国会で問題になってからも神社合祀による破壊は続いた
前回記事で、和歌山県選出の中村啓次郎代議士による明治四十四年(1911年)の第二十七回衆議院における演説の一部を紹介した。国会でも神社合祀による神社破壊が大きな問題となり、神社合祀を推進した平田東助内務大臣も改善を約したのであるが、翌明治四十五年(1912年)の第二十八回衆議院において、三月十二日に中村代議士が再び登壇し、神社合祀の問題を採り上げている。
「第二十七議会に於いては貴族院に於て徳川侯爵、三宅博士等が名所旧跡を保存すべしと云う建議案を提出されましたし、当院に於いては神社合祀は危険思想を誘致する者なりとの村松君の演説となりましたし、又院外に於きましても白井博士、佐々木博士或は南方氏等の学者に依りまして、神社合祀に反対の意見を発表いたされまして、本員は期せずして百万の後援軍得たる感があったのです。当局も稍々悔悛の色が見えまするし、又地方の人民も多少考慮を要したる感があったのであります。」(『第二十八回衆議院重要問題名士演説集』p.214)
と国会でも問題になり、学者も反対意見を発表してようやく改善するかと思いきや、地域によっては事態が更にひどくなっていったのである。続けて中村はこう述べている。
「然るに近頃に至りまして又々神社合祀の声が各地方から起ってまいったのであります。最も其甚だしいものは埼玉県、和歌山県、長野県、福島県等に起こって参ったのであります。神社の合祀を追窮督励すべしなどと云うようなことを県知事が郡長会議等に於きまして申し渡されたるために、県民が非常に恐慌を致して救いを四方に求め、本員等の所へ駆けて来った者も甚だ少なくないのであります。本員已むを得ず再びここに壇上に立ちまして、政府に質問を試みなければならない立場に立ったのであります」(同上書 p.214)
神社合祀の反対運動が拡がっているのにもかかわらず、一部の府県で神社合祀の推進を指示した知事がいる。明治時代の知事は、以前にもこのブログで書いた通り選挙で選ばれていたのではなく、内務大臣から任命されて管轄する府県内で国の一般行政を担当する立場であり、この中村代議士の発言が事実であれば、平田東助内務大臣は昨年に中村と交わした改善する旨の約束を反故にしたことになる。
神社合祀による旧蹟破壊の事例
中村が再び神社合祀の反対理由について述べている部分は割愛して、具体的に官吏らによってどのような神社が破壊されたかについて具体的に述べている部分を紹介しよう。
「この写真は、是は和歌山県西牟婁郡の出立王子神社の破壊の跡であります。此神社は定家卿の後鳥羽上皇行幸紀にも見えて居りまする如く、後鳥羽上皇が自ら此社辺に御宿りになりまして鹽垢離を取って関東討伐を祈りました所であります。北條氏の横暴を慨して北條義時を討伐せむことを祈られたところの社蹟であるのであります。然るに此跡は見るに忍びないように残酷に破壊され終ってあるのであります。又此処から程遠からない所に諸君も歴史上ご承知の平重盛が父の清盛に尊皇の大義、忠道の大節を説まして、其言の容れられざるや、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、進退谷って死を祈りました岩田王子の神社は此神社に極めて遠からぬ所にあるのであります。此神社も亦併合の厄に逢うたのであります。又東牟婁郡の新宮と申しまする所には昔から神武天皇を祀って居りまする『渡る御前の神社』と云う神社があるのであります。此神社も今や速玉神社に併合されて居るので将に其蹟を失わんとして居ります。倒幕の大策を立て、王政復古の大業を祈願いたしました遺蹟を撲滅し、身を以て中道の大義を鼓吹せし重盛の旧跡を失い、我皇祖を祀って居りまする神社を潰滅せんといたして居るのであります。此の如く致しまして尊王の大義は何に依って之を奨励し得ることが出来るのでありますか。」(同上書 p.221)
「天皇陛下は皇祖皇宗の範に傚(なら)われまして、実に御身親(みずか)ら我等臣民に向かって質素を教え給えつあるではありませぬか。然るに心なき政府者は口に敬神を説きながら、民の負担に堪えざるところの基本金を積ましめて其社殿を壮大にすることをし、其能わざるに乗じて之を破壊せしめようと致して居るのであります。又大和の国には合祀の為に武内宿禰の墓は畑になって居る。大阪府では敏達天皇の行宮の蹟は破壊されて居るのであります。備前の邑久郡の平経盛の墓と言い伝えて居りまする塚があります。是は誠に形が異様でありまして、真中には頭分のようなものがあって、其周囲には家来のようなものがあるように見えるのであります。此辺から上古の石器が出て居ります。又神軍の伝説もあるのであります。故に果たして経盛の墓なるや否やは分らぬけれども、我国上古の風俗を見まするに洵(まこと)に重要のものであるのであります。之も例の合祀の為に其蹟を失われんとしつつあるのである。」(同上書 p.223-224)
歴史にその名前が刻まれた多くの神社の本殿などが合祀によって失われただけではない。御神木として数百年以上にわたり信仰を集めて来た巨木や天然林もが軒並み伐採されてしまったのである。
残された引作の大クスノキ
しかし、反対運動により残されたものもある。中村は衆議院における演説の中で、合祀されたばかりの神社の境内にある御神木が伐られようとしている問題を採り上げている。
「数百年来の固有の老木は大抵神社にのみ存在すると云うも過言ではない。今の神社合祀に依つて、此老杉、古松を濫伐しようと計画を致して居ります。一番最近の事実は三重県阿田和引作神社という神社であります。是は昨年十二月最も近い今日に近いときに於きまして、神社合祀の行われて居る事実で、而して最も大なる杉、最も大なる楠を伐ろうと致して居るのであります。」(同上書 p.224)
三重県阿田和村というのは現在の御浜町で、明治二十二年(1889年)の町村制の施行により阿田和村・柿原村・引作村の三村が一つになり阿田和村と称していた。その阿田和村に七つの神社があり、三重県は神社合祀により六つの神社を廃絶させようとしたのだが、その内の引作神社に樹齢千五百年と言われるクスノキがあった。三重県の官吏はこの木を伐って売ろうとしたのである。
この問題については南方熊楠も同年に、雑誌「日本及び日本人」に連載した論文「神社合祀反対意見」の中で採り上げている。
「三重県阿田和(あたわ)の村社、引作(ひきつくり)神社に、周囲二丈の大杉、また全国一という目通り周囲四丈三尺すなわち直径一丈三尺余の大樟(くすのき)あり。これを伐りて三千円とかに売らんとて合祀を迫り、わずか五十余戸の村民これを嘆き、規定の神殿を建て、またさらに二千余円を積み立てしもなお脅迫止まず。合祀を肯がえんぜずんば刑罰を加うべしとの言で、止むを得ず合祀請願書に調印せるは去年末のことという。金銭の外を知らずと嘲らるる米国人すら、カリフォルニアの巨柏ビグトリーなど抜群の注意して保存しおり。二十二年ばかり前、予が訪いしニューゼルシー州の一所に、フサシダの一種なる小草を特産する草原などは、兵卒が守りおりたり。英国やドイツには、寺院の古檞(かしわ)、老水松(いちのき)をことごとく謄記して保護を励行しおるに、わが邦には伐木の励行とは驚くの外なし。されば例の似而非(えせ)神職ら枯槁せぬ木を枯損木として伐採を請願すること絶えず。」
外国では巨木を兵士が護ったり騰記したりして保護しているのにもかかわらず、わが国では官吏が、地域住民を脅迫して無理やり合祀した後、旧境内地の木を高値で売り払おうとした現実があったのである。
櫻井治男氏の著書『神社復祀の研究』に引用されている『全国神職会々報』によると、引作の住民はなんとかしてこの神社を守ろうとし、二千円の基金を集めて本殿拝殿を規定の通り設備しようと工事を急いだという。ところが、明治四十三年三月に事態が急展開する。
『全国神職会々報』には、「三重県属某来りて、高圧手段を弄し合祀を強制したれば、氏子一同は仮令(たとい)三度の食事は一度に減じても此氏神だけは維持したしと、真心込めて嘆願したるも、何條以て聞かばこそ、益々怒り罵り果ては刑罰というおどし文句さえも発するにぞ」と書かれており、三重県がかなりひどいやり方で合祀を推進したことは間違いがない。
ちなみに、引作神社はわずか五十余の氏子が守っていた神社で、彼等が奔走して二千円の基金を集めて社殿を整えようとしても官吏が存続を許さなかったというのはひどい話である。
官吏の強圧に屈した引作神社の氏子総代たちは村民たちによって免職され、村外に追い払われたとの記録もあるようだが、詳しいことはわからない。
『神社復祀の研究』によると、境内の杉大木は伐り払われ石灯篭は阿田和神社に移したが、クスノキだけは残されたという。合併先の阿田和神社の祭典には、引作の人々は総代以外誰も参加せず、神社跡地は村人の代表者名で登記を続け、これまで村最大の行事であった引作神社例祭の日には、従来通り神社の跡地で祭りを行ったとある。
ではどういう経緯でクスノキが残されたのであろうか。
『神社復祀の研究』はこう記されている。
「明治四十四年八月六日付の柳田宛熊楠差出書簡には『知事より伐木さし止め、村民より礼申し来たり候』とあって、さらに『南牟禮郡の大樟などとてもものにならぬと思いおれども、貴下のお世話にて物になりたるなれば』と柳田への感謝を記し、新しく発生した神島保存への協力を求めている。」
柳田国男が具体的にどのような行動をとったかは記録が見つからないのでよく分からないが、中村啓次郎が神社合祀問題を再び国会で取り上げた後に、南方熊楠が柳田国男に依頼をし、それが功を奏して巨大クスノキが守られたということのようだ。柳田国男は日本民俗学の祖として有名な人物だが、当時は宮内書記官兼内閣書記官記録課長という肩書であった。
確かに、南方熊楠や柳田国男の尽力も大きかったと思うが、クスノキを守ることができた最も重要なポイントは、引作の人々による長く根強い抵抗運動ではなかったか。
『神社復祀の研究』によると、阿田和神社は六社を一つにする合祀することが決まったが、地域によって合併実施時期に隔たりがあり、引作神社の氏子総代が官吏の脅迫に負けて合祀に承諾したのは明治43年4月で、最初に合祀を承諾した阿田和の飛鳥神社や秋葉神社よりも2年半以上長い間抵抗していたことがわかる。阿田和神社への合祀が決定してからも引作の地域の人々の抵抗が続いたことで官吏も手を付けられず、そこに中村代議士や南方熊楠、柳田国男らの援護射撃があったと理解すべきではないだろうか。
何時の時代もどこの国でも、地域の人々が無関心であれば、役所や業者の思うがままに破壊が進んでいくことになるのだと思う。
樹齢千五百年とも言われる引作のクスノキは樹高約35m、直径約4mの堂々としたもので、新日本名木百選に選出され、昭和十一年には三重県の天然記念物に指定されている。
その楠は根元から4.4mのところで五本に枝分かれしていたのだが、そのうち一本が平成十九年に折れてしまった。その一部が研磨されて、和歌山県田辺市の南方熊楠顕彰館に展示されている。
歴史的景観や自然景観などの破壊は今も続いている
和歌山県や三重県の神社が徹底的に破壊されたのは、熊野神社が修験道の聖地であったことと無関係ではなかったのだろう。
明治政府は、明治元年の神仏分離令以降の廃仏毀釈で多くの寺院や仏具の破壊に関与し、続いて明治五年に修験道を禁止し、山伏らには還俗を命じ修験道の信仰に関するものの多くを破壊させたのだが、明治の末期には神社の破壊にも関与したことになる。
しかしながら、それ以降に歴史的景観や自然景観などの破壊がなくなったわけではなく、今も別の形で破壊が進行していると言って良いだろう。
地方に行くと、由緒のある寺や神社の近くに風力発電や太陽光パネルなどが設置されていたり高速道路が通っていたり、大きな看板が林立して興ざめしてしまうことがしばしばある。寺や神社の建物や境内はそのままでも、その周囲の環境が破壊されてしまっては、その価値を大きく減じてしまうことになる。
また、多くの地域で過疎化と高齢化が進み、このままいけば檀家や氏子が減ってしまって寺も神社も 経済的に成り立たなくなり、今後無住の寺や神社が増えて荒れるに任せることになってしまうのではないだろうか。
歴史的景観にせよ自然景観にせよ、一度破壊されてしまえば、元に復することは殆んど不可能である。令和の時代を迎えて、地域の人々が豊かな暮らしを取り戻し、何世代にもわたり守り続けてきた美しい景観を、次の世代に残せるようになることを祈りたい。
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