慶喜有利の情勢がいかにして覆されたか
将軍徳川慶喜が大政奉還を決断した後、幕府有司と佐幕派の諸侯は、諸侯が上京し会議が開かれた後は、大勢は幕府にとって有利に傾くと考えていたのであるが、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、諸侯会議が開かれないまましばらく事態は推移していった。
政局混迷の内に、兵庫港が開港される予定日の慶応三年十二月七日(1868/01/01)が近づいてきた。討幕派は、政変を起すのであれば、兵庫開港の日から遠くない時期に起こさなければ、諸外国が内戦を止めるために幕府側に軍事協力することになることを理解していた。
では、討幕派は、どのような戦略で短期間に政権を奪い取ることを考えていたのだろうか。菊池寛の『大衆維新史読本』の記述が分かりやすい。
討幕の密勅は薩長に下った。しかし当時、薩長の在京の兵は一千名足らずで、これではどうにも仕方がない。
一方、慶喜は大政を返上して、将軍職を辞して謹慎している。これに対して、いかに薩長でも、すぐ跳びかかっていくわけにはいかないのである。
ことに、慶喜の態度に好感を持つ公家や諸侯も多く、幕臣の中には、薩長に対して、激しい敵意を示す者も出て来る。このまま捨て置けば、形勢はどう逆転するかもわからない。
西郷は岩倉と同じく、最初から、幕府の実質を根本的にたたきつけるには、単なる政権の授受でなく、その土地人民を一切朝廷に収めなくてはダメだと、肚(はら)は決まっている。
領土返納は、如何に腰抜けの幕府でも反対するだろうから、この時初めて討幕の密勅にものを言わせればよい。それには薩長の兵力増強がまず急務だというので、小松帯刀、大久保一蔵を伴って、十月十七日、京都を出発して、帰国の途に就いた。
途中山口に立ち寄って、毛利父子に拝謁する。毛利父子は薩摩の名臣が三人も同道して立ち寄ったというので、非常に満足して、心を尽くして歓待して、討幕の協同出兵に対しても喜んで同意した。
西郷らが鹿児島に就いたのは十月二十六日で、直ちに久光や忠義に謁して京都の事情を報じ討幕の密勅を示して、その出兵を促した。まさに、一藩の運命を賭しての大事業だ。
回天の鴻業をほとんど薩摩一国の力で、背負って立とうというのである。
老臣中には反対する者もあったが、久光や忠義の決心が鞏固だったので、遂に藩論をまとめることができた。
慶応三年十一月十三日、藩主、島津修理大夫忠義は三千の精鋭を率いて、海路征途に上った。精強なる薩南健児の殆んど全員を動員したと言ってよい。
京洛の地は、為に震撼した。藩兵は上洛して、部署に就くとともに、藩主忠義は相国寺に屯(たむろ)した。
西郷は京都に着くや、すぐ岩倉や各藩の有志と打ち合わせをして、皇政復古大号令渙発の日取りを、ほぼ十二月八日頃と決めた。
十二月八日、尾、越、薩、土、芸の御藩の重役は岩倉邸に集った。大号令渙発と、それに処する準備の秘密会議である。この時、岩倉は洛中住居を許されて本邸に帰っているのである。
禁闕守衛の部署などを決めた。所司代、守護職などの幕府の勢力を、宮中から一掃する下準備である。
(菊池寛『大衆維新史読本(下巻)』p.36~39)
『討幕の密勅』は正式な手続きを経たものではなかったのだが、そんなことは普通の者にはわかるはずがない。慶喜を討てとの天皇の命令と伝えられた文書は抜群の効力を発揮し、薩摩藩、長州藩の討幕兵が大坂や京都に向かい、いよいよクーデターの準備が整っていくのである。
イギリス公使パークスは、十二月五日(1867/12/30)に幕府老中首座・板倉勝静らと面談しているが、この時のパークスの動きは注目しておきたい。アーネスト・サトウの記録にはこう記されている。
ハリー卿(パークス)は彼らに、外国人と衝突する虞(おそれ)があるから、軍隊を全て大坂から撤退させよ。さもなくば、自分は二個連隊の兵士を大坂へ呼び寄せるであろうと告げたのである。
私(サトウ)としては、このように日本国内の事に干渉して、大君(慶喜)の困惑を増大させようとするハリー卿の態度を不当と思わずにはいられなかった。なぜなら大名たちの軍勢は単に京都へ進軍するための足だまりとして大阪を占拠していたのだから、かれらとしては京都へ進む以外にどこへ撤退することができるというのか。しかし卿はこの運動を続けて、翌日私を薩摩の留守居木場伝内のもとへやり、卿が薩摩の軍隊の撤退をも望んでいる理由を説明させた。
(アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新(下)』岩波文庫 p.95)
このようにパークス公使は一貫して慶喜支持であり、老中の板倉は英公使の抗議に力を得て、長州勢に東進を停止させるべく朝廷に申し入れたというが、長州兵は「藩主の命令」であるとして受け付けなかったという。
尾張藩、越前藩、土佐藩はなぜクーデターに反対しなかったのか
十二月八日(1868/01/02)に岩倉は尾張藩、越前藩、薩摩藩、土佐藩、安芸藩の重臣を自邸に集め、王政復古の断行を宣言し協力を求めている。しかしながら尾張藩は徳川御三家であり、越前藩は親藩であり、土佐藩は公議政体派であった。なぜこれらの藩がクーデターに反対しなかったのかと誰でも疑問に思うところである。
家近良樹氏の著書に、同日の十二月八日付で西郷隆盛が岩倉具視に宛てた書状の内容を要約しておられる。
今回、王政復古の大号令を発するにあたっては「一混乱」が生じるかもしれない。が、「二百有余年」にわたって天下太平の世を気楽に生きてきた人々の状況を考えれば、「一度干戈(武器)を動かし」て、「天下の耳目を一新」することが必要である。すなわち「戦いを決し候て死中活を得るの御着眼」が「最も急務」だ。何故なら、穏和なやり方で新しい国家を「創業」していくことは大変難しいからだ。話し合いで、つまり「公論」でもって、新国家の事を議論された日には、中途半端な国家しか生み出し得ない。それは「戦いよりもまた難」しいといえる。
(家近良樹著『江戸幕府崩壊』講談社学術文庫 p.215)
大久保も、十二月七日(1868/01/01)付けの岩倉宛の書状に、人々が震え上がるほどのことをしなければ、王政復古という大変革を行うことはできないという趣旨のことを書いている。また西郷の書状には大変重要なことが述べられている
会・桑の処は、いかにも安心は出来申すまじきか、動くものならば、此の両藩かとあい察せられ申し候。
(同上書 p.220)
慶喜は幕府独裁政治を良くないとして自ら大政奉還を行ったのだが、会津藩と桑名藩だけは古い体制に戻そうとしており、もし挙兵するとしたらおそらくこの両藩だけであり、この二藩なら充分に武力制圧できると西郷は認識していたのである。
家近氏は、西郷や大久保および岩倉の書簡を紹介しながら、「王政復古クーデターは武力倒幕をめざしたものではなく、会桑両藩を挑発し、両藩を叩くことで、王政復古政府の成立を劇的に演出して見せようとした点に最大のポイントがおかれたのではないか」「会桑両藩を叩きのめすことは、王政復古に疑問を持ち、旧体制の存続に未練を持つ、すべての政治勢力にショックを与える、なによりも有効な手段と考えられた(同上書 p.224~225)」と述べておられる。
さらに家近氏は、クーデター決行当日の十二月九日(1868/01/03)の夕方に、大原重徳と岩倉具視が尾張藩の田宮如雲と越前藩の毛受鹿之助を呼んで、二人に依頼した内容の記録を引用して次のように解説している。
「何か電文の趣(=様子)にては、旗下および会桑ならびに譜代の諸侯、二条城へ馳せ集まりたる由、畢竟今般御所へ兵を集められ候は、まつたく他の盗のためにする警備にて、承知のとおり、決して討幕等の義にはこれ無き事なるに、万一旗下を始め、諸藩心得違出来、不慮の(=思いもかけない)動乱を生じては、容易ならざる次第に候えば、何卒条白(=二条城)鎮静あい成り候様、尾越にて熱く心配の義、御頼み成さらる(下略)」
すなわち、大原・岩倉の両者は、クーデターに激昂した他幕府側将兵をなだめ落ち着かせることを、尾張・越前の両藩に頼んだわけだが、これはクーデター後、旧幕府側の猛反発に動揺した大原・岩倉の両名が弄した詭弁(もしくは二枚舌)とは必ずしも見なせない。クーデターを決行するにあたって、彼らの中に討幕の予定はなかったからである。それが「承知の通り、決して討幕等の義にはこれ無き」云々との大原・岩倉両者の発言に反映されたとみるべきである。
なお、再度確認するが、尾張藩も越前藩もクーデターの決行に直接的・間接的にかかわった藩である。その両藩の重要人物に「承知の通り」云々と言っている以上、クーデターが武力倒幕を目標にして行われたはずがない。
(同上書 p.224)
一般的な歴史叙述では、岩倉や西郷・大久保はこの時点において武力による倒幕を目指していたように書かれるのだが、家近氏の指摘の通り、通説では尾張藩、越前藩、土佐藩の三藩がクーデターに参加した理由が説明できないのである。家近氏の説に立てば、その点が矛盾なく説明が可能となるので、私は家近説の方が正しいと考えている。
王政復古の大号令
次に十二月八日(1868/01/02)以降、岩倉らはどのように動いたのかを確認しておこう。
まず、十二月八日の夕方から朝議が行われ、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可、および蟄居処分を受けていた岩倉ら公卿の赦免、三条実美ら五卿の赦免などが決められた。夜を徹しての朝議が終わり、摂政の二条斉敬以下の公卿が退出したのは九日の夜明けに近かったという。
しかし、中山忠能、三條實愛、長谷信篤及び徳川慶勝(尾張藩主)、松平慶永(越前藩主)、浅野茂勲(芸州藩世子)は宮中に残っていたと記されている。
その後、待機していた五藩(薩摩、土佐、安芸、尾張、越前)の兵が御所の九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止され、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の組織が発表されたのである。
これにより、幕府は廃止され、徳川慶喜は征夷大将軍ではなくなり、京都守護職、京都所司代も廃止されてしまった。また摂政関白も廃止され、天皇のもとに直接、総裁、議定、参与の三職の人事を定めたが、そこに名前を連ねているのは一部の公家と、五藩に長州藩を加えた有力者のみで、慶喜は勿論のこと、幕府や佐幕派の公卿および諸藩の有力者の名前は皆無であった。見事なまでのクーデターであった。
九日の夕刻から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれている。土佐の山内容堂ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張したのである。
菊池寛の『大衆維新史読本』に有名な場面はこう記されている。
「何と申されても、左様な取り扱いは公明正大ではない。徳川内府が、祖先継承の覇業を自ら捨てて政権を奉還し、以て国家の治安を永久に計らんとする。その忠誠はまことに嘉(よみ)すべきである。然るに今、かくの如き陰険なる処置に出でらるるは、かえってその心を激せしめ、不測の災禍を招くものである。廟堂に事を行うの人、幼冲(ようちゅう:幼い)の天子を擁して権柄を擅(ほしいまま)にせらるるは、実に天下の乱階(らんかい:乱の起こるきざし)でござるぞ」
酒気を帯びているので、言葉過激である。
岩倉はここぞ、と乗り出して
「山内侯のお言葉とも思われぬ。皇上不世出の英材を以て、皇政復古の題字を決行し給う。今日のこと、悉く宸断に出るのである。幼冲の天子を擁して権柄を擅にするなどとの言葉は、殊の外、不敬でござろうぞ。この席を何と心得らるる。お控えなされ。」
と、きめつけた。
この「不敬でござろうぞ」には、さすが剛愎人に譲らぬ容堂も参った。
(『大衆維新史読本 下巻』p.45~46)
続いて越前の松平慶永も容堂と同様の意見を述べ、さらに土佐の後藤象二郎も立ち上がった。
「今日の大議に内府(慶喜)候を召されぬは、どうあっても、公明正大の処置とは存ぜられぬ。拙者は重ねて、岩倉卿にお尋ねしたい。心中一転の疚しさなくして、かくの如く仰せられるるわけはない。拙者は、今日のこと、すべて陰険な企図に基づくと思うが、いかがでござろう」
象二郎は、大政奉還以来の、薩長の内面的動きを最もよく知っている一人だ。こう斬り込まれては、流石の岩倉も躊躇せざるを得ない。しかし、あくまで屈せず口論を続ける。
大久保一蔵は岩倉の肩を持って、性来の雄弁を揮って、後藤に対して論陣を張る。議論は益々紛糾するばかりである。
(同上書 p.47~48)
その後休憩が入り、岩倉は西郷の意見を求めている。西郷は「最後の手段をとってください」と伝えたという。岩倉は芸州候浅野長勲の控室に行って自らの決意を伝えたという。
「もし、山内候が堅く執って動かぬならば、拙者、別室に召して刺し違えて死ぬつもりだ。亡きあとのこと、宜しく頼む」
岩倉は、是が比でも、今日の会議を倒幕にまで引きづっていかねばならぬ、と難く信じていた。今日までの出来事をとらえて、徳川を朝敵とすることの無理は、自分でもよく知っていた。しかし、この機会を失ったら、幕府は生殺しで、何時また息を吹き返すかもしれない。ことに山内容堂のような、徳川贔屓(ひいき)がいては、この危険は益々大きい。
岩倉のこの態度を、芝居だという人もあるが、浅野長勲の話だと、本当らしい。岩倉の懐中にかくしていたのは、確かに懐剣だったそうである。
この岩倉の決意を知った浅野は、大いに驚いて、家老辻将曹を呼び、後藤象二郎を説得させた。後藤も、これ以上の衝突はお互い不利だと悟ったので、尚も猛る容堂を宥めて帰邸させた。岩倉の強い態度が、ついに会議を押し切ってしまったのである。
(同上書 p.49~50)
かくしてその後の会議は岩倉のペースで進められ、慶喜の内大臣の官位を辞任せしめ、徳川家の所領を奉納すること(辞官納地)が決まり、松平春嶽・徳川慶勝が慶喜へこの決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることが決定されたのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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