゴミとまともに戦える候補者を総裁に選ぶことができれば、いい方向に行くのではないかと期待しています。