コミンテルンの赤化工作と闘った張作霖
前回は大正時代の共産主義に関する新聞記事を紹介させていただいたが、今回は昭和初期の記事を見てみたい。昭和元年(1926年)は年末に改元されたので七日間しかないため、昭和元年には重要な記事はみつからなかったが、翌昭和二年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル/第三インターナショナル)による赤化工作に関する注目すべき記事が多数出ている。
コミンテルンというのは、世界各国のプロレタリア革命を指導する司令塔としてソ連主導で設立されたものであるが、主要国にその支部として共産党を置き、世界の共産党を動かして共産主義革命を成功させようと動いていた。

昭和二年(1927年)四月十四日の大阪毎日新聞の記事に「安国軍」当局が重大な発表をしたことが出ている。「安国軍」というのは、一九二六年に奉天派の張作霖が、蒋介石率いる北伐軍(国民革命軍)に対抗し華北における支配権を維持するため、北京で「安国軍政府」を組織したことを指す。張作霖については翌年の六月に奉天郊外で関東軍により爆殺されたと教科書などで書かれているのだが、当時の新聞記事を見る限り、張作霖と敵対していたのは支那赤化を進めていた勢力であった。
【北京特電十三日発】安国軍当局は六日の北京ロシア大使館附属建物およびダリ銀行、東支鉄道事務所捜索事件の結果について十三日左の如く発表した。
一、ロシアは西北国民軍首領馮玉祥(ふうぎょくしょう)氏をして満洲、蒙古、察哈尓(チャハル)に有力な騎兵団を組織せしめこれに武器を給与するほかあらゆる援助をなす密約を結んでいた
二、河南におけるロシア軍官の陰謀計画に関する書類が発見された
三、馮玉祥氏代表その他共産党の各首領と前駐支ロシア大使館カラハン氏との会見談話の内容記録その他支那共産党を中心として広東、北京、モスコー間に結ばれ、或は結ばれんとした各種の密約を立証する重要なる往復文書約二十種が発見された。
(『神戸大学新聞記事文庫』国際労働問題9-44)
この四か月程前の大正十五年(1926年)十二月八日大阪毎日新聞の記事に、張作霖が「赤化の徒を絶滅せよ」との宣言を発していることが報じられている。

近年狡猾なる一部の人土は共産主義を奉じ、下層社会民の心理を利用し、青年学徒を煽動し、遂に国家を禍し野心を遂げんとしている。馮玉祥、蒋介石のごときがそれである。
蒋介石は露人ボロヂン氏の指揮を受け湖北侵入に際しては味方せぬ者は官吏、商人を問わず反革命者として圧迫しその間に私腹を肥した。余は田園に成長し政治を知らないが亡国の徒の横行するを坐視するにしのびないから、ここに起って赤化の徒を絶滅するのである。私心をさしはさまずもって民衆の利益を図り教育を普及せしめ、資源を開発し精兵主義をとり国権を保持するであろう。余は南北、新旧の偏見なく権勢の野心なし。国民は須らく余の意を諒して国家の仇敵たる赤賊に当らるべし。
(『神戸大学新聞記事文庫』政治37-51)
実はこの記事の三ヶ月前(1926年9月)にソ連の特務機関が宮殿に地雷を敷設して張作霖を爆殺しようとする計画が実行前に発覚し、張作霖側により犯人が逮捕される事件があった。張作霖は早くから支那の赤化に抵抗し、コミンテルンにとっては邪魔な存在であったことから命を狙われたと理解できる。
また昭和二年四月二十日の大阪朝日新聞は、ロシア大使館で押収された秘密文書について報じている。この文書はコミンテルンで決議された支那問題に関する議決書に基づく訓令の一部である。

一、現在の支那革命運動を増大するに全力をもって注意し、それがため国民党を中国国民独立党とし、国民党の宣伝を有利になし拡大して、漢口らの事件とイギリスの各事件に対する態度を利用し反抗せよ。
二、張作霖軍の占領せる地域で欧洲排斥の叛乱を激成せしめよ
三、張作霖の異心を破壊し彼が各国の資本主義、帝国主義のために国民党を妨碍する旨宣伝せよ…中略…
五、あらゆる方法を設けて国民群衆の外人排斥を煽動し、その目的を達するため各国が国民群集に対し武力を用いその干渉を惹起させる方法を手段を択ばず徹底的に講ずべく、甚だしきは掠奪、多数の惨殺をも実行し、欧洲軍と衝突事件を発生すればその機を利用し煽動を実行すべし…中略…
八、欧洲人排斥運動を実行する時各国間の不協調が必要である。日本は最短時間に多数軍隊を支那に派遣し得るゆえ日本をして各国間と隔離することが特に重要である。この目的を達するため一切の運動において在支日本人に危害が加えられぬ様厳重に監視すべく、排外風潮煽動の時日本を除外するは不愉快の感を招くので必ずイギリス反対の運動に名義を藉るを要す。本案の写しは速かに各支部および指導委員に送附すべし(以下焼失)
(『神戸大学新聞記事文庫』外交87-142)
欧州人排斥をする場合は、日本軍を出動させないために日本人には危害を加えてはいけないなど、実に綿密に計画が練られている。国共合作軍は、最初は「反帝国主義」でイギリスを狙って漢口の英租界を武力占領したのだが、英国はすぐさま漢口と九江の英租界を返還して反英の気勢を削ぎ、さらに国共合作軍の蒋介石に接近して、反帝国主義の鉾先がわが国にだけ向かうようにさせる流れである。
話を張作霖に戻すが、戦後の通説では昭和三年(1928年)六月四日に起きた「張作霖爆殺事件」は関東軍が実行したことになっている。以前このブログで三度にわたりこの事件のことを書いたが、当時の現場記録やイギリスの調査報告などから判断すれば、疑うべきはまずソ連であろう。この事件の通説の矛盾点について興味を覚えた方は、過去のブログで三度にわたり記事を書いたので参考にしていただきたい。



わが国の学校及び大学における赤化工作
前回記事で大正時代からわが国で大学の赤化工作が進んでいたことが新聞で報じられていたことを紹介させていただいたが、昭和二年六月十八日の時事新報は全国の高校に於いても赤化運動が波及していたことを報じている。文中の「盟休」というのは、生徒が学校側に対する要求や抗議を掲げ、一斉に授業をボイコットする行為である。

第二高等学校の盟休事件に就ては未だ文部省には極めて簡単なる電報として「学生が決議文を提出した委細は書面を以て」云々という程度の報告があるのみで目下の処では学生側の言い分のみしか世上に発表されていない。従って文部当局も今回の二高事件が如何なる動機に発しているか明言を避けているが、既に粟屋文部次官が昨日の次官会議に於て述べている如く、所謂学生赤化運動の継続であることは疑いない模様である。而して今回の学生運動の範囲は単に二高のみでなく、全国高等学校二十五校に亘り殆んど一斉に東京、京都の左傾団体と連絡をとって巧妙に開始されたものであると云う。
即ち支配階級の羈束を脱するという思想を実現する為めに校友会を自分達の手に掌握するの必要を認め
第一 校長を以て会長とするを改めて校友会の会議は会員(学生、卒業生)の求により随時開き得るようにすること
第二 役員を自由に会員(学生卒業生)から選ぶこと
を最も主眼としたものと見られている
(『神戸大学新聞記事文庫』教育40-1-23)
第二高等学校は現在の東北大学の母体となった旧制高校だが、ここでは校長排斥を掲げて全学生が授業をボイコットして大騒ぎとなった。この記事には全国の高校で二十五校で学生運動が起きたことを述べているが、同年八月十四日の大阪朝日新聞にはこの年に入ってから各地で頻発した学生紛擾が列挙されている。

ちかごろ、学校騒動が全国的に増加する傾向があり、同時にその性質も次第に悪化してゆくように考えられる。少しく煩瑣に過ぐる嫌いはあるが、本年初頭から各地に頻発した盟休その他の学校紛擾を列挙してみると、まず大山教授留任運動にからまる早大紛擾を皮切として、大阪及び九州歯科医専の盟休相次ぎ、松本高女十六名同盟退学事件、彦根中学の校長排斥、真宗勧学院高等部の盟休、延岡商業盟休、東洋音楽学校の盟休があり、六月に入りては仙台における第二高校の校長排斥が大問題となり、松山高校また騒ぎ、香川農学校の昇格運動から盟休し、続いて朝鮮では新義州および京城普成高等普通学校の盟休事件あり、七月に入りては盛岡中学の紛擾、宮崎県高鍋中学の校長排斥盟休、山口県高水中学の盟休、お茶の水女子高師の紛擾など、目星しいものだけでも、かくの如き多数にのぼる。そのほか小さなゴタゴタ騒ぎは数えきれないほどある。
(『神戸大学新聞記事文庫』教育44-172)
このような学校騒擾が頻発した原因については、この記事では「教員生徒間の意見相違、誤解、感情の衝突、特定の教員に対する同情、または反感などの感情問題を主とし、かつ学校の内部関係に属する施設について生徒もしくは卒業生などの不服不満を発端としている」としているが、そのような理由で同じ時期に全国各地で同様な紛擾が起こることは考えにくい。

昭和三年(1928年)になって二月に普通選挙が行われ。労働農民党などの左派が議席を獲得したのち、三月十五日に日本共産党の大検挙が行われた(三・一五事件)。文中の「秘密結社」とは「日本共産党」を指し、「一大陰謀」とはコミンテルン指令下での日本での共産主義革命を指している。この事件は治安維持法の本格的な大規模適用例となり、日本共産党に大きな打撃を与えたことは言うまでもない。

三・一五事件に多くの学生や左傾教官がひっかかったことにより、文部省も重い腰を上げて問題となった学生の無期停学や教官の辞職を強く求めている。一方大学側は、当然のことながら自校関連の処分を最小限に止めようと動いている。結局、この事件を機に京大の河上肇教授、東大の大森義太郎助教授、九大の向坂逸郎教授、石浜知行教授、佐々弘雄教授、塚本三吉助手が職を辞したようだ。

同年の十二月八日の大阪朝日新聞に三・一五事件の被告人の学生数を大学別にまとめられているが、全国で百四十七人といっても氷山の一角にすぎず、コミンテルンによる教育機関への赤化工作はその後も引き続き行われていた。
わが軍隊への赤化工作
三・一五事件の取り調べの進捗により、赤化運動の背後にはコミンテルンによる指令があったことが明らかになり、大学や高校だけでなく陸軍や海軍に於いても赤化工作が行われていたことが解明されていった。下の画像は昭和三年四月十四日の神戸又新日報記事である。

共産党検挙後、各地裁判所では一味に就き厳重なる取調べを行ったが、取調べの進むにつれ端なくも重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽して直ちに、陸軍方面の関係者は種々協議中であるが、現役兵のことでもあり結局は軍法会議に廻されることとなるであろう。…中略…
共産党の細胞組織は極めて巧妙なる方法によって軍隊内及び官営工場等に浸澗せんとしている事実が明かにされたので、今後の対策を講ぜんとするものらしく今日まで海軍関係において共産党の魔手が延されておるものは舞鶴要港部工作部で、曩項の検挙に当って有力なる前衛分子六名の検挙を見た。その他横須賀佐世保呉各の海軍工廠でも徹域的に調査して居るが、目下の所では適碓な証拠が上っていない。
(『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-38)
前衛分子を数名検挙した程度で赤化運動が止まることはなく、その後軍隊の左傾化がさらに拡大していった。同じ年の昭和三年(1928年)の七月から九月にかけて、モスクワでコミンテルン第六回大会が開かれ、この会議において「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」などと書かれた決議が採択され、コミンテルンによるわが軍隊に対する赤化工作は一段と強化されていった。九月二十一日の時事新報の記事には次のように報じられている。

政府は過般の共産党事件以来、特に露国(ソ連)の赤化運動を重大視しその防圧に関して種々対策を講じているが、その後も第三インターナショナル(コミンテルン)の赤化運動は隠然猛威を逞しうし聊かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い漸次その背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。
殊に、最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。
(『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-6)
しかしながら、ソ連政府はコミンテルンと切り離されており、コミンテルンの為したことについてはソ連政府は責任を取らないというスタンスであったため、ソ連政府に厳重な警告を発したところで赤化工作を止めることは不可能であった。
コミンテルンは国内よりも満州の日本軍に対して、組織的に赤化工作を行っていたようである。昭和三年十月十九日の国民新聞は次のように報じている。

露国の対日赤化宣伝は日本共産党の検挙以来一時其鋒ぼうを潜めて居たが、最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、在支労農総領事並に地方共産党全部を指揮統括して赤化宣伝に当らしむる事に決定してより以来、再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、ハルビン労農領事館宣伝部は具体的宣伝計画の樹立に関し種々協議を重ねた結果、労農革命完成の経験に鑑み、直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り、
(一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
(二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し、世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加えて居るが、今後事態の推移如何に依っては閣内に於ても対露断交論が当然具体化すべき形勢にあると。
(『神戸大学新聞記事文庫』思想問題5-10)
文中のメリニコフはハルビン総領事の身分を持ちながら、実質的にはソ連の特務機関やコミンテルンの秘密工作を指揮統括する立場にあり、支那、朝鮮、日本の共産主義運動や工作活動を裏で指揮していた人物である。張作霖爆殺事件はこの記事が出る四か月前に起きた事件なのである。
戦後の歴史叙述においては、コミンテルンや共産党組織が第二次世界大戦に至る過程でこれまで何をしてきたかについて触れることは皆無に近い。しかしながら、当時の新聞報道や記録を読めば、この時代を語るのにコミンテルンの事が全く記載されないのは不自然であると思うのだが、読者の皆さんはどう考えられますか。
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