「張作霖爆殺事件」の真相を追う~~その1

張作霖爆殺事件

河本大作主犯説は真実か

 昭和三年(1928年)六月四日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い数時間後に死亡した。

 戦後の通説では関東軍の河本大作らが張作霖を爆殺したとされているのだが、戦前に於いてこの事件はどのように報じられていたのか。

昭和四年一月十九日 満洲日日新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫

 上の画像は昭和四年一月十九日の満州日日新聞の記事であるが、張作霖の息子の張学良が犯人を処刑したことが報じられている。曰く、

【奉天特電十八日発】張学良氏は楊、常両氏の処刑に就いて内外の疑念少からざるに鑑み種々の理由を発表せしめつつあるが、最近は共産党と通謀せりとの事実の外、左の事実あるを発表した。

鉄道問題の調印に対して張作霖氏は極力之を拒絶せるに拘らず楊、常両人は頻に此の承認を強要し、昨年六月四日張氏北京を撤退して秦皇島に到着せる際の如き人を遣わして強硬に調印を求め、張氏之を肯ぜなかったので遂に皇姑屯に於いて爆死せしめた

昭和四年一月十九日 満洲日日新聞 神戸大学経済経営研究所所蔵 新聞記事文庫

 一九三六年十一月二十四日付の支那国民党機関新聞の記事にこの事件のことが詳しく出ていて、井上清介著『男爵田中義一君小伝』p.49にその内容が紹介されている。それによると、客車に同乗していた交通総長・常蔭槐という人物が張作霖に食事を勧め、「食事の準備が出来たかどうか見て参る」といって、車室の外に出て爆弾のボタンを押したとある。このような報道が中国でなされていたことが、戦後のわが国でどれだけ伝えられていたであろうか。

加藤康夫『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45

 そもそも、この事件は奉天の西方の京奉線が、満鉄線路の下を通過した場所で起きている。満鉄はわが国の管理下であるが、京奉線の管理責任は支那にある。ところが、事件当時に現場付近には満鉄守備隊がいなかったことが問題となり、田中内閣は議会で厳しく追及されていた。一方支那の排日派からは、この事件は関東軍による犯行だと世界に宣伝されていたのである。

 蜷川新は『亜細亜に生きるの途』で次のように述べている。

 支那の汽車は、支那人に於いてその全秩序を維持すべきものである。いわんや大総統の乗れる汽車は、日本の権力の立ち入るべからざるを原則とし、支那人に於いて守るべきものである。彼に不可侵権ある以上は、彼に全責任あること勿論のことである。

 支那人のなせる支那の汽車内の事件について、日本側に責任のあろう道理なし。日本は支那の属隷たる国にあらず。支那人の警備する汽車内の事件について、日本側が、その犯蹟を操作する義務は断じてなく、権利もまたなし。触るる必要なし。

蜷川新『亜細亜に生きるの途』日本書院 昭和4年刊 p.260

 蜷川新の指摘の通りだと思うのだが、政府は関東軍を疑っていたようだ。浅野歳郎著『明治・大正・昭和志士秘録』には、次のように記されている。

河本大作(Wikipediaより)

『…あれだけ議会で反対党が政略的にもせよ騒ぎ、社会の衆目を惹いた以上、当局としては、なんかカタをつけなければならぬ。ぬれぎぬだからぬれぎぬだと、無茶に頑張ったのではカタがつかぬ。最初から世間から疑われた〇〇大佐が、事件の犠牲者となればカタはつく。こんな場合、文官だと喚きたてて往生際はわるいが、〇〇は軍人だけに立派に腹を切った。弓矢とる身の慣いとはいえ、思えば、不愍なものだったよ。』

『またゴマかされたような気がします。』

『ゴマかしではない。〇〇の、いさぎよい切腹ぶりが、こんど、満鉄理事として復活するもとになったんだよ。』

浅野歳郎著『明治・大正・昭和志士秘録』信正社 昭和12年刊 p.207

 その後河本大作は軍法会議にかけられることもなく、翌昭和四年四月には予備役に編入され、昭和七年には南満州鉄道の理事に就任している。張作霖爆殺事件の首謀者であるとしながら、その後の異例な処遇をどう理解すればよいのだろうか。

 『明治・大正・昭和志士秘録』によると、河本は事態を収拾させるために根も葉もない作り話をしたことになるのだが、このような「日本的な方法」で問題を解決したことが、犯人が日本側にあることをわが政府が認めたと世界に受け取られることとなり、支那の排日派を喜ばせることとなってしまった。戦後の歴史叙述は、関東軍主犯説でほとんど固められてしまっているのだが、河本の証言とされているものは現場の状況とは矛盾することが多く、誰でも嘘だとわかる程度のものである。この点については次回以降に書く予定である。

コミンテルンの工作員犯人説

 以前このブログで、大正期後半からコミンテルン*が世界的に赤化(共産主義化)を仕掛けていたことを書いたが、支那・満洲の工作には特に力を入れていた。そして張作霖爆殺事件は、コミンテルンによる工作であるとの説が、今世紀に入ってから発表されている。

 ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、GRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書**に基づき『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を二〇〇一年に上梓したという。その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルンの工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだが、邦訳書が出たら是非読んでみたいものである。
* コミンテルン:一九一九年から一九四三ねんまで存在した共産主義政党の国際組織。
** GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。

https://amzn.to/3zbzP0P

 二〇〇五年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」(上巻 p.301)と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に基づくものだという。

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia

 『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

 サルヌインは、一九二七年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった

 一九二八年六月四日夜(正確には四日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

 一九九〇年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879~1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという

 トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123 『正論』2006年4月号記事
Amazon.co.jp

 張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、一九二七年四月六日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関より暗殺の指令が出されたようなのである。

コミンテルン工作員犯人説を裏付けるイギリスの公文書

 ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

 先ほど紹介した加藤康男氏が、二〇〇七年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。

・【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
一九二八年七月三日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電

 (殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも四つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。

同上書 p.149

・【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ

a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた
b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
c. ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。…

 もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう

同上書 p.151~152、155

・【イギリス公文書館所蔵 一九二八年十二月十五日付外交文書】

 調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところ

同上書p.197

 ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることは注目に値する。イギリスにはこの事件について事実を捻じ曲げる動機はなく、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。

 また『GRU帝国』はイギリスの公文書公開よりも六年も早く出版されており、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの公開文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは重要である。

 加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。

 ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。

 イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
 こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない

同上書p.153

 当時のわが国政府は、なぜ関東軍による犯行ということで幕引きを図ったのであろうか。その点については次回の「歴史ノート」で記すことにしたい。

スポンサーリンク

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
   ↓ ↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

【ブログ内検索】
大手の検索サイトでは、このブログの記事の多くは検索順位が上がらないようにされているようです。過去記事を探す場合は、この検索ボックスにキーワードを入れて検索ください。

 前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しました。長い間在庫を切らして皆様にご迷惑をおかけしましたが、このたび増刷が完了しました。

全国どこの書店でもお取り寄せが可能ですし、ネットでも購入ができます(\1,650)。
電子書籍はKindle、楽天Koboより購入が可能です(\1,155)。
またKindle Unlimited会員の方は、読み放題(無料)で読むことができます。

内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。

コメント

  1. 井頭山人(魯鈍斎) より:

    こんばんわ
    この張作霖爆殺事件は日支事変の端緒の一つとなったものです。
    当初発表された爆発物は線路に仕掛けられたものでは無く、
    車内に密かに置かれた物であったらしい。連結した次の列車で
    頃合いを見計らってスイッチを入れたのであろう。或いはタイマー
    を使ったか。張作霖はそこで亡くなったのではなく、負傷して
    運び出された建物で殺害されたとも謂う。
    事件の首謀者は、当初、関東軍参謀河本大作大佐の指揮で関東軍特務機関
    が実行したと宣伝されたが不思議がある。河本はソ連の特務機関に通じていた
    謎の多い人物である。彼の友人には当時国粋主義者と目されていた大川周明が
    居り、河本の親密な友人だった。大川は国粋家を装っていたが本質はソ連に通じていた
    可能性の人物である。日本で初期にコーランの翻訳をしたが、大川の弟子に井筒俊彦が
    ゐる。この井筒も猶太に親い人物であり、大川と共に通じていた人物かもしれない。
    ドミトリー・ボルコゴノフはソ連戦史研究所の所長で哲学博士であり、軍人と謂うより
    学者という雰囲気の人である。彼の著作も何冊か日本語で翻訳が出ています。

    • しばやん より:

      こんばんわ。
      河本と大川が親密な友人であったとは初めて聞きましたが、根拠があればご教示ください。

  2. 井頭山人(魯鈍斎) より:

    それは大川が好くやった河本を激励していることです。河本は不思議な人物です。たぶん向う側(ソ連)に通じた人物でしょう。満鉄自体が赤の巣窟では無いですか?。敗戦後の当時シナで生きてゐたのに、復讐劇である東京裁判に召喚されて好い筈ですが、そうはなら成った。大川自体も右の仮面を被った左派の人物ではないでしょうか?陸軍幼年学校の卒業生で何事も無ければ将官に成ったはずです。山中峯太郎氏みたいなものです。ズーッと峯太郎氏の方が優秀ですがね。愛国者の峯太郎氏でさえ左の方に加勢した事もある。

  3. 井頭山人(魯鈍斎) より:

    Wikipediaがどれだけ参考に成るか分かりませんが
    それで「河本大作」を検索してみてください。
    河本氏の弔辞を大川氏が読んでいる、全文は掲載されずです
    プロホロフとアパグループの元谷氏の対談もある。

    • しばやん より:

      友人であったから思想が同じとは限りません。私の友人は右から左まで色々いました。
      弔辞の内容が読みたいところです。

  4. 井頭山人(魯鈍斎) より:

    Wikipediaに依れば1955年8月25日に72歳で死亡。
    1955年12月18日に第12次中共帰国船(興安丸)
    で舞鶴港に到着。翌1956年1月31日に青山斎場で
    葬儀、弔文は長年の友人であった大川周明が寄せた。
    *尚、この事件のソ連側の指揮を執ったのは
    ブハーリンであったという文を何処かで見た。
    もっと調べるなら大川の全集ほか関東軍と満鉄
    関係の書籍が必要。

    • しばやん より:

      大川周明全集は「国立国会図書館デジタルコレクション」で第1巻から第7巻まで読むことが出来ます。全巻・全文検索して調べましたが、河本対策に対する弔辞は1巻から7巻には存在しないです。
      紹介していただけるのはありがたいのですが、すべてURLを示してください。また「どこかで見た」とかいう話はコメントしないでください。

  5. 柳瀬俊一 より:

    貴殿の著書のkindle版の好循環を享受しています。 こんな書籍にも興味があります?と問いかけてきます。 それを選択してダウンロードすると読書対象がとても広がりました。数十年前の受験勉強で暗記した日本史や世界史とは異なる事実に驚きの連続です。

    • しばやん より:

      コメントありがとうございます。受験勉強の場合はまず教科書に書いてあることを無批判に丸暗記していましたが、社会人になると興味を覚えたことについていろんな視点からの本を読みたくなることがありますね。アマゾンなどではこれまでの読者の購買傾向から、あの本を買った読者はこの本にも関心があるというデータが蓄積されているようで、いろんな提案が届きますね。
      テレビや新聞は基本的に、戦勝国にとって都合の悪い歴史は書かない傾向にあるので今までなかなか気につかなかったのですが、本には通説とは異なる歴史が叙述されていることが多く、いろいろ勉強になりますね。

タグ

GHQ検閲・GHQ焚書228 中国・支那95 対外関係史82 地方史62 ロシア・ソ連60 反日・排日60 イギリス52 アメリカ51 神社仏閣庭園旧跡巡り48 神戸大学 新聞記事文庫44 満州40 共産主義40 情報戦・宣伝戦38 ユダヤ人36 日露戦争33 欧米の植民地統治32 軍事31 著者別31 神仏分離31 京都府30 外交30 政治史29 廃仏毀釈28 コミンテルン・第三インターナショナル27 朝鮮半島27 テロ・暗殺24 対外戦争22 キリスト教関係史21 国際連盟20 支那事変20 西尾幹二動画20 菊池寛19 満州事変18 一揆・暴動・内乱17 豊臣秀吉17 ハリー・パークス16 ドイツ15 大東亜戦争15 ナチス14 GHQ焚書テーマ別リスト13 海軍13 東南アジア13 紅葉13 奈良県12 西郷隆盛12 神仏習合12 アーネスト・サトウ11 陸軍11 フィリピン11 ルイス・フロイス11 倭寇・八幡船11 情報収集11 スパイ・防諜10 徳川慶喜10 大阪府10 松岡洋右10 兵庫県10 不平士族10 インド10 分割統治・分断工作10 フランス10 戦争文化叢書10 人種問題10 文化史10 奴隷10 リットン報告書9 寺社破壊9 和歌山県9 イエズス会9 伊藤痴遊9 ペリー9 オランダ9 岩倉具視9 自然災害史9 神社合祀9 欧米の侵略8 韓国併合8 A級戦犯8 ロシア革命8 関東大震災8 長野朗8 木戸孝允8 伊藤博文8 小村寿太郎7 ジョン・ラッセル7 山中峯太郎7 徳川斉昭7 修験7 ナチス叢書7 大久保利通7 飢饉・食糧問題7 ジェイコブ・シフ6 中井権次一統6 兵庫開港6 ロッシュ6 6 奇兵隊6 永松浅造6 ウィッテ5 紀州攻め5 ジョン・ニール5 高須芳次郎5 滋賀県5 隠れキリシタン5 大隈重信5 山縣有朋5 児玉源太郎5 武藤貞一5 台湾5 アヘン5 日清戦争5 第二次世界大戦5 金子堅太郎5 財政・経済5 5 匪賊4 F.ルーズヴェルト4 関東軍4 東郷平八郎4 平田東助4 南方熊楠4 大火災4 津波4 島津貴久4 フランシスコ・ザビエル4 阿部正弘4 堀田正睦4 水戸藩4 井伊直弼4 孝明天皇4 東京奠都4 井上馨4 福井県4 旧会津藩士4 小西行長4 高山右近4 スペイン4 乃木希典4 山県信教4 石川県4 西南戦争4 三国干渉4 日独伊三国同盟4 日本人町4 第一次上海事変3 第一次世界大戦3 張作霖3 ファシズム3 大東亜3 イザベラ・バード3 明石元二郎3 ガスパル・コエリョ3 レーニン3 伴天連追放令3 文禄・慶長の役3 竹崎季長3 フビライ3 プチャーチン3 川路聖謨3 日米和親条約3 安政五カ国条約3 薩摩藩3 和宮降嫁3 生麦事件3 薩英戦争3 下関戦争3 桜井忠温3 福永恭助3 菅原道真3 平田篤胤3 鹿児島県3 徳川家臣団3 士族の没落3 山田長政3 朱印船貿易3 藤木久志3 王直3 シュペーラー極小期3 静岡県3 督戦隊3 前原一誠3 明治六年政変3 タウンゼント・ハリス3 廃藩置県3 火野葦平3 柴五郎3 義和団の乱3 勝海舟3 高橋是清3 北海道開拓3 3 プレス・コード3 織田信長3 赤穂市2 大和郡山市2 小浜市2 斑鳩町2 張学良2 尼港事件2 丹波佐吉2 地政学2 国際秘密力研究叢書2 オレンジ計画2 ハリマン2 スターリン2 文永の役2 北条時宗2 弘安の役2 大友宗麟2 オルガンティノ2 ラス・ビハリ・ボース2 吉田松陰2 安政の大獄2 安藤信正2 オールコック2 大政奉還2 坂本龍馬2 王政復古の大号令2 尾崎秀實2 神道2 豊臣秀次2 島津久光2 水戸学2 文明開化2 板垣退助2 日光東照宮2 イタリア2 伊勢神宮2 三重県2 版籍奉還2 沖縄2 島根県2 大川周明2 鳥取県2 越前護法大一揆2 野依秀市2 富山県2 淡路島2 徳島県2 土一揆2 下剋上2 足利義政2 応仁の乱2 徳富蘇峰2 大村益次郎2 徴兵制2 足利義満2 仲小路彰2 懐良親王2 武田信玄2 江藤新平2 熊本県2 南京大虐殺?2 水野正次2 高知県2 大江卓2 福沢諭吉2 山本権兵衛2 領土問題2 2 南朝2 秦氏1 済南事件1 第一次南京事件1 浙江財閥1 蒋介石1 トルーマン1 石油1 廣澤眞臣1 山口県1 横井小楠1 便衣兵1 転向1 一進会1 蔣介石1 あじさい1 鉄砲伝来1 大村純忠1 シーボルト1 桜田門外の変1 重野安繹1 科学・技術1 徳川昭武1 グラバー1 後藤象二郎1 五箇条の御誓文1 伊藤若冲1 徳川光圀1 フェロノサ1 藤原鎌足1 徳川家光1 徳川家康1 香川県1 神奈川県1 広島県1 穴太衆1 岐阜県1 愛知県1 ハワイ1 長崎県1 岩倉遣外使節団1 東京1 宮武外骨1 宮崎県1 武藤山治1 大倉喜八郎1 日野富子1 加藤清正1 浜田弥兵衛1 大内義隆1 足利義持1 上杉謙信1 北条氏康1 北条早雲1 今井信郎1 佐賀県1 福岡県1 陸奥宗光1 鎖国1 尾崎行雄1 士族授産1 財政・経済史1 スポーツ1